5,歌
刑務所では、規律どおりに、時間通りに、皆で一斉に作業を始め、一斉に終わる。規則にはずれたことを勝手に行うのは、むずかしい。
しかし、以前から窯の中が気になってしょうがなかったので、人のいない隙に、頭をつっこんで観察してみた。あんのじょう、鉄板の汚れやコゲ付き、波打っているところもあった。
こんなの親方に見つかったら、 殺されかねない。
あたしは、濡れ布巾をほうきの柄のはしに巻きつけ、かんたんなベッカーファーネ(『パン屋の旗』) を作った。 仕事終わりにささっと窯の中を拭いて、部屋に帰る。そのくらいなら許されるかなと思った。
だが、そううまくはいかなかった。
あたしとしては精一杯、手早く拭いたつもりだった。が、窯が大きいので、時間がかかっていたらしい。スザンヌさんが、頭のてっぺんに作った玉ねぎ型のまげをふり立てながら呼びにきた。
「何やってるの? もうみんな、廊下であなたを待ってるのよ?!」
「あ、ごめんなさい。これで窯の中を拭いたらすぐ出ます」
スザンヌさんは『ベッカーファーネ』を見て、目を釣り上げた。
「ちょっと、それはなあに! どこから持ってきたの?!」
「さっき、ほうきの柄に、濡れ布巾を巻いて作りました」
「はあ……」
右手であごの先をさわりながら、あたしの手元を見つめる。
「もしかしたらウェブナー親方の店じゃ、毎日窯の掃除をするの?」
「そうなの。 お店じゃあ、かまどの掃除は新入りの仕事だったから。ここはガスの窯だから大分楽なの。すすで顔が真っ黒になることもないし」
と言うと、
「えっ? えっ?! ウェブナーさんのお店はもしかして、薪のかまどなの?」
驚くスザンヌさん。
「そうなのよ、珍しいでしょう。でも、薪のかまどの方が、外はパリパリ、中はしっとり焼き上がるからって譲らないの。頑固なのよねえ」
「はぁ……」
スザンヌさんは何も言わなくなった。
★☆☆
ウェブナー親方は、発酵パンかごを窓際に置き、さらに、天気の良い日は窓を開けておくのが日課だった。
ある時、
「どうして発酵かごを、日向に置くんですか?」
と聞いてみた。
すると親方は、涙のうのふくらんだ、ギョロっとしたタレ目でこちらを見て、
「小鳥の声を聞かせると、イースト菌が喜んで、いい仕事をしてくれる気がするんだよ」
と言った。
刑務所でも、棚の配置を変えれば、発酵パンかご置き場を窓辺に移せそう。さっそく、テレーザさんに相談しに、「料理長室」に行った。
「料理長室」は、厨房の奥にある。古い本や冊子がつまった本棚と、小さい机と椅子がひとつある、質素な部屋だった。
机には、細かいボビンレースの敷物がかかり、小さな白い花が二、三本生けられたガラスの空き瓶が置いてある。
「いいパンを作りたいというあなたの気持ちはわかるわ。 でも、どう見ても今のパン工場には、場所がないわよね」
テレーザさんは、白い頬に右手を当て、眉をひそめる。
「今、 完成したパンを置いてる棚を、作業台の反対側に移せばいいんじゃないでしょうか。その方が窯にも近くて、時間の節約になると思うんです」
「そうね。でも、出来たパンを運ぶときに、出口の扉から遠くなるわ。製パン科の人にはよくっても、他の部署には不便なのではないかしら」
「そうですねえ……」
ううむ。こちらを立てればあちらが立たない。困ったものだ。
テレーザさんは苦笑しながら、あたしに言った。
「親方の店と同じにしたいという気持ちは分かるんだけど。ここでは予算も時間も限られているの。できる範囲で工夫する方向で、がんばってもらえないかしら」
「わかりました。考えてみます……」
あたしは食堂に戻り、 平たい皿に盛られた鹿肉のグラーシュと牛レバーの団子を食べた。
★☆☆
二、三日後、ふっと思い出した。雨の日に、親方が小さい声で歌を歌って、発酵中のパンに聞かせていたことを。
だったらあたしも自分で歌を歌えばいい。それなら他の部署に迷惑をかけることもないし、お金もかからない。いい考えだと思った。
昼休み、食堂を早めに抜け出して、誰もいないパン工場に戻る。作業台のパンかごの行列に向かって、シューベルトの『野ばら』や『鱒』を歌ってみた。
最初はおそるおそるだったが、なにしろ三百人ぶんの発酵パンかご全てに聞かせようと思うと、声を張らなくてはならない。気がつかないうちに声が大きくなっていたようだ。
最初に、入り口の扉から顔をのぞかせたのはスザンヌさんだった。
こいつとうとう狂ったか、という顔で
「何をやってるの……?!」
とたずねる。
あたしはくふふっと息をもらしながら、
「イースト菌がうまく発酵するように、歌を歌ってるの」
と答えた。
スザンヌさんはもっとびっくりしたようだった。
「そんなんでうまくいくの?!」
「ええっ?! 確かにあたし歌は下手だけれど」
「いえ、そういう意味ではなく。歌で、イースト菌の発酵度合いが左右されるの?という話よ」
その疑問はごもっとも。
「親方がね、発酵中のパンに小鳥や自分の歌を聞かせていたの。あたしももう少し歌がうまかったらよかったんだけど」
「へえ~。ウェブナー親方、面白いことをするのねえ。イースト菌も生き物だものね。じゃあさ、私も歌ってみていい?」
「どうぞどうぞ」
スザンヌさんは、シューベルトの『子守歌』を歌ってくれた。単純な曲だが、スザンヌさんは意外に声量がゆたかで、聞きごたえがあった。自分の子供にうたってあげていたのかもしれない。何度も。
「上手ねえ。これならパン達も喜んでくれると思うわ」
「えへっ、そうかしら?!」
ぱちぱち手をたたいたりしていると、それを聞きつけて、製パン科のほかの人たちもやってきた。
「何してるの?」
「イースト菌がうまく発酵するように、歌を歌っているの」
「そんなんでうまく発酵するの?!」
論より証拠。スザンヌさんと二人で、発酵パンかごにかかっている濡れナプキンをめくって、様子を見てみた。発酵中のパンの、赤ちゃんの肌のような甘い匂いがふわっと立ちこめる。匂いは普段と変わりはないようだ。
ふっくらふくらんだ生地の真ん中に、親指で穴を開けてみる。パンのふくらみ方にも目に見えた変化はなかった。
あたしたち二人は、おもわず吹き出した。
悪ノリした誰かが、
「カタリーナに歌ってもらおうよ、誰かカタリーナを呼んできて!!」
と言っている。
しばらくしてやってきたカタリーナさんを見て、あたしは息をのんだ。
背はあたしより頭一つぶん高い。姿勢がまっすぐで、首が細くて長い。肩の下まである黒髪は、軽くうねり、首の後ろで一つにまとめられ、三角に折った白い布で覆われている。
化粧はしてないはずなのに、まつ毛が長く、鼻筋が通って、口はやや大きめ。まるで映画女優のような人だった。
今まで会ったことなかったのは、あたし達製パン科とは時間帯の合わない部署にいるから? 作業台にずらっと並んだ発酵中のパンかごを見て、驚いている。
「イースト菌がうまく発酵するように、歌を歌ってあげてほしいんです」
と説明すると、よくわからないことを聞いたという風に、目をまたたかせた。
それでも、
「長い間歌っていないから、声が出るかわからないけど……」
と言いながら、お腹に手を当てて、二、三回、息をゆっくり吸ったり吐いたりし、やがて小さい声で歌いはじめた。
歌はヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』だった。本格的に声楽をやってきた人なのだろう、声の質と量が全然違った。
あたしたちの頭の上を軽々と飛び越え、パン工場の天井に、壁の何百万枚かの白いタイルに、余熱の残っている鉄の窯に、作業台に貼られている大理石の一枚板に、声が響き、ふるえた。
もちろん、そこに並んでいる三百人ぶんのパン生地にも、振動が伝わっただろう。だがもはや、そんなことはどうでもよかった。
割れんばかりの拍手とともに、歌が終わった。
カタリーナさんは頬も上気し、息も上がっている。それでもなんだか嬉しそうに、
「声が全然出ないわ……」
と言う。今の歌で声が出てないなら、本気になったらどうなるのだろう。
みんなは、カタリーナさんの周りを取り囲み、
「すごいすご~い」
「上手ねえ。やはり本物は全然違うわねえ」
「毎日ここで歌ってよ! 聞きに来るから」
両手を前で組み合わせ、お願いしている。
突然、食堂とは反対側の扉が開き、別の声が響いた。
「あなたたち! 何騒いでるの?!」
しまった、テレーザさんに見つかった。