1,ぼろぼろの靴の男
その人は、あたしが渡した紙袋の中をのぞいて、
「パンが一個多いような気がするんですが」
と言った。
あたしは、唇の前にお母さん指を立てて、
「それはおまけです。売れ残りで悪いんですけど。親方に知られると怒られますから、内緒にしてくださいね」
と言って、ほほえんだ。
すると彼の顔が 急に明るくなって、
「ありがとう!」
というなり、店の回転扉にぶつかったり転んだりしながら、出ていった。
彼はいつも閉店間際、もうパンは残っていないような時間に、疲れた顔で店にやってくる。黒い革靴が、ほこりや擦れキズで、「白」に見えるほどくたびれていた。だから、あたしはその人は貧しいのだと思い込んで、売れ残りのパンをひとつ、おまけにあげたのだ。
その日から、彼はほぼ毎日店にやってきた。そして、にこにこしながらあたしと話をするようになった。
ある時、
「くるみのパンは残っていないの?」
と聞かれた。
「あ~。くるみ入りは人気があって、売れ残ることはないですねえ。お好きなんですか?」
と言うと、
「そうなのか~」
と、ふさふさした眉毛をさげて、しょぼんとしてた。
あたしは親方に、くるみのパンを多めに焼いてくれるよう頼んだ。数を増やしてもなお、四時半にはたいてい売り切れていた。が、たまには彼が来るまで残っていることもあるようになった。
常連さんのためにおまけをつけたり、要望に応じたりとかは、どこのお店でもやっていると思う。あたしは気にしていなかった。
☆★☆
うちのヨハン・ウェブナー親方は、パン作り一筋四十年。決めたことは絶対に曲げない、頑固おやじだ。売れ残りや出来損ないのパンを安く処分するのは、「店の格を落とす」と、嫌っていた 。
あたしがこの店に来る前は、売れ残りは自分たちで食べるか、裏庭にまいて小鳥の餌にしていたそうだ 。それはあまりにももったいない。 だから、親方を説得して、売れ残りのパンを孤児院に持って行くのを許してもらったのだ。
孤児院に行くのは毎日曜日、その日は仕事休みをもらうことにしていた。
一週間ぶんの売れ残りのパンのうち、日持ちのしそうなものを、取手つきの柳のかごにまとめ、上からナプキンをかける。
「行ってきます」
と声をかけると、
「今日は寒いから、あったかくして行けよ」
厨房の奥から、くぐもった声が返ってきた。
おばさん(親方の奥さん)が、赤い地に黄色や緑の線の入ったショールを持って出てきた。ショールをあたしの頭にかぶせ、額のところを五センチほど折る。そのまま首元で、折った端を重ねて金色のピンでとめると、即席のケープが出来上がった。
「やっぱり若い子には赤が似合うわねえ。黒いブローチがあるともっと良かったんだけど」
おばさんは、なぜか悔しそうに言いながら、あたしを遠くからためつすがめつする。
ショールはありがたくお借りすることにして、そのまんま日曜日の街に出た。
よく晴れて、空が高く感じられる冬の朝だった。冷たい空気と暖かい日光を頬に感じながら、気分良く歩いているところ、時々誰かの視線を感じる。何度か振り返ってみたが、誰もいない。
おかしいなぁと思いつつ、街の真ん中の広場で開かれている日曜市にさしかかった。
混雑している市場の中央、一番人の多い通りをまっすぐ進む。つきあたりの噴水の手前、野菜売り場と人気の焼き栗屋屋台の行列が交差しているところを、素早くかいくぐった。野菜の陳列棚の影にしゃがんで、もと来た方向をのぞく。
すると彼が、
「おかしいなあ~。どこへ行ったのかなあ~」
という顔で、あたりを見回していた。
これは大変。下手な尾行とはいえ、つけられていること自体、問題だった。あたしは急いで、 姉御に相談することにした。