1-16 想像するは……
希乃とヒナピリウルは跡地の中の建物で偶然腰の高さまで開いたシャッターをくぐった。
差し込む光は遠慮をしているようで、店内の闇とヒナピリウルの影との境界を曖昧にする。懐中電灯を持たない二人にはここが何のお店だったのか、周りと負けず劣らずの大きな建物としかわからないが、追手から息をひそめるには適していた。
「はぁ、ここなら大丈夫でしょ」
希乃は埃っぽいタイルに座り込んだ。全力疾走を続けた足に熱がほとばしり中々冷めやらぬ。
「ルルも座った方が良いよ、ここで少しやり過ごしてから動くから」
「やり過ごすって、これから、どうするの?」
ヒナピリウルは座りもせず身震いしながら聞き返す。
「そうだね、見つからないように戻るか、どうにかして連絡して助けに呼ぶか……。どっちにしても跡地から抜け出さないと何も始まらないね」
「ぬけだせる、の?」
ヒナピウルの不安が目を介さなくても伝わってくる。
常に怖がりながら動いている彼女に、希乃は悟らせないよういつもより気丈に振る舞う。
「いけるよ、当然。ここは広いからそう簡単に見つかりっこないよ」
「でももし……、もし、みつかったら」
「そのときはそのとき、さっきみたいに撃退するから安心してよね」
「そう、なの……」
安心したのか、ヒナピリウルの影が壁にもたれて希乃の体に押しつけながら隣にしゃがみ込む。そして、いつの間にか回収していたマーネのキャップを脱いで大事に抱えた。
「だ、大丈夫? もしかしてどこか怪我しちゃった?」
「いや、そうじゃない、の。ここ、くらすぎて、なにも、みえなくて」
そう言いつつもヒナピリウルは掴まれた右手首を押える。
「さっき、とばした聖水……」
「聖水? ああ、かけたやつね。あれね、本当は配達物なんだよね。他エリアのものだから地下水に入ってなければいいんだけど……」
「そうじゃ、なくて、かかったのに、平気なの?」
希乃は目を点にする。レインコートの男に飛ばした聖水は飛沫となって希乃にもかかっている。衣類には材質関わらずシミを作り、髪にもまだ水滴がついていた。
「え、あ、これ?」
希乃は何でもないように濡れている髪を手櫛でとかして水分を軽く払う。
「何ともないよ。さっきの人よりかかった量が少ないからじゃないかな。ルルもかかったでしょ」
「そうだけど……、あれって、聖水でしょ、賢者様のちからの、みなもと」
「どんなのかルルも知ってるんだ」
「……1ではじょうしき、しかも、あれって、とてもあぶなくて、きしょうなもの、なのに」
もちろん、希乃も知っている、だから躊躇なく撃退のために使ったのだ。
本来の使い方は体にかけるものではなく、使用者である賢者が小分けにして飲み、腹にため込む。希乃も過去に二回も口にしたことはあるのだが、慣れない一回目はわかっていても吹き出してしまうほど辛い。
「けど、必要な人がいるから。私が使っちゃったけど」
「よかった、の、つかって」
「前にも言ってたでしょ、使える物は使わないと失礼だって。あそこで使わないとルルが危なかったよ」
「……ひとりでにげることも、できたのに」
「なんで?」
今度こそ希乃にはヒナピリウルの言っていることがわからなかった。
「あそこでルルを見捨てるわけないでしょ、見捨てたら私以上にルルが傷つくもん」
「そう、だけど……」
言葉の続きをださず、それっきりヒナピリウルは無言になった。疲れたからなのか、口からでるのは呼吸の音だけ。
しばらくして希乃は何もない闇に包まれる天井を仰いだ。
(さて、どうしよう……)
起こったことをヒナピリウルに聞かれないために目を閉じて頭の中で整理する。
天倉との連絡を絶たれ、逃げ込んだ先は人がいない且つ寄りつかない跡地。正確な現在地と時間はわからず、スマホに加えてリュックと配達物を先の逃亡で置いてきてしまった。
敵の素性が異人であること以外手がかかりなし、そもそも希乃自身に追いかけられる覚えがない。
(なんにもわかんないなー)
一方でわかったことと言えば、追手の目的だ。
さっき襲ってきた男は殺傷道具を持っていなかった。ただ追いかけて捕まえようとする仕草と、乗ってきたであろう大きめの車でおおよそ見当がつく。
そして、狙いは希乃ではなくて……。
(どっちにしても、逃げるのは変わらないね……)
そう思うと走ってもいないはずなのに、急に心臓の鼓動が速くなった。
非常事態のこの状況、希乃にとっては初めてのことではない。価値観の違う異人との仕事をすればよくついて回る。
なぜかと思い返せば、隣で感じる体温がより鮮明になり気がついた。
いつもの心強い味方はいない。そして代わりに希乃がその役目を請け負わなければならないのだと。
(詩ノ崎さんもこんな気持ちなのかな……)
初めて守る立場に立って、恐怖が身を包む。
大丈夫だ、ここには来ない。聖水を地面に垂らして逃げ場所を教える失態も犯していない。
大きく息を吸い、大きく息を吐く。
普段はしない深呼吸でなんとか落ち着かせるよう試みる。落ち着いたヒナピリウルに聞かれるわけにはいかなかった。
(そろそろ……)
目をゆっくり開けて、隣に寄りかかっている黒い影に声をかけようと視線を移した。
しかし、さっきまで高鳴っていた心臓が一瞬止まったかと思うくらいに希乃の全身が強ばった。
ヒナピリウルに薄い痣が浮かんでいたのだ。全身の肌のみならず髪も爪も、ヒナピリウルの遺伝子が存在する全ての細胞が一筋も光が差さない店内に淡い蒼い光を放つ。
紛れもなくいつぞやの部屋で見てしまったものだった。
希乃が知らない輝人特有のものか、居るのがバレるのではないか、下手なことを考える前に希乃はヒナピリルの体を揺する。
「ルル?」
名前を呼ぶと蒼い光はすぐに消えて、来たばかりの暗い店内に戻った。
ヒナピリウルの顔の影がそんなことも知らずにモソッと動いたの感じると、気のせいだったのではないかとも思ってしまう。
でも、ここで突っ込めばまた拗らせてしまうかもしれない。今はそんなことよりも逃げることを優先させたかった。
「もうそろそろ行こう」
「まって……」
ヒナピリウルが立ち上がろうとする希乃の腕を引く。
「もうちょっと、このままに、させて」
「……わかった。もうちょっとね」
このときには希乃の目は暗闇に慣れていた、ヒナピリウルは眠っているように穏やかな表情であった。
希乃もそうしたかったが、研ぎ澄まされた意識ではそれも出来ない。それでも休めるために壁に倦怠感が滞留する身体を押しつけ、奥に広がる深い闇を見つめる。
希乃の脳に止めどなく思考が激流となりどこか引っかかってしまいながらもひたすら打開のために働いている。無言の時間に精神を蝕む不安を紛らわすにはこれしかなかった。




