逃がさない
俺は山道を歩いているところで小熊に遭遇した。
道の横の茂みがガサガサいったかと思うと小熊が出てきて、俺を見るとフンフンと鼻を鳴らしていた。
俺は一瞬びっくりしたものの、大人の熊じゃなくてよかった……と思ったところで、事前に読んでいた警告を思い出した。
小熊がいるところには、まず母親の熊も一緒にいると見ていい。そして、母熊は小熊を守ろうとして凶暴になっており、小熊に近づくものは何でも攻撃する。小熊を見たら、怒り狂った母熊が近くにいるものと思え。という警告だ。
俺はヤバいと思って、後ずさりして小熊から離れようとした。
ところが、この小熊はどういうわけか、俺が離れようとしているのに自分から俺について来る。俺が離れようとすると小熊も距離を詰めてくるし、俺が立ち止まると小熊も立ち止まり、離れるとまたついてくる。
「ついて来るな!あっち行け!!シッ!シッ!!」
俺は焦って威嚇したが、小熊は怖いとも思わないのか、相変わらずトコトコ歩いてついてくる。俺は小石を拾って小熊の鼻先の少し手前に投げたが、小熊はちょっと立ち止まっても、こちらが歩いて離れようとするとまたついてくる。また小石を投げてみたが、やはり効果がない。
「くそっ!何なんだよ……」
俺が焦りながら小熊から離れようとしていると、
「グオオオッ!」
と恐ろしい鳴き声がした。遠くの茂みから母熊が飛び出してきて、怒りの吠え声を上げながらこちらに走ってくる。
「畜生!!」
俺は一目散に逃げ出した。
本来なら、背中を見せて逃げるのは相手を刺激することになって悪手なのだが、向こうが最初から怒り狂って走ってきているのならもうどうしようもないだろう。
俺は走って逃げたが、熊のスピードならすぐに追いつかれてしまうだろう。
畜生、何なんだよ。こっちは小熊に危害を加えようなんて気はさらさらなくて、むしろ逃げようとしているのに、小熊のほうから俺についてきて、それで怒り狂った母熊に襲われるなんて理不尽すぎる。相手が人間なら危害を加えるつもりはないんだと言って説得できるかも知れないが、本能で生きている動物だからどうしようもない。
このスピードならすぐに追いつかれてしまいそうだが、それでもこの道の先のどこかで相手を撒けるかもしれないと、わずかな希望を抱いて俺は走った。
すると、前の方に崖があるのが見えた。
道の先が崖になっていて、そこからやや離れた先にまた向こう側の崖がある。やったぞ。あの距離なら向こう側に飛び移れるかも知れない。熊は走るのが速いとはいえ、体重が重いからあの距離をジャンプして飛び越えることは多分できまい。俺は走って助走をつけたまま、向こう側に向かってジャンプした。
幸い、どうにか向こうの崖に飛びつくことができた。
後ろを振り返ってみると、母熊は案の定こちらまで飛び移ってくることはできず、崖っぷちをウロウロしながら、「グオッ!グオッ!」と怒りの声を上げていた。
ざまぁ見やがれ。あとはここから這い上がってこの先の道を逃げれば、まだ逃げ切れる可能性はある。母熊だって、この状況ならわざわざ俺を追いかけては来ないだろう……そんなことを考えていると、信じられない光景を目にした。
あの小熊が、向こうから走ってきて母熊の横をすり抜け、ジャンプして俺の方に飛びついてきた。そして俺のズボンの後ろに爪を立てて貼り付いた。
「なっ……!そんな……!!」
俺は後ろを振り返って小熊を見た。小熊の真っ黒な目と俺の目が合った。小熊は口の端をめくり上げて笑うように牙を見せると、言った。
「逃がさないよ……」
「えっ??」
幻覚か……?いや、こいつ、今確かに喋ったぞ……??
「グオオオオッ!!」
向こう側で、母熊の怒りの声が聞こえた。母熊も助走をつけると、こちらに飛びついてきた。
そして、ここまでは届かないだろうと思っていたのに、ギリギリのところで俺の足首に噛み付いた。
「うわああああああ!!!」
俺は当然その重さを支えきれず、そのまま熊たちと一緒に崖の下に向かって落下していった。
落下の途中、一緒に落ちていく小熊と空中で目が合った。小熊はやはり真っ黒な目で俺を見ると、笑って言った。
「逃がさないよ……」