2‐18 ネーヴィ
マーネは掠って血がツーと垂れる二の腕の傷口を乱暴に擦った。
最初の突きの位置は正確、マーネの動き出しがあとコンマ遅ければ心臓を一突きだった。
「栢……、あんたマジで」
マーネが話かけている時でも、栢が踏み込む。今度は先端が顔の近くを掠めた。
繋げて顔面目掛けて横に振る払われる銛を間一髪でマーネが上体を後ろに逸らし、手を地面にそのまま着ける。
かぶっていたキャップを落とし、隠していた耳を出しながらも、体操選手のようなきれいなバク転で栢の銛の範囲から抜けた。
「ねえ! 話聞いてってば!」
「それならちょいフリーズ、よろー」
聞く耳を持たない栢によってまた距離を詰められるマーネ。
栢の動きも銛を振るう速度も速く、鋭い。ただ、突きの軌道を読み切るのは獣人のマーネにとっては造作もなかった。今もマーネの目は銛がマーネの首の頸動脈を掻き切ろうと迫りくるのをはっきりと捉えている。
それよりも一か月も一緒にいた栢が手加減なしに殺しに来ていることが、後退して避けるのを強制させていた。
加えて、マーネが動揺させるのはなにも栢のことだけではない。
(なんで……なんで伸びてくれないの!?)
どこの異人よりもいうことの聞くこの身体が、マーネの意思に反す。他エリアの金属も裂くマーネの爪がなければ受けることができない。
一方的に回避するだけでは、やられるとわかっているのに。
「ちょいちょい、反撃もなしー? やっぱりズットモだし、できないっしょ??」
「うっさい!!」
爪が使えないマーネが繰り出したのは右足の回し蹴り。スピードが速いだけ、当てないだけの威嚇のつもりだった。
スニーカーの踵は栢が軽くのけ反った頬を掠めて、拍子にポリウレタンの黒いマスクが外れた。
それでも栢は無邪気に歯を見せる。
「やったなー」
食い裂き、捕食するための犬歯ばかりが並ぶ歯。
その顔でマーネの戦いたくないという意思にわかっていながら、栢は変わらず銛の切っ先を向けている。
威嚇したのはマーネだったが、逆に気迫で押されつつあった。
避けることは容易い。だが、詩ノ崎たちが駆け付けるまでに終わらせたい。
(気絶させる、戦えなくする、ならまず……)
マーネは後ろではなく、栢の突きを左右に避けながらホームの中央からずれていく。
そして、栢が横凪の攻撃を繰り出した瞬間だった。マーネは前へしゃがみ込みながら回転し、栢に背中を向けた。
銛はマーネの上体があったところを通過していき、同時に膝を曲げたマーネがその銛目掛けた後ろ回し蹴りを繰り出た。
身体の一回転による遠心力が加わり、銛はマーネの足に乗せられて等間隔で並ぶ石柱に重なる。
銛は抑え込んだ。支えていた軸足でさらに銛を蹴り上げることで、栢の手から武器を取り上げることに成功した。
「よし!」
空中にいるマーネは両手をついて一回転させて、後方へ飛んだ銛に触れさせないように着地。武器を失った栢はこれでただの生身の人間。身体能力の高いマーネが栢に当て身をすれば事を収められる。
バク転で地面に向いてた視線を前に戻すと、すでに栢は銛を追ってマーネに突進をかけようとしていた。
「ムダ! 力勝負ならあたしが上でしょ!」
「あれ、あーし言ってなかったっけ?」
マーネは腰を落として栢を受け止める。
一歩も動かすこともできなかった栢だったが、大口を開けるとマーネの肩に噛みついた。
「イッダッ!!」
栢の露わになった真っ赤な犬歯が、マーネの肉を容易く食い込む。返り血が栢の口から頬、顎にかけてべっとりとついた。
たまらず栢を両腕で押し出し、深々と歯型がついた噛み傷を押さえる。
「ん……あ……」
「少なかったけどじゅーぶん」
両者の湿った服に赤が滲む。
返り血を拭わない栢は目を爛々とさせているのに対して、マーネは肩から流れる血が左腕から指先のネイルまで垂れていく。
獣人は身体能力もさることながら平時なら他の異人よりも治癒力もある。この深さの傷なら一分あれば、左腕が使えるまで回復するはずだ。
ただその前に栢はじっとするわけもなく、再度負傷したマーネに突進をかける。
「なめんな!」
意地をみせて、マーネは今度も受けようと腰を落とす。
だが、栢は左へマーネを避けて通り抜ける。マーネの右手は栢にも触れられず、左腕も肩を噛まれて上がらず遮れない。
慌ててマーネが栢に振り返りながら身体を脚力任せに当てるが、
「マネちん軽―い」
軽口を叩く栢はぶれず耐える。
力勝負に負けて弾かれたマーネは倒れることなくすぐさま体勢を戻すも、栢はすでに銛を拾い上げてマーネと向かい合っていた。
「とりま、再開ね」
栢が上がっているのは力だけではなかった。
振り出しに戻されてマーネはもどかしくなる一方で、栢が振り回す銛はさっきよりも速く、鋭くなり、余裕のなくなったマーネを襲う。動体視力は変わっていないが、身体はなんだか鈍い。ギリギリで避けていたはずの銛がマーネの身体中の薄皮に赤い線を引いていく。
「ちょ、はや……あ」
後退し続けるしかなかったマーネの背中に何かが当たる。一瞬目をやればそれは武器を取り上げるために利用した石の柱であり、目の前の回避を遅らせた。
横に身体を動かしたときにはマーネの横腹には銛が突き刺さる。腹から背にかけて貫通し、銛先が石の柱に届いた。
叫ぶのを抑えて唇を噛むマーネ。柱を支えにしようにも足は踏ん張り切れず、背中と銛先を柱にもたれながら沈んだ。
「これであーしのかち」
歯を見せて見下ろす栢が、弱るマーネの身体を踏みつけて銛を持ち換える。マーネは右腕の膂力だけで抵抗するも、遅らせるだけで血の塗られた銛がマーネから抜かれていく。
銛には獲物から外れないようについているかえしが、マーネの内臓と肉をさらに傷つける。
「あああああああっ!」
苦悶で叫ぶマーネから血を吸った銛を抜き出すと、栢が服と体に挟んで拭き取った。
「ねー? ホントにマネちんつけてんのモノほんのケモミミ? 弱すぎね?」
肉を切り裂き、腹に開いた穴から血が止めどなく流れる。
マーネが苦しい息遣いで、傷口を手で抑えた。自然治癒で止まってくれるのか、マーネには今まで経験したことのない傷の深さだった。
ただそれよりも、マーネが危ぶんでいるのは栢の動向だ。
「うーん、あとはなー。やっぱ鍵がないと開かないっぽいしー。マネちんが持ってればなー」
ブツブツと独り言をつぶやきながらマーネをチラチラ見る栢は、自分の思考とマーネしか意識をしていない。
なぜ急に身体能力が上がったのか、天倉にはいないとはいえ、浮人のことを全く知らずに依頼を受けたのが良くなかったのだろう。これでは戦闘不能にするどころか、悪事を止めることもできない。
ただ幸いだったのは、マーネのやってきた方向からしているから、何かの物音がマーネの垂れてしまった猫耳に入ってきたことだ。
(カイ……)
詩ノ崎は殺さないとはいえ、殴るしか能がなく荒っぽい。
だから、詩ノ崎よりも手心を加えて、止めてやりたかった。何にせ身内である以上、止めるのがマーネの仕事だから。そう思うと、小さいが頭に冷静な部分ができてくる。
動きが速く見えたのは自分の動揺でそう見えただけだろう。力負けしたのは身体を噛まれたからだろう。全体を通しても身体の動きは前に戦った氷人よりもキレがあっても、目で動きを追えるなら無傷の獣人の身体能力には届いていないはずだ。
……時間を少し稼いで速攻で治せばまだ自分で無力化できる。
「とりま、とりに……、ん?」
ここから立ち去ろうとする栢の背中を見て、マーネが痛みを我慢して右手を地面に着けたが、
「……?」
栢が何かに気づいて、ホームから線路に首を動かした。
気づかれた……、いや音の方向が地上に繋がる階段からではなく線路から。マーネの聞こえ続ける音が鮮明になっていき、期待しているものとは違うものだと気がついた。
耳にしているのは風を切る音。それがホームに通じる改札口からじゃなく、明かりのない地下鉄が通過しなくなった暗いトンネルからホームまで反響している。
「なぁにかな? もしかしてお仲間?」
違う、これにはあるはずの足音がない。明らかに地には足をつけず、空中を丘柵駅のホームまで一直線に移動している。詩ノ崎どころか、天倉の中にそんなことができる人はいない。
……ならば一体誰が?
「よぉネーヴィ、元気にしてたか?」
男の声が頭上から、二人に影をつくる。
マーネが見上げれば、翼を生やした人間が栢を冷たい視線で見下ろしていた。
対峙した栢はイレギュラーな存在に残念な表情もせず、ただ友達に会ったかのように笑顔を見せた。
「あーあ、おひさラーフ」




