1-11 無理由
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ヒナピリウルが目を開けると、カーテンが薄らとした灯りとなって部屋は眠るときほど暗くはなかった。
上半身だけ起き上がらせカーテンをめくれば広い空に明かりはなく、三階から見下ろす無人の道は冷たい黒色に塗りつぶされている。
それを確認するとヒナピリウルは窓から離れてもう一度目を閉じ、意識を集中させた。
回想すれば、お手伝い初日はヒナピリウルにとって刺激的だった。
仕事としてやった掃除と運搬。エリア1にいた時とは違う筋肉を動かして、横になってから眠りに落ちるまで時間はかからなかった。
接客もやった。わかったのは、人間は多種多様であることだ、誰をとっても外見と中身が違う。
天倉の人間もしかり、詩ノ崎は大型動物みたいにでかい見た目なのに誰よりも優しいし、マーネは華奢なのに威圧的で未だに近くにいるのが怖い。
そして、芸術というものを初めて見た。今思い出しても溜息が出る。
何を表しているのか文字が読めなくて全くわからなくても、綺麗なのは心でわかった。
(ここの言葉をしっかり覚えればもっと楽しいのかな……)
乱れたベッドの上でそう夢想してゆっくりと目を開ける。確認したいことは終わった。
天倉の外に出るため、音を立てないようヒナピリウルの部屋を出れば、暗い暗い寝静まった廊下。付けられた窓一枚では光源として心許なく、ヒナピリウルの瞳には月のない夜闇と大差ない。それでも希乃から教えてもらったおかげで手探りだけで三階から二階、二階から一階へと何事もなく進められた。
けれども、倉庫の鉄扉に手をかけたとき、ヒナピリウルに想定外なことが起こった。
(鍵がかかってる……)
引っ張っても、押し込んでも扉は動かない。希乃が教えられたときは荒れてる部屋でとても鍵をかけるようなところには見えなかったから、てっきり開いているものかと。
あと外に繋がっている扉はお店の出入り口だが、閉店時間に横目で見ていた。戸締まりに使っていたのは板状の鍵だ。
息を漏らし、がっかりして部屋に引き返そうとしたそのとき、後ろに気配を感じた。
察知したヒナピリウルが隠していた俊敏さでつま先を百八十度回転、その気配の横を走り抜けようとする。
しかし、担がれるようにしてあっさり捕まってしまった。
「わわっ!」
抜けだそうと試みるが、宙に浮いた手足が空を切るだけで大木のごとく感じる太い腕からは逃れられない。
ヒナピリウルは逃げ隠れには自信があった。なにせ”獣人”であるマーネに間違えて襲われたときは難なく逃げられたから。
エリア7の異人 ―― 獣人は輝人より瞬発力があって膂力も兼ね備えた、身体能力がとにかく高い異人だとエリア1の先人に教えられた。
その異人から無事に逃げることが出来たなら、それより身体能力が劣っている異人から逃げ切ることができる。
ましてや、ここは世界群の中でも身体能力が平均以下だと聞いたし、実際に動きを確認したからには捕まることはない、ヒナピリウルはそう感じていた。
だから、余計に自分を担いでいるのが身体能力の劣る詩ノ崎だと信じられなかった。
「朝っぱらから何してんだ?」
ヒナピリウルは首だけを後ろに向くが、陰になった後頭部しか見えない。けれども厳しい声色ではない。
いつも通り黙っているか、それとも正直に話そうか、ヒナピリウルは選択に迷って舌が口の中で固まってしまう。
「ここも一応は商売してっからな、下の防犯くらいはちゃんとしてるよ」
詩ノ崎は空いた片手で動かなかった鉄扉から小気味良い音が鳴らされると、抵抗を諦めたヒナピリウルを抱えたまま倉庫の中に入った。
「な、なにを……」
「ん、俺か? 俺は仕事だ、今やっとかないと朝の支度とぶつかって面倒なんだよ」
「いや、そうじゃなく、て……」
聞きたかったのは倉庫に入れて自分になにをするかであって、詩ノ崎がここに降りてきた理由ではない。
倉庫に明かりを点ると、ヒナピリウルを作業台に優しく下ろした。
なにかされると思っていたヒナピリウルは「えっ」と口に出した。
「いためつけたり、する、つもりじゃ……」
「そんなわけあるか、九十九にからでも聞いたのか」
鼻で笑った詩ノ崎は、昨日にはなかった段ボールの山をかぎ分けて外に繋がる両開きのドアをいじりだす。
「一時的に香織の依頼で預かってはいるが、お前はうちの従業員だ。粗末な扱いなんてするかよ。他の奴らだってそうだ、ああ見えてやるときはやる。でなきゃうちで異人なんて雇えねぇからな」
詩ノ崎の信頼しきっている言葉。懐疑的だったヒナピリウルにはとても信じてみようとも思えない。そんなもの幻想世界のものだと、不安が拭えないのだ。
詩ノ崎はそれを見透かしたのか続けて、
「俺らのことをまだ信用仕切れないってのはわかる、まだ会って今日で二日だしな。……倉庫までなにをしたかったかは、俺はこれ以上聞かねぇよ。もちろん他の人にも内緒だ」
と開け放たれた鉄扉から離れて倉庫の奥になにかを取りに行ったと思えば、段ボールを重そうに抱えてヒナピリウルが座っている作業台に置かれた。
ヒナピリウルはずしりと平らに積まれたものに目を見開く。
「これ……」
「画集はこれの他にまだある。今日は希乃もいねえからルルも休みだ、これでも読んで時間を潰せ。俺らは今日も仕事だからな」
ヒナピリウルは一番上の画集を手にとってページを開く。前に見たものと変わらず焦がれた絵が描かれているが、これは所々に書かれる文字が多い。希乃達が読んでいる言語だとわかっても一文字たりともヒナピリウルにはわからなかった。
上に積まれた画集をずらして別のを開いても、文字は樹の根っこ以上に絡まった図形が並んでいるだけにしかやっぱり見えない。
「今度エリア1の辞書も持ってくるから、日本語の勉強はそのときだな」
(……ジショ?)
また知らない言葉が出てきた。画集と似た書物だろうと思ったが希乃が使っている言語がわかると思うとヒナピリウルには些末なことだった。
熱心にヒナピリウルが積まれた本を眺めていると、作業台に座るよう寄りかかった詩ノ崎が慎重に切り出した。
「……一応これは本当は売り物になるものだったんだ。これを買うには金がいるんだよ、わかるか?」
「カ、ネ…………おかね!」
持っていた画集が手から離れてバサッと倉庫の床に落ちる。
初めて聞いたのは昨日の昼だ。接客のときは変わったものを使っているとしかで、気にも止めていなかった。
「い、いちまいも、もって」
「いや、ルルからは取らないし給料から天引きもしないから安心しろって言いたかったんだが」
詩ノ崎はページが折れてしまった画集を拾って軽く土埃を払うと、平積みされた本に重ねた。
「もしエリア3に住むつもりならお金が必要になってくる、そのためにとっておくといい」
「でも……」
ヒナピリウルは断ろうと言葉を探した。
“仲間”という単純な理由だけで詩ノ崎が良くしてくれるのがヒナピリウルを悩ましている原因だ。
まだマーネのように敵意をむき出しされている方が分かりやすくいい。今までのように耐えれば良いだけなのだ。
だから、希乃はマーネよりもさらに怖い。
あんなに嬉々として教えられたのは、利用されながら暮らしていたヒナピリウルには初めてだった。
理由のない厚意ほど恐ろしいものがないのだ。
なのにだ、希乃から離れがたい。それがさらにヒナピリウルの中で謎を深めている。
「いいから受け取っとけよ、欲しがってたって希乃から聞いたんだがなぁ」
詩ノ崎が眉間を軽く人差し指で叩きながらぼやくと、隅に固めても邪魔になっている段ボールの山を見た。
「それならこれ運ぶの手伝ってくれ、今日は特に多くてな。報酬でなら少しは受け取りやすいだろ?」
ヒナピリウルの目には重さは大したことはなさそうだが、確かに一人で運ぶなら時間は掛かりそうな量だ。
これならヒナピリウルに対価を支払う形を作ってくれた詩ノ崎の厚意を断る理由とまでには至らない。
「……う、ん。やる」
ヒナピリウルは作業台に座って宙ぶらりんになっていた足を地面に着地させた。




