2-14 サンプル・リターン③
見下ろせば、落ちれば希乃といえども、しばらく身体を動かすことができなくなる高さ。安全装置もつけていない生身で空を飛ぶ希乃では、悲鳴をあげることさえ余裕がなかった。
幸いなのは、誰もこの姿を見ていないことだ。広げる傘が視界を遮り、昨夜から降り続ける曇天を見上げようとは思わない。
希乃は自分に向かって降りかかる雨と風の冷たさに堪えながら、必死に片方の趾にしがみつく。
「おい、なにやってる! ひよっこぉ!」
「わ、ちょっ」
オオタカにとって意図していない飛行。希乃は手が切れそうな鱗がついた趾に両手で握るも、雨でズルズルとよく滑る。
落ちまいと希乃が握り直して力んだ体を横へ揺らせば、悪天候も相まってオオタカの飛行がさらに大きく揺らいだ。
建物より高かった高度も徐々に下がり、ついにはどこかのマンションの屋上に不時着した。
「うわっ!!」
希乃は投げ出され、肩にかけていたカバンを放り出して水溜りだらけの地面を転がる。
勢いが止まると、仰向けになって希乃は「うっ」と全身の打撲に呻いた。顔に上空からの雨粒が当たる。
(なんだかこればっかり)
今年に入ってからもう何回目だろうか。
希乃が慣れたくもない痛みを我慢して起き上がろうと手をつきかけたが、その前に制服の胸倉を掴まれて立たされた。
一緒に不時着したオオタカが先に起き上っていた。
「ひよっこが、貴様死ぬ気か!!」
肩で呼吸をするオオタカが希乃の顔に近づく。
希乃が「苦しい……」とオオタカの腕を叩くも、激しい剣幕を見せるオオタカの力は弱まらない。
「この高さで落ちればただ済むと思ってんだったら、随分と貧相な想像力だな。俺が蹴り落としていたらどうするつもりだ!」
「でも、私を、落とそうとしなかったじゃないですか」
「当たり前だ! 貴様が死ねば、俺の身がどうなるかわかったもんじゃないからな!」
オオタカが希乃を地面に叩きつけるように離すと、むせる希乃を睨みつけた。
殺してやろうかと圧が出ていてもオオタカには恐れがあった。昨日の今日で詩ノ崎にやられた恐怖は忘れていない。
「面倒な奴をひっかけたか、くそ」
忌々し気にオオタカは呟き、しゃがみ込む。
無茶な飛行で疲労が来たのか、息を整えようとするオオタカに希乃は遠慮もせず聞いた。
「それよりなんで飛んだんですか、ちょっと強引過ぎません?」
「……自分が安全とわかればこれか」
「はい、私には手は出させそうにないようなので」
希乃が自力で立ち上がる。今のオオタカは希乃には小さく見えて、強気でオオタカに臨めた。
「俺を引きずり下ろしただけで調子に乗るなよ、ひよっこが。無関係のお前がこれ以上首を突っ込んでいいことじゃない」
「いいえ、もうこの期に及んで関係ないとは言えませんよ」
「……あ?」
聞き返すオオタカが希乃の顔を一瞥すると、希乃は交互にオオタカと自分を指さした。
「警察でオオタカさんが変身した姿を直接見られました。もしかしたら防犯カメラにも収められたかもしれません。異人のオオタカさんとそこに一緒にいた私、もうお互い追われる立場ですなんですよ」
一般人に異人であることを証明するものを残したオオタカも財団に追われることになるだろう。
加えて、希乃は警察署で制服を見られて、生徒手帳も落とし物に確認のために見せている。オオタカよりもずっと簡単に探られる。
そこに異人の情報を統制する財団が仲介に絶対に入ってくる、それも希乃とオオタカにとって最悪の形で。
「……だ、だからどうだというんだ。俺のせいと言いたいのか」
オオタカは狼狽してそう吐き捨てた。
希乃も焦りたいが、事態が大きくなってしまったからなのか、それとも雨に当たり続けているせいなのか余計に頭が冷めていく。
「はい、無関係だった私を巻き込んだ以上、守ってくれないと恥ではないんですか」
オオタカが顔を背ける。顔色は青くなり、背中はさらに小さくなったようだった。
希乃は放り出したカバンのファスナーを開ける。水気をすって山谷を繰り返す教科書をどかして取り出したのは予備の折り畳み傘だ。
大して大きくもないそれをオオタカの頭に差しだした。
「でも、オオタカさんが追ったということはロケットペンダントになにかあったから……ですよね?」
「…………」
この短い期間だが希乃はオオタカのことをある程度はわかった。強引なところはありつつも、ラーフとしての矜持というのがあるらしい。
暴力が自己の欲を満たす手段ではないということだ。この人の怒りには明確な目的があるのが希乃には見えた。
それでもオオタカはまだそっぽ向いたままだ。
「……ダメだ。目の前で起こったことはひよっこを通して天倉の長に伝える。そうすれば財団の奴らにも伝わるのも時間の問題だ、そうだろう」
「それなら解決するまで誰にも連絡はしません、事後も無事解決できれば言いませんよ」
「来てどうする? 威を借りるだけのひよっこが何ができるんっていうんだ」
「お手伝いならできますし、もしものときは壁になって役に立てます」
「死ぬぞ」
「死にませんよ、そう簡単には」
キッパリと言い切る。高校生で童顔の希乃には似つかわしくない冗談ともとれるが、はったりではない。まっすぐ見据えた目で見れば、見上げたオオタカと目が合った。
「子どもを、壁になんてさせてたまるか」
オオタカは頭上の傘を手に取った。
立ち上がるオオタカは、希乃の頭も傘の内側に入れる。
「いいだろう当理希乃。ラーフとして、お前を守ってやる。……ただ勝手に死にに行くことは許さんからな」
「わかりました、契約成立ですね」
希乃が目を細めて笑うと、オオタカは固くなっていた口角も少し上がったようだった。
……
…………
……………………
希乃とオオタカはマンション横にある雨が入り込んで濡れた鉄製の非常階段を滑らないように下る。
鍵はかかっていたがオオタカの蹴りで開けた。ここではオオタカの翼は使わず、普通に足で移動している。
理由は単純、目立たないからだ。
「これからどこに向かうんですか?」
オオタカは立ち止まると、無言でさっき警察署にて取ったロケットペンダントを渡した。
これがオオタカの言う大事なロケットペンダントなのだろう。澄んだ青色だったものは霧がかかったように白っぽく傷だらけだ。中身を開けたが、希乃が拾ったものと同じ二人組の写真、ただしそれよりも色褪せていた。
「この写真って同じのですか? 特に不審なところは……」
「そこじゃない、写真をめくってみろ」
確かに、よく見れば使い古されてもきれいに楕円状に加工された写真は一か所だけが歪んでいた。
傷つけないよう慎重にめくればロケットペンダントの中身は伽藍洞だ。しかし滅多につかない内側の壁面にも傷があった。
ただの傷ではない、意図的に細い傷を何度もつけて文字が作られている。
模様がついた魚と鳥に並べられた法則性、浮人の言語だと希乃は直感した。
「それは俺たちが使っていた暗号文だ」
俺たち……、浮人の中でもラーフという種族が使うということなのか?
希乃はなんとなく最近テレビで観たスパイ映画を思い描いていると、オオタカが希乃の持っているロケットペンダントを摘まんだ。
「悪いが、これも解き方は言えない……ただそうだな、解読コードは三、とでも言っておこう」
「なんて書いてあるんですか?」
希乃の質問に、オオタカはロケットペンダントに刻まれた文字を眺めて眉をあげる。
「『4ニチゴ オカサクエキ』……全くもってふざけてるな」
オオタカがつまらなそうに笑う。
写真でその文字を隠すと、片手でロケットペンダントを閉めた。
『4ニチゴ オカサクエキ』――、 “四日後に丘柵駅に来い”ということだろう。希乃はそう暗号文を咀嚼した。
「四にちごってたぶん四日後ってことですよね? 誰かに向けられたメッセージだったら待ってるってことですか」
「さあな、だが最低でも誰かはいるだろ」
落とした日付から一か月は経っている。今日までそのメッセージを残した人物がいるかも定かではないのだ。
しかし、オオタカが言うことも間違いない。
希乃とオオタカが読む前に警察署でこのメッセージを読んだ誰かがいる。それもほんの数時間前に。
「それにしてもひどいですね、こうも傷つけられて外側もボロボロですし」
相手と会うための道具として盗まれたロケットペンダントが使われた。オオタカにとって探してほしいと頼むほど大事なものをこうも使われては面白くないはず。
しかし、存外にオオタカはあっさりと流した。
「側は気しなくていい、そいつは元からだからな。それよりもこのオカサク駅ってやつに急がないとな」
自分のコレクションに対して取り戻してやるという執着がなかったことに希乃は引っかかりを感じた。
よくよく思い出せば、オオタカが本当に取り戻したかった傷ついたロケットペンダント。それは、詩ノ崎に白状したときにも言っていた。
(そういえば……、警察署でロケットペンダントは真っ先に中身を見てたよね)
オオタカはコレクションよりも傷ついたロケットペンダントを気にかけていたが、そのロケットペンダントの傷よりも真っ先に中を確認していた。
今さっき希乃が見た中は、色褪せた写真一枚嵌められただけだった。
(もしかして、ロケットペンダントを取り戻すことじゃなくて……その中身?)
盗まれたコレクションを今になって気にしていないのは中身があるロケットペンダントが大事だから。
写真の裏側のメッセージに気がついたのはその中身があるか確認したから。
オオタカに問わないといけないことが増えてしまった。ただこれは、誰にも話さないと約束したといえど黙秘されそうな疑問だった。
「おい、聞いてるか希乃」
「え、あすみません、何でしたっけ」
ぼーっとしていたようにも見える希乃に、オオタカが苦い顔を見せる。
「頼むぞおい、俺はその“オカサクエキ”って地名なんて聞いたことがないんだ。ここから近いならいいが、たぶん距離があるだろ」
と言われても希乃もここがどこかはわかっていなかった。警察署からめちゃくちゃな飛行をしてしまって行きついたのは知らないマンションの屋上だ。降りている階段は三方向を建物が取り囲んで、見える風景は制限されていた。
ようやく下り終わって、マンションの影から周りの建物を見る。偶然近くの地下鉄の出入口を見てここどこかの場所の把握ができた。
警察署からは車で行かなければいけないくらいには移動していた。
「砂洋駅の隣なんでここから五駅先ですね、歩いてだとかなり時間かかりますね」
「少し遠いな、空から行けば楽なんだがな」
オオタカが空に恨み節を呟く。希乃としては言っていることを実行できなくてよかった。
行き方は変えなければいけない。オオタカが乗ってきた車は警察署の近くに停めてあるし、徒歩にしては距離がある。
書かれている丘柵駅に最速で行くには――。
「地下鉄に乗りましょう、砂洋駅で降りれば早いです」
一直線に向かえる空を飛ぶには遅いが、車よりは早い。地下鉄が使えない残りの距離はタクシーでも拾えばいい。
それに地下鉄の出入口は目と鼻の先にある。
オオタカは「そうか」とひとまず理解を示した。地下鉄の繋がる地下へ潜り、改札口横にある券売機の前で足を止める。途中でぶつ切りにされた短い路線図を見れば、やはり砂洋駅までは五駅、十五分はかかるだろう。
「おい、ここにはオカサクエキなんて場所がないんだが」
「それはそうですよ、本当だったらこれ一本で行けましたけど、あそこはもう使われてませんから」
希乃が定期券のICカードを券売機に入れて、残高を確認する。定期範囲外のここから中間地点の砂洋駅までは前にチャージした分でも足りそうだった。
さあ行こうと希乃は振り向こうとしたとき、今の会話ではたと気づいた。
「もしかしてですけど、オオタカさんって地下鉄を使ったことってないんですか?」
いやまさかとは希乃でも思う。だが、さっきまで警察署も知らなかったくらいだ、地下鉄とか電車の類を知らないのではないということもあり得そうだった。
今も棒立ちで希乃を眺めるオオタカの目がきつくなる。
「……馬鹿にしてるのか?」
流石にわかっているみたいだと、嫌な顔をされて希乃は安心する。もしかしたら単に利用したことがないだけなのかもしれない。
「それならパスモかスイカは私みたいに持ってますか? ないなら次の来る前に早く切符買わないといけませんし……」
そこまで説明をして希乃は目の前の異人が説明についてきているか、突然不安になって言葉を切ってしまった。
妙な間が空いてオオタカは顔色一つ変えずに言い放った。
「金とるのか、これ」
「え、そこからですか」




