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蘭風の斬

 プロローグ



「次のニュースです。昨日未明、突如として東京湾沖に噴出した海底火山は、二十四時間経過したいまもなお、はげしく噴煙を上げ続けています。海上保安庁は、厳戒態勢のまま現場の観測を続けておりますが、沈静の兆候はいまだに見られないということです。それでは、こちらのVTRをご覧ください——」



「さて本日はスタジオに、火山の噴火予知についての研究がご専門の、明凰(めいほう)大学教授、富永博之先生にお越しいただいております。富永先生、今回の噴火についてひと言お願いいたします」


「はい。今回の東京湾沖での()(ざん)(しょう)の活動は、戦後一九五〇年代に()()諸島南部に発生した海底火山、(みょう)(じん)(しょう)の事例に酷似していると言えます」


「その際には、海上保安庁の観測船が、噴火に巻き込まれて遭難したということですが、今回もそのような危険があると考えられますでしょうか?」


「この区域での火山活動は極めてまれな事例のため、現在ははっきりしたことは申し上げられませんが、海上での火山活動は継続しており、周囲の厳戒態勢は当分続くと思われますね」


「また、ここのところ日本各地に存在する活火山で、火山活動が頻発しているということですが、今回の件との関連性についてはいかがお考えでしょうか」


「そうですね。現在北海道の()(かち)(だけ)のほか、東北の()(づま)(やま)、関東甲信越の(あさ)()(やま)、そして九州の()()(さん)などで、短時間に極めて多い回数の噴火活動が観測されております。これらとの関連性についてはいまだわかりかねますが、それぞれ十分な警戒が必要です」


「いずれは、()()(さん)も新たな火山活動をはじめるのではないかという意見もあるようですが……」


「それにつきましても、いまはまだ推測の域を出ない、としか申し上げられません。まずは現況を十分に把握し、くれぐれも風説やデマなどに惑わされて軽率な行動を取らないように、国民のみなさまには呼びかけたいですね」


「今後も、現場の動向に注視してまいりたいと思います。先生、ありがとうございました。それでは、次のニュースにまいります……」






(一)



 折からの雨が、(りょう)(あん)()のお堂の瓦屋根に、叩きつけるように強く降りそそいでいた。そのせいか、もう四月だというのに、体の芯から震えさせるような寒さを、この寺を訪れた人々に感じさせていた。境内に立ち並んでいる、ようやく花を咲かせはじめたばかりの桜の木々も、この春の嵐に必死で耐えているように思われた。


()()()、ここにいたの?」


 そう声をかけられ、(しん)(じょう)()()()は振り返った。その少年は渡り廊下の窓から、雨の降る外の景色をながめていたのだった。


「そんなとこにいると、()()引いちゃうよ」

(はる)()……」


 それは、中学校でのクラスメイトの少女、丸川(まるかわ)(はる)()だった。

 短めのツインテールに、ちょっと気の強そうな切れ長の目。すっきり通った鼻筋に、ほどよいアクセントとなっている泣きぼくろ。あと四、五年もすれば、かなりの美人に成長しそうだが、今のところはその控えめな胸と同様、まだまだ発育途上の段階であった。


「ねえ、大丈夫、時雨馬?」

「うん。ありがと」


 心配そうにたずねる彼女に、時雨馬は静かに答えた。


「あのさ、(あん)ちゃんがね、最後にみなさんにご挨拶(あいさつ)しろって言ってるんだけど……。どうする、やっぱ断っとく?」


 いつもは元気いっぱいで男勝りの春希だが、今日ばかりはすっかり泣きはらした顔のままでそう言った。もう、かれこれ長いつき合いになるが、時雨馬はこんなに沈んだ彼女の表情を見た記憶はなかった。


「ううん、わかった。すぐ行くよ」


 そう言って時雨馬は、学生服の詰め襟についたホックを締め直すと、春希と並んで歩いていった。

 今日はなんと言っても、実の父母の葬儀なのである。喪主として、ひとり息子である自分が挨拶をしないわけにはいかない。



 高校の数学教師である父と、中学校の英語教師の母。そして中学二年生の時雨馬は、西東京市内のこの街で、ごくごく平凡な暮らしを続けていた。まじめで学力優秀ではあるが、体を動かすことにかけてはまるで苦手。最近は本の読みすぎで、めっきり近視が進んでしまったひとり息子のことを、彼の両親は温かく見守っていた。


 だが、そんな平穏な日々は、ほんの十日ほど前の深夜、突如終わりを告げる。神条夫妻はドライブからの帰り道、峠道のカーブを曲がりきることができず、崖下に転落してしまった。ふたりとも、即死だった。


 時雨馬はその休日、たまたま剣道部の試合があったため、その旅行には同行していなかった。また、この事故に第三者を巻き込まなかったことも、不幸中の幸いと言えるのかもしれない。


 しかし時雨馬は、この事故の責任を誰のせいにすることもできないまま、ただ最愛の両親を同時に失うという現実を、受け入れなければならなくなった。それからの彼の生活は、まるで早回しのビデオテープのように、自分の意志とは関係なく、慌ただしく過ぎていくばかりだった。



 ふたりがお堂に戻ると、葬儀への参列者たちの居並ぶ前に、この寺の住職である()(しま)(あん)(じん)が待っていた。


 住職とはいうものの、時雨馬にとっての彼は、幼い頃からの兄貴分である。まだ三十代半ばで、細身だが筋肉質。銀髪にガン黒ピアスとネックレス、ついでに無精ヒゲの目立つこの男は、一見すると聖職者にはほど遠いアブナイ仕事にでも就いていそうに思われた。


 だが、そんな姿とは裏腹に、その気さくで親しみやすい人柄のせいか、この安尋和尚(おしょう)は檀家からの評判も決して悪くはないらしい。時雨馬や春希はそんな彼のことを、親しみを込めて「(あん)ちゃん」と呼んでいた。


「いいのか、時雨馬……」


 安尋和尚は、時雨馬にマイクを渡しながら、そう声をかけた。


「うん」


 参列者たちは、時雨馬の姿を見ると、いっせいに話し声を潜めた。

 時雨馬は、両親の遺影を抱えたまま参列者に向き直り、静かに話しはじめる。


「えー、みなさま、本日は足元の大変お悪い中、葬儀にお越しいただきまして誠にありがとうございます——」


 まだ中学二年生である時雨馬の、喪主としての挨拶が始まった。春の雨は、いっそうはげしさを増していた。



 とどこおりなく葬儀が終わり、帰り支度をする時雨馬に、安尋和尚が話しかけた。


「今日はお疲れさん、時雨馬」

「あ、(あん)ちゃん」


 安尋和尚は、今日無事に自分の両親を送り出したこの少年を気遣うように、優しく声をかけた。


「なあ、今夜は寺に泊まっていってもいいんだぞ」


「いや、新しい部屋の方も気になるし、今日は帰るよ」


 時雨馬はそう答えた。


「それにしても、やっぱりこんなに急にあの家を出ることなかったんじゃねえか?」


 ほんの数日前まで、時雨馬たちが家族三人で暮らしていた借家は、すでに引き払ってしまっていた。


「うん……。でも、あの家にひとりでいても、昔のことばっかり思い出してつらいし、それに——」


 時雨馬は、ゆっくり上を向きながら言った。


「今後は僕ひとりだから、少しでも生活費を節約しないとね」


「そうだな……」


「それから安ちゃん、アパートの契約の時、力になってくれてありがとう」


 時雨馬は、自分の新たな住み家として、近所に木造アパートの一室を借りていたのだった。その部屋も、安尋和尚が身元保証人になってくれなければ、しがない中学生の身分である時雨馬が借りることなどできなかったはずだ。


「気にするな。大したことじゃねえ」


 安尋和尚はかぶりを振りながらそう言った。いつの間にか、大人の顔になったような時雨馬の姿を見て、彼は少しだけ感心していた。


「時雨馬、いつでもこっちに来ていいんだからな」


「うん、ありがとう、安ちゃん」


 そう答えて、時雨馬は寺を後にした。門の外に歩みを進めたとき、目の前に傘を差した春希が立っているのに気がついた。


「帰るの?」

「ああ。今日はどうもありがとう、春希」


 できるだけ笑顔を見せられるように努力しながら、時雨馬は彼女に礼を言った。


「……ねえ時雨馬、本当にひとりで大丈夫?」


 春希は、意を決したように時雨馬に話しかけた。


「パパもああ言ってるしさ。……あんた、やっぱりあたしの弟になるのはイヤなんでしょ?」


 春希の父親は著名な弁護士で、時雨馬にとっても昔から親しみ深い人だった。彼女の両親は先日、ひとりぼっちになってしまった時雨馬を、引き取りたいと申し出てくれていたのだった。だが、時雨馬はその申し出を丁重に断っていた。


「別に、そんなことないよ。……僕、ホントに平気だから」


「そう……。ねえ、困ったときは、いつでも言ってね」


 いつもは、たった二ヶ月早く生まれたということだけで、お姉さん風を吹かせている春希だったが、今夜に限ってはそんな雰囲気を微塵(みじん)も感じさせはしなかった。


「うん、ありがとう。それじゃ」


 静かに背を向けた時雨馬に、春希は大声でこう言った。


「時雨馬ーっ。明日、学校迎えに行くからね!」


 時雨馬は、黙ったまま手を上げて応えた。






(二)



 アパートの部屋に着き、傘を閉じると、時雨馬はポケットからカギを取り出してドアを開けようとした。しかし、その扉にはカギはかかっていなかった。


「あれ? やべっ、閉めていかなかったのかな……」


 不思議に思ったまま、時雨馬はドアを開けた。部屋には明かりがついたままだった。

 玄関を見ると、その(あが)(がまち)に三つ指ついて、見知らぬ誰かが鎮座していた。


「お帰りなさいませ、時雨馬さま!」


 その人物は時雨馬に頭を下げたまま、大きな声でそう言った。


「……」


 時雨馬は、無言のままそのまま半歩下がり、ゆっくりとドアを閉めた。

 ひと呼吸おいてメガネを外し、制服の袖で目をこすると、時雨馬はドアの横にある表札の文字を読んだ。


『二〇一・神条(しんじょう)


(うん、合ってる)


 まぎれもなく、ここが自分自身の部屋であることを指差しつつ確認した時雨馬は、首をかしげながらもう一度ドアを開けた。


「あのう……。ここ、僕んちなんですけど……」


 確かめるようにそう話しかける時雨馬に、あらためて元気よく挨拶が返された。


「お帰りなさいませ、時雨馬さま!」


 その人物は顔を上げて、時雨馬に向かってにっこりと笑いかけた。

 そこにいたのは、ひとりの女子高生だった。つやつやとしたストレートの黒髪をポニーテールにしていて、ほどけば腰のあたりまでありそうな見事なロングヘア。紺色のセーラー服の上には、真っ白なエプロンを着用していた。

 少女はすっと立ち上がると、丈の長いスカートをひるがえしながら、時雨馬の手をつかんで部屋の中へと迎え入れた。


「お待ちしておりました。さあ、どうぞお入りください。お夕食もご用意しておりますよ」


 立ち上がってみると、その少女は時雨馬よりも頭ひとつ分以上も背が高かった。身長は百八十センチ近くはあると思われる。おそらくは、高校二年生くらいであろう。

 しかも、制服の上からもはっきりとわかるほど、かなりの巨乳の持ち主。彼女は時雨馬の腕を抱え込むようにして、その胸を彼の身体にぴったりと密着させてきた。


(わ、ちょ、ちょっと)


 突然の、思いもよらないやわらかな感覚に、時雨馬は大きく動揺した。しょせん中学生の時雨馬には見当もつかないことだったが、その少女はなんと九十九センチという、堂々たるバストサイズであった。


「いやー、今日は本当に寒かったですよねぇ。あ、いまお()()(しる)温めますから……」


 そう言う彼女を両手で制すようにして、時雨馬は話しかけた。


「あ、あの、ちょっと待ってください。すみませんけど——」


「はい?」


「……あなた、いったい誰なんです?」


 時雨馬のもっともな質問に、ようやくハッと気がついた様子のその少女は、両手を口に当てて彼の方に向き直った。


「申し訳ございません! (わたくし)、ついうっかりしていて——」


 そう言うと、彼女は懐から一枚の名刺を取り出し、お辞儀をしながらうやうやしく両手で時雨馬に手渡した。


「自己紹介が遅れました。私、こういう者でございます」


 時雨馬は、少女から名刺を受け取ると、その文字に目を落とした。



 御守刀 鬼守 蘭風

 


 名刺にはそのように書かれていた。しかしながら、時雨馬にはすぐにその文字列の持つ意味が把握できなかった。時雨馬は名前とおぼしき文字列を、声に出して読んでみた。


「おに……もり……らんぷう、さん?」


「いえあの、おに『がみ』・らん『ふう』、です。あ、でもでも、時雨馬さまが『(らん)(ぷう)』とお呼びになられたいのであれば、私の方といたしましてはとくになにも問題はございませんのでございますけれども……」


 その少女、蘭風はもじもじと指をこねくりこねくりしながら、そうつぶやいた。ようやく名前が判明した彼女に対し、時雨馬はあらためて問いかけた。


「じゃあ、(らん)(ぷう)さん」


「はい、時雨馬さま」


「それで、どうしてここにいるんですか?」


 蘭風は首をかしげつつ、こう答えた。


「あの、ひょっとして……。なにもお聞きになっていらっしゃらない?」


「はい」


 しばらく考えて、蘭風は再び深々と頭を下げた。


「それは大変失礼いたしました! 私、このたび時雨馬さまの『御守(おまもり)(がたな)』としてやってまいったのでございます」


「おまもり……がたな?」


「はいっ! 私こと()(しょう)(おに)(がみ)(らん)(ぷう)、時雨馬さまを誠心誠意、お守りいたします!」



「で?」

「はい、時雨馬さま」


 ようやく、少しだけ落ち着いた時雨馬は、六畳一間の1Kという、ささやかなこのアパートの一室の、真ん中に置かれたちゃぶ台の前に座り、あらためて蘭風と名乗るこの少女と向き合っていた。あいかわらず、雨は降り続いていた。


「つまり、どういうことなんですか?」

「でぇーすぅーかぁーらぁー」


 蘭風は茶碗にごはんをよそい、時雨馬の前に並べられた夕食の脇に置いた。


「先ほどから申し上げておりますけど、御守刀なんです、私」


(だから、御守刀って、何?)


 一向に話がかみ合わないまま、時雨馬は少々うんざりし始めていた。ため息をつきながら、彼はとりあえず、もうひとつの疑問から片づけてみることにした。


「この部屋、カギかかってたと思うんですけど、どうやって入ったんです?」


「はい。大家の方のおじいさまおばあさまにお願いして、開けていただきました」


「何て言って?」


「いえ普通に、時雨馬さまのお世話をしにまいりました、と」


(そんなに簡単に、見ず知らずの人を入れちゃうのかよ!)


 それを聞いて、そう思わずにはいられない時雨馬だった。だが、天涯孤独となった中学生である自分を快く住まわせてくれている、あの優しい老夫婦に対してそれ以上非難する気は起きなかった。


 この蘭風という少女は、どこか人に警戒心を抱かせない、独特の安心感を持ち合わせていた。どちらかというと人見知りしがちな時雨馬自身でさえ、まったく初対面にもかかわらず、普通に彼女と会話を続けていることが、その何よりの証拠だった。


「あ、冷めないうちに、どうぞお召し上がりくださいね」


 蘭風はそう言いながら、急須から時雨馬の湯飲みにお茶をついだ。


「え? あ、ええ……」


 時雨馬は、おいしそうな匂いを漂わせている食卓を見て、自分の腹が減っていることに気がついた。カラリとキツネ色に揚がったトンカツに、青くみずみずしい千切りキャベツ。付け合わせのキンピラごぼうに、香の物まで。そう言えば、今日は一日中あまりにも忙しく、ほとんどなにも口にしていなかったのだ。彼は黙ったまま、ゆっくりと食卓の上の箸を持った。


「……おいしい」


 時雨馬は味噌汁のお椀に口をつけて味を見ると、思わずそうつぶやいた。


「ホントですか? そう言っていただけると、私、うれしさ百倍ですっ!」


 そう言って蘭風は、笑顔を輝かせた。


 時雨馬は、あらためて蘭風の顔をながめた。

 美人である。

 っていうか、かわいい。

 おそらく年上で、しかも自分よりうんと背の高い女性をつかまえて、『かわいい』なんていうのもどうかと思うが、正直びっくりするくらい、愛くるしい顔立ちだ。


 その屈託のない笑顔のせいもあるのかもしれないが、彼女のそのまん丸で大きな瞳は、見る者をグッとひきつけて離さない、不思議な魅力があった。

 さらに、ファッションモデルのように大胆かつ均整のとれたプロポーションに、透き通るような白い肌。まるで、時雨馬が日頃から読んでいる週刊少年誌の巻頭グラビアから、そのまんま抜け出してきたティーンズアイドルのような雰囲気だった。


「……もう、そんなに見つめられると、私、照れちゃいますよぅ」


 蘭風は、両方の手のひらを自分の頬に当てて、そう言った。

 知らず知らずのうちに、時雨馬は蘭風を凝視し続けていた。時雨馬は赤くなって、思わず視線をそらせると、あわてて口の中に白飯をかき込んだ。


 そのまま一心不乱に食べ続けた時雨馬は、いつの間にか蘭風の作った夕食をすべて平らげてしまっていた。そんな彼の様子を、蘭風は幸せそうな笑顔で見守っている。


「ところで、(らん)(ぷう)さんがここに来たのは……」


(らん)(ぷう)、でいいですよ」


 湯飲みにお代わりのお茶をつぎながら、蘭風は言った。


「僕の両親が亡くなったことと、なにか関係があるんですか?」


 その言葉を聞くと、蘭風の動きがピタッと止まった。彼女は急に真面目な表情になって居住まいを正すと、時雨馬に向き直った。


「時雨馬さま」

「は、はい」

「このたびは、誠にご(しゅう)(しょう)さまでございました。……まだこんなにお若いのに、いっぺんにご両親を亡くされるなんて……私、本当に……」


 そう言うと、いきなり蘭風の目に涙があふれはじめた。時雨馬はそんな蘭風の様子に、驚きを隠せずに言った。


「あ、あの……。蘭風、さん……?」


 鼻をすすりながら、蘭風は言葉を続けた。


「……重馬(じゅうま)さまも(みやこ)さまも、まさかこんな時に(ぞく)の手にかかって、お命を落とされることになるなんて……」


 その言葉を聞いて、時雨馬は驚いて大声を上げた。


「え? それって、どういうこと? 父さんと母さんは、交通事故に遭ったんじゃないの?」


 時雨馬は、思わず身を乗り出すようにして、蘭風の肩をつかんでいた。



 コンコン!


 そのとき、部屋のドアをノックする音が聞こえた。時雨馬が返事をする前に、ノックの主は勝手にドアを開けた。


「よう、時雨馬。元気か……っとぉ?」


 それは、先ほどの葬儀で別れたばかりの(りょう)(あん)()住職、三島(あん)(じん)だった。彼は葬儀用の袈裟(けさ)から、いつも着ている派手な花柄のアロハシャツに着替えていた。この格好でいると、やはり彼はヤクザのようにしか見えなかった。


 安尋()(しょう)は、時雨馬のほかにこの部屋の中に、見知らぬ少女がいることに気がつくと、ニヤリと笑いながら言った。


「なんだよ、やるじゃねえかお前。ひとり暮らしをはじめた初日だってのに、もう部屋にオンナ連れこんでんのか?」


 安尋和尚は、やたらおっぱいの大きいこの女子高生を、もの珍しそうな目でまじまじと見回した。その視線を敏感に感じ取ったのか、蘭風は恥ずかしそうに両手を体の前で合わせるようにして胸を覆い隠した。


「ち、違うよ(あん)ちゃん! 僕は別に……」


 あわてる時雨馬に、蘭風は聞いた。


「あの、時雨馬さま、このお方は?」

「龍庵寺の住職の、三島安尋さんだよ。安ちゃん、この人は……」


 蘭風は丁寧に頭を下げ、安尋和尚に話しかけた。


「はじめまして、安尋さま。私、時雨馬さまの御守刀の(おに)(がみ)(らん)(ぷう)と申します」


「ちょ、ちょっと蘭風……」


 そんな奇妙な自己紹介をする蘭風の姿に、あせる時雨馬。しかしなぜか安尋和尚は、そんな彼女の言葉を聞いても平然としていた。


「……あんた、『(おに)(がみ)(しゅう)』か」


「は、はい。……ご存じなのですか?」


「まあな……。しかし、まさか女が御守刀とはな……」


 予想外のふたりのやりとりに、時雨馬は困惑を隠せない。


「えっ、どういうこと、安ちゃん?」


 それには答えず、安尋和尚は小さくため息をつくとこう言った。


「まあいいや。(らん)(ぷう)さんとやら、時雨馬を守ってやってくれ。……じゃあな」


 そのまま、安尋和尚は出て行ってしまった。蘭風はその言葉に、深々と頭を下げた。



 時雨馬はあわてて彼の後を追い、部屋の外の廊下に出た。


「安ちゃん! ちょっと待ってよ!」


 時雨馬の呼び止める声に、安尋和尚は振り向きもせずこう言った。


「時雨馬。これからお前さんを、いろんな(さい)(やく)が襲うことになるだろう」

「……え?」


 いつになく真剣な安尋和尚の言葉を、時雨馬は不思議な気持ちで聞いていた。


「だがな、お前は恐れずに、それに立ち向かわなくちゃならねえ」

「……」


 安尋和尚は少しだけ笑顔を見せつつ、時雨馬に言い聞かせるようにつぶやいた。


「大丈夫だ。あの()を信じてやれ。……負けんなよ」


 そう言い残し、雨の降る中傘を開くと、安尋和尚は去っていった。


「安ちゃん……」


 訳がわからないまま、時雨馬は部屋の中に戻った。



 部屋では、蘭風が静かに時雨馬を待っていた。彼女は、これまでになく真剣な眼差しをたたえていた。


「蘭風……。君は、いったい……」


「時雨馬さま、失礼いたします」


 そう言うと蘭風は、時雨馬の体に手を伸ばし、彼を力いっぱい抱きしめた。


「え? わっ、ちょっと……」


「……」


 あまりにも大きくてやわらかな胸の感触が、時雨馬の顔を包み込んだ。それは、これまでに経験したことのない暖かな感覚だった。


(やわらかい……。それに、すごくいい匂い……)


 目を閉じたまま、時雨馬はその身を蘭風の胸に任せていた。彼女の心臓の鼓動が、しだいに自分とシンクロしていくのが感じられた。


「いまは、ひとつだけ。これだけは、信じてください。……私、どんなことがあっても、絶対に時雨馬さまの味方ですから……」

「……うん……」

「ありがとうございます、時雨馬さま……」


 まるで、遠くから響いてくるような蘭風の言葉を、時雨馬は黙って聞いていた。


(そう言えば、両親を失って、ひとりぼっちになってしまった最初の夜なのに、結局僕は泣かなくてすんだんだな……)


 いつの間にか、窓の外の雨は上がっていた。






(三)



「……時雨馬さま、起きてください、朝ですよ」


 そんな声に、時雨馬はようやく目を覚ました。まぶたを開けると、自分の顔のすぐ前に、超どアップの蘭風の顔があった。


「おはようございます! 時雨馬さま」


「わあっ!」


 びっくりして跳ね起きる時雨馬。彼の布団の上に、覆いかぶさるようにしていた蘭風は、すばやく跳び退くと、時雨馬に優しく声をかけた。


「朝ごはん、できてますよ、時雨馬さま」


 そう言いながら、台所の方へ向かう蘭風。時雨馬は枕元のメガネをかけながら、昨夜のことを思い出していた。


「やっぱり、夢じゃなかったんだ……」


 昨日はいろいろなことがありすぎて、すっかり疲れてしまった時雨馬は、制服を着たまま、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


 勉強机の上を見ると、そこには両親の遺影が並んで飾られていた。おそらく寝ている間に、蘭風が置いてくれたのだろう。

 窓の外からは、朝の光がまぶしいほどに差し込んでいた。すでに雨雲はすっかり消え、空はすがすがしく晴れ渡っていた。

 台所からは、蘭風が食器を洗うカチャカチャという小さな音が聞こえてくる。彼女の鼻歌交じりのこの音が、おだやかな朝の空気をいっそう和ませていた。時雨馬は思わず伸びをして、大きく息をついた。


 それにしても、蘭風は昨夜いったいどこで寝たのだろう? この狭い六畳一間に、ほかに寝る場所はないし、そもそも布団だってひと組しかなかったはずだ。


(……まさか、この布団で僕といっしょに?)


 そう考えて、急に心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる時雨馬。思わず右手を自分の脇に伸ばして、手のひらをシーツの上に当てる。当然ながらそこにはもう、彼女のぬくもりは感じられなかった。


「時雨馬さまー、早くお起きになって、お顔を洗ってきてくださいねー」


 そんな時雨馬をせかすように、蘭風が台所から声をかける。


「う、うん」


 寝床から出た時雨馬は、布団をたたんで押し入れにしまった。顔を洗って部屋に戻ると、ちゃぶ台の上にはふたり分の朝食が用意してあった。


「さ、食べましょう。いただきまーす!」

「い……いただきます」


 手を合わせて、元気よく声を上げた蘭風につられるように、時雨馬も声を合わせる。


 焼き鮭の切り身に、ひじきの炒め煮、お新香、納豆、玉子焼き。そして、暖かい湯気を上げるお味噌汁。これぞ正しい日本の朝ごはん、という感じのメニューに、時雨馬はうれしくなって箸を伸ばした。


「いかがですか、時雨馬さま?」


「うん、おいしいよ。蘭風は、本当に料理がうまいんだね」


 素直にそう答えた時雨馬に、蘭風は思わずデレデレになってしまう。


「はあ〜。そう言っていただけると、とっても幸せです! だって、時雨馬さまにごはんを作って差し上げるのが、私の夢だったんですもの」


 その言葉を聞いて、時雨馬の箸が一瞬止まる。


「えっ? ひょっとして、蘭風は僕と、前に会ったことがあるの?」


「ええ、もちろんです。いちどだけ、『鬼神(おにがみ)の里』にいらしたときに。あの頃の時雨馬さまって、ちっちゃくてかわいらしくて、私いまでもそのときのこと、よ〜く覚えているんですよ」


 鬼神の里? また、時雨馬の知らないキーワードが出現した。そう言えば昨夜からというもの、蘭風の正体や目的に関しては、結局何ひとつ判明していないということを、時雨馬は思い出していた。


「あのさ、昨日の話の続きだけど、つまり君は……」

「はい?」


 そう言って、首をかしげながら微笑む蘭風。


「……」


 時雨馬は、そんな彼女の表情を見ているうちに、だんだん彼女の正体など、どうでもよくなっているように思えていた。


『私、どんなことがあっても、絶対に時雨馬さまの味方ですから』


 昨夜の蘭風のひと言が、時雨馬の心によみがえった。


「蘭風。君は昨日、僕の味方だって言ったよね」

「はいっ!」

「……じゃあ、いいや」


 時雨馬はそう言うと、蘭風に笑顔を見せた。


「時雨馬さま……」


「ん?」


「やっと、笑ってくださいましたね」


 安心したようにそう言うと、蘭風はまた昨夜のように時雨馬のそばに来て、彼をギュッと抱きしめた。


「ら、蘭風……離して……」


 どうやら彼女には、抱きつき(ぐせ)があるらしい。だが、早朝からの顔面おっぱいサンドは、中学生の時雨馬には刺激が強すぎた。


「す、すみません、時雨馬さま」


 我に返って、あわてて時雨馬から離れる蘭風。ずれたメガネをかけ直しながら、時雨馬は再び彼女に笑いかけた。



「それじゃ僕、学校に行ってくるから」


 ほぼ一週間ぶりに学校へ行く準備を整え、部屋を出ようとしていた時雨馬。そのとき、蘭風が声をかけた。


「時雨馬さま、少々お待ちください!」


 蘭風は、部屋の隅に置かれていた自分の荷物を探った。彼女の私物は、大きな風呂敷包みと、古ぼけた革製のトランクがひとつだけだった。


 彼女がその中から取り出したのは、ひと振りの日本刀だった。時雨馬の前にひざまずきながら、うやうやしく蘭風はこう言った。


「どうぞ、これをお持ちくださいませ」


 蘭風は両手でその刀を捧げるようにして、時雨馬に手渡した。


「これは?」


「時雨馬さまの剣、『(ふう)()』です。今後は、いついかなるときも、この剣を決して手放さないようにしていただきたいんです」


「わあ……。すごい……」


 時雨馬は息をのんで、ゆっくりと(さや)からその(やいば)を抜いた。日本刀という武器の持つ、ずっしりとした鋼鉄の重さ。朝の光を鮮やかに(きら)めかせる切っ先の輝き。


 それは、おもちゃでもレプリカでもない。正真正銘、本物の日本刀である。中学校では剣道部に所属する時雨馬だが、実物を目にすることも手にすることも、もちろん生まれて初めてだった。


「ホンモノだ……」


 風雅の迫力に飲まれていた時雨馬だったが、ふと我に返りつつ言った。


「ちょっと待ってよ。こんなもの持ち歩けるわけないじゃないか。捕まっちゃうよ」


 そう言って、刀を返そうとする時雨馬に、蘭風は言った。


「いいえ。これは、時雨馬さまにとって絶対に必要なものなんです。どうしても、お持ちになってください」


 そう話す蘭風の顔は、真面目そのものだった。その姿を見て、やがて意を決したように部屋に戻っていく時雨馬。


 壁に立てかけてあった、革製の竹刀(しない)(ぶくろ)をつかむと、中から竹刀を取りだして代わりに風雅を入れた。幸い、袋のサイズはこの刀にピッタリだった。時雨馬は、風雅の入った竹刀袋を肩に掛けて言った。


「これでいいかな、蘭風」


「はい! ありがとうございます、時雨馬さま!」


 蘭風は、再び笑顔になって時雨馬に礼を述べた。


 時雨馬は昨日の夜、安尋和尚から言われた言葉を思い出していた。これから自分の身に何が起こるというのかはわからない。だが彼は、いまはとにかく蘭風のことを信じようと、覚悟を決めたのだった。


 玄関のドアを開けると、時雨馬は蘭風のほうに振り返って言った。


「行ってくるよ」


「あ、私お見送りします」



 ふたりがアパートの階段を下りていくと、そこには春希が待っていた。


 そう言えば昨日、彼女が学校に迎えに来ると言っていたことを、時雨馬は思い出した。女子ラクロス部に所属している春希は、部活で使用しているという、ネットのついたスティックを背負っていた。時雨馬と違い、運動神経抜群の春希は、女子ラクロス部でもエース級の選手であるらしい。


「おっはろー、時雨馬!」


 昨日の葬儀のときとは打って変わって、いつもの調子を取り戻していた春希は、元気よく時雨馬に挨拶をした。


「やあ、春希……」


 そのとき彼女は、時雨馬のそばにいる蘭風の姿に気がついた。


「……あれ? 時雨馬、その人だあれ?」


 春希の急な質問に、適切な答えを用意していなかった時雨馬は、思わずうろたえてしまった。

「いや、この人は……」


「はじめまして。私、(おに)(がみ)(らん)(ぷう)と申します」


 蘭風はそんな時雨馬の様子にかまうことなく、春希に向かって丁寧かつにこやかにお辞儀をした。


「らんぷう〜?」


 春希の声のトーンには、明らかに不信感が含まれていた。時雨馬は蘭風に、このおせっかいな幼なじみを早口で紹介した。


「蘭風、これ、同じクラスの丸川春希」


「……どうも、春希です」


 春希は軽く頭を下げながら、時雨馬と蘭風の顔を何度も見比べる。時雨馬は、何かを思いついたように話しはじめた。


「……そ、そう。イトコのお姉ちゃんなんだ」


 その言葉に、蘭風も調子を合わせる。


「イトコのお姉ちゃんなんです」

「母方のおじさんのね」

「母方のおじさんのです」

「家事の手伝いをしに来てくれたんだ」

「家事の手伝いをしに来ました」

「よろしくね」

「こちらこそ」


 そんな時雨馬と蘭風のやりとりを、さらに疑いの目で見つめる春希。


「イトコ、ねえ……」


 春希は、蘭風の胸に視線をやりながらたずねた。


「……お姉さん、そのおっぱい何カップ?」

「ちょっと春希、失礼だろ?」


 すこし(ちゅう)(ちょ)しながら、蘭風は答えた。


「え? あ、あの……Jカップです」


「じぇ、J?」


 春希と時雨馬は、同時に大声を上げた。


「A、B、C、D、E、F、G、H、I、J……のJ?」


「はい」


 両手の指を折りながらたずねる春希に、にっこり笑って答える蘭風。自分のバストサイズに比べるとケタちがいに大きい(きょう)(がく)のグレードに、信じられないといった様子で、春希はそのままふらふらとその場を離れていった。


「J……。J……」


「春希? ……じゃ僕、行ってくるね」


「はい、行ってらっしゃいませ!」


 春希のあとを追って歩いていく時雨馬を、蘭風は見送った。彼女は、時雨馬の姿が見えなくなるまで、手を振りながらずっとそこに立っていた。



 そんな彼らの様子を、物陰からうかがっているふたりの少女の影があった。


(あね)(じゃ)、あれがそうか?」


「ああ」


「なんじゃ、まだガキじゃのう。チョロいもんじゃ。問題は、あの(おに)(がみ)(しゅう)の女か……」


「まあ、女の御守刀など、しょせん我ら()(ごろ)(しゅう)の敵ではない」


「それで姉者、いつになったら喰えるんじゃ?」


「今夜、あの小僧がひとりになるのを待つ」


(りゅう)(じん)(キモ)か……。ううーん、楽しみじゃのう〜」


「いくぞ、スグリ」


「あいよ、カラマ(ねえ)


 ふたつの影は、すばやくその姿を消した。



「で、誰なの? あの人」


 Jカップショックからようやく回復した春希は、学校への道のりを歩きながら、再び時雨馬に問いかけた。


「だから、イトコの姉ちゃんだって言ったろ?」


「ウソ! あんたにそんな親戚がいたなんて、あたしぜんぜん知らないもん」


「本当だって……」


「ま、いいけどさ」


 幼なじみなだけあって、しつこく突っ込みを入れてくる春希だったが、時雨馬の(かたく)なな様子に、結局それ以上の追求をあきらめた。


「それで、いつまでいるの? あのお姉さん」


「さあ、しばらく……かな」


 それは時雨馬にも本当にわからなかったので、適当に答えた。じつのところを言えば彼本人にも、蘭風の目的はほとんど判明していないのだ。


「ねえ、あの人がいるから、うちには来ないって言ったの?」

「別に、そういう訳じゃないけど……。まあ……そう、かな」

「Jカップがいいんだ」

「それは関係ないだろ」

「どうだか」


 貧乳の春希には、やはり蘭風のおっぱいが相当気になっているようだ。


 やがて春希は、自分のスティックと同じように、時雨馬が肩に竹刀袋を背負っていることに気がついた。


「ねえ時雨馬、あんたやっぱり剣道部続けるつもりなの?」


「あ、これは……。うん、まあね」


 中学に入学してから一年間続けてはみたものの、一向に腕が上達しない時雨馬は、本当は剣道部を辞めるつもりだった。しかし、まさかこの竹刀袋の中に、じつは本物の日本刀が入っているなんて、春希に言うわけにはいかない。


 だが、春希はちょっと安心したような声になって時雨馬に言った。


「そう。……がんばってね」

「ああ」


 春希は腕時計を見ると、時雨馬に向かって声をかけた。


「早く行こ、時雨馬」

「うん」


 ふたりは、校門に向かって走っていった。






(四)



「おはよう……」


 そう声をかけながら、時雨馬が自分の教室の扉を開けたとき、生徒たちの声でざわついていた部屋の中が一瞬静まりかえった。


「……ございます」


 一週間ぶりに登校した時雨馬を、クラスの生徒たちは極めて微妙な空気をもって迎え入れた。両親を交通事故で失うという経験は、中学生の彼らにとっては想像しがたいものだったらしい。教室にいっしょに入ってきた春希も、そんな雰囲気に対してなにも言い出せずにいた。


「……」


 時雨馬と春希は、黙って自分の席に着こうとした。


「よ、時雨馬」


 そのとき時雨馬は、肩のあたりを誰かにつかまれた。時雨馬は、そのまま教室の外の廊下まで強引に引っ張っていかれてしまった。


「なんだよ、(ガース)


 でっぷりとしたその少年は「ガース」こと、親友の(すが)(よし)(ゆき)だった。その隣には、同じく小学校時代からの付き合いである(くし)(もと)(かず)()がいた。(ガース)とは対照的に身体が細く、背が飛び抜けて高いことから、「ヒョロ」というあだ名のこの少年が、かわりに話しかけてきた。


「時雨馬、これあげるよ」


 串本(ヒョロ)はそう言って、リボンのついた紙包みを渡した。


「なにこれ?」

誕生日(バースデー)プレゼント」

「え? ていうか今日って、まだぜんぜん誕生日じゃないんだけど」

「そうだっけ?」


 そう言う串本(ヒョロ)をさえぎりながら、時雨馬の肩に手を回したままの(ガース)が言った。


「いいから、開けてみろよ」

「うん。……あ、これ、串本(ヒョロ)買ったばかりじゃん」

 それは、串本(ヒョロ)が発売日に行列してまで手に入れたと自慢していた、最新ゲームソフトのパッケージだった。驚く時雨馬に、いつものようにニコニコと微笑みながら串本(ヒョロ)は言った。

「へへ、俺、もう終わっちゃったからさ」


 その顔を見ながら、何かに気づいて時雨馬は聞いた。


串本(ヒョロ)、ひょっとして昨日徹夜とかした?」

「ん? んん……」


 どうやら彼は、時雨馬にゲームをプレゼントするために、超特急で最後までクリアしたらしい。なんだか悪い気になってきた時雨馬に、(ガース)が話しかけた。


「まあ、くれるって言うんだからさ、ありがたくもらっとけよ。……あとそれから、これはオレからな」


 そう言って、(ガース)は周囲を見回しながら、そっと紙袋を時雨馬に渡した。なぜか、声のトーンが若干下がっていた。


(ガース)……」

「こっちは、ウチに帰ってからゆっくり読め」


 それは、中学生が手にすべきではない週刊誌だった。


「アニキの部屋からパクった。袋とじはオレが開けちゃったけど、まあ気にすんな」

「あ……ありがとう、ふたりとも」


 時雨馬は、ふたりの親友に礼を言った。彼らなりに、傷ついているであろう時雨馬のことを気遣ってくれていたらしく、それが時雨馬にはうれしかった。


 キーンコーンカーンコーン


 そのとき、予鈴が鳴り響いた。


「おっと。じゃ行こっか」


「またあとでね、時雨馬」


 三人は、教室に戻っていった。


「時雨馬」


 自分の席に着席しながら、時雨馬のほうを指さしつつ(ガース)が言った。


「巻頭特集の(ヤツ)、マジオススメ」

「うん」


 ふたりからのプレゼントをカバンにしまいながら、時雨馬は思わず笑顔になっていた。ちょうどそのとき、教室にドアが開いて担任の教師が入ってきた。


()(りーつ)!」


 いつもの朝のように、日直の生徒が号令をかけた。



 一日の授業を終えた時雨馬は、道場へと向かった。すでに部活の始まる時間となっており、そこでは剣道部の練習が始まっていた。


「おお、来たのか、神条!」


(かざ)()先輩」


 時雨馬の姿を見つけて、剣道部の三年生、(かざ)()(しん)が声をかけた。彼女はいつもと同じく、純白の剣道着を身にまとっていた。その剣道の実力と立ち振る舞いのりりしさから、風間心は男女を問わず、多くの生徒から屈指の人気を集めていた。さらに校内には、彼女のことを「(しん)さま」と呼び、熱心に追っかけをする女生徒までいるらしい。


 風間心はレッキとした女性でありながら、この剣道部の主将を務めていた。また、かつて時雨馬を剣道部に勧誘したのも彼女である。そんな縁もあって、風間主将は他の部員以上に、時雨馬にことを気にかけているようだった。彼女は、久しぶりに顔を見せた後輩に対し、いつもと変わらない様子で話しかけてきた。


「どうだ、久しぶりに一番?」


「いえ、今日は素振りだけにしておきます」


「そうか……。でも、お前が道場に来てくれてうれしいぞ、神条」


「はい、ありがとうございます、先輩」


 時雨馬は、ロッカーにしまっておいた稽古着と袴に着替えた。久しぶりに袖を通した紺色のその道着は、相変わらずツンとくる汗くさい匂いがしたが、それが時雨馬にはなんだか懐かしく感じられた。


 練習用の竹刀を持って、時雨馬は道場に足を踏み入れた。ヒンヤリとした床の感触が、裸足の時雨馬を迎え入れた。ほかの部員たちは、大きなかけ声を上げながら乱取りを続けていた。

 時雨馬は、彼らの邪魔にならないように道場の脇で、竹刀の素振りをはじめた。


(イチ、ニ。イチ、ニ……)


 ゆっくりと竹刀を振っているうちに、時雨馬はしだいに無心になっていった。

 苦手意識ばかりが先行していた剣道だったが、こうして汗をかくのもいいものだと、彼は感じていた。


 時雨馬はそれからしばらくの間、ひとりきりで素振りを続けていた。



「ようし、本日の練習はここまで!」


 やがて夕方になり、風間主将は部員たちにそう告げた。練習を終えた彼らは、それぞれに帰り支度をはじめていた。


「神条、お前も上がっていいぞ」


 そう声をかけてきた風間主将に、時雨馬は汗を拭きながら答えた。


「あ、あの風間先輩。僕に、道場の掃除をさせてください」

「どうしたんだ、急に? 掃除なら新入生が……」

「いえ僕、しばらく部活に来なかったし、みんなにもお詫びも込めてちょっと……」

 時雨馬のそんな申し出を、黙って聞いていた風間主将は、笑顔を見せてうなずいた。

「……そうか。じゃあ、あとはお前に任せる。頼んだぞ、神条」

「はい!」


 剣道部員たちは、練習後の掃除を時雨馬に任せて、道場をあとにした。時雨馬はホウキを使って床のホコリをきれいにすると、水を入れたバケツと雑巾を用意した。


「……ようし、やるか!」


 時雨馬は、無人となった道場の床の、雑巾がけを開始した。



 気がつくと、あたりはすっかり暗くなっていた。さすがに、この広い道場をひとりで雑巾がけするともなると、結局一時間以上もかかってしまっていた。


「ふう……。ま、こんなもんかな」


 時雨馬はようやく掃除を終え、満足そうに言った。その後、制服に着替えるためロッカーを開ける時雨馬。荷物をまとめ、風雅の入った竹刀袋を肩に掛けると、道場の明かりを消すため、再び道場に戻ってきた。


「じゃ、そろそろ帰るかな」


 電気を消し、扉を開けようとしたとき、時雨馬に声をかける者がいた。


「まだ帰ってもらっては困るのう、宗主(そうしゅ)どの」


「?」


 その声に振り向いたとき、時雨馬は顔のすぐ前を何かが通り過ぎるのを感じた。


 ヒュンッ!


「おっと、外したか」


 時雨馬の前を通り過ぎた何かは、再び元へと戻っていった。暗闇でよくは見えなかったが、そこにはふたりの人影があるように思えた。


「だ、誰ですか?」


 時雨馬の声には答えず、人影のひとりが、また彼の方に向かって何かを投げてきた。時雨馬は、とっさに脇へ跳び退いて避けたが、それは反射神経の乏しい彼にとって、奇跡的といっていい動きだった。


「な、なんだ、いったい?」


 時雨馬に向かって投げつけられたもの。それは鉄の鎖でつながれた、分銅(ふんどう)のような(おもり)だった。再び標的を外したその人影に、もうひとりが声をかけた。


「なんじゃ姉者、()()くそじゃのう。わしが先にやってしまうぞ」


 それは、女の子の声だった。その少女は、頭に(てつ)(かぶと)らしき防具を、両手に鋼鉄製のかぎ爪のような武器をつけていた。月明かりに照らされて、彼女が右手の甲にはめた鉄の爪をペロッと舌で舐める仕草が、時雨馬にはっきりと見えた。


「わああっ!」


 時雨馬はあわてて壁の方に走り出し、さっき消したばかりの道場の明かりをつけた。そこには、ふたりの少女が立っていた。


 ひとりは髪が長く、背の高い少女だった。よく見ると、二十歳(はたち)くらいにはなっていそうである。彼女は左眼に大きな傷があり、その上を黒い眼帯をつけて覆い隠しているようだった。手には鎖鎌(くさりがま)を持っており、右手で分銅をヒュンヒュンと回転させていた。


 もうひとりの鉄の爪をつけたほうは、鎖鎌の少女とは対照的に、ぐっと小柄な女の子だった。ふたりが身にまとっているものは、まるで時代劇に出てくる忍者のような服装に思われた。


「スグリ、ボヤボヤしていると人が来る。さっさと片づけるぞ」

「あいよ」


 そう言うと、ふたりの少女は武器を構えた。時雨馬は、無意識のうちにその場から走り出した。


「逃がさん!」


「くあっ!」


 鎖鎌の少女は、また分銅を投げつけた。時雨馬は、すんでの所でジャンプして、分銅の攻撃を逃れた。時雨馬は、背負っていた竹刀袋から、風雅を取り出した。


「はあ、はあ、はあ……」


 時雨馬は息を切らせながら、鞘から刀身を抜いた。そしてその刀を構えて、ふたりの少女に対峙する。


 しかし、彼女たちはそんな時雨馬の様子に動じることなく、余裕の表情を見せた。


「なんじゃおぬし、その剣でわしらと勝負しようというのか? ハン! わしらもなめられたもんじゃのう〜」


 スグリと呼ばれた、鉄の爪をつけた小柄な少女は、ものすごい勢いで時雨馬のもとに走ってきた。またたく間に時雨馬の目の前にたどり着くと、両手の爪を振るって攻撃を加えてくる。


「りゃっ!」

「っく!」


 時雨馬はただ身体をこわばらせたまま、風雅を立ててスグリの爪を弾いていた。やがてスグリの動きが一瞬止まったとき、時雨馬は刀を振りかぶり、ここぞとばかりに渾身の力で叩きつけた。


 しかしスグリは時雨馬のその攻撃を、バク転しながらいとも簡単にかわした。その動きから、彼女が決して本気を出しているわけではなく、ただ遊んでいるだけだということは明白だった。


「ふんっ、はあっ、たあっ!」


 時雨馬は何度も風雅を振り回すが、その刃はスグリにかすりさえしなかった。


「じぇんじぇん当たらんのう〜、兄ちゃん。それでもおぬし、本当にここで剣の修行をしておるのか?」


 そう言って、スグリは大声で笑った。何も考えることができず、ただ肩で息をしているだけの時雨馬。



「もういい。遊びは終わりだ」


 鎖鎌の少女が、分銅を刀に向かって投げつける。風雅は、時雨馬の手から弾かれて、道場の床に突き刺さった。


「しまった!」


「悪く思うな。苦しませはせん」


 時雨馬は、一瞬の隙を突いて風雅のもとに駆け寄った。


「剣から手を離せ。無駄だ」


 鎖鎌を回しながら、少女は冷たく言い放つ。しかし時雨馬は、その刀を抜こうとはせず、両手で柄を握りしめたまま叫んだ。


「蘭風!」


 そのときだった。風雅の刃がまばゆいばかりの光を放った。


 カッ!


「むっ?」

「なんじゃ?」


 その光に、ふたりの少女は思わず目を背けた。そして次の瞬間、時雨馬と刀のもとに、人影が現れたことを知った。


「……ら、蘭風……」


「時雨馬さまっ!」


 それは、まぎれもなくあのセーラー服の少女、鬼守蘭風だった。時雨馬は、彼女の姿を見ると、そのままその場に座り込んでしまった。


「来てくれたんだね……」


「時雨馬さまぁ……」


 蘭風は、時雨馬の体を抱きとめると、ふたりの少女の方へ向き直った。


「……あなたたち、()(ごろ)(しゅう)ですね?」


 いつになく怒りの表情を見せる蘭風は、ふたりに向かってたずねた。


「いかにも。我らは夜来衆、紅蓮(ぐれん)のカラマと」

蒼雷(そうらい)のスグリじゃ。おぬしらの命、いただくぞ」


 スグリはそう言うと、蘭風に向かってダッシュをかけた。爪を振り下ろすが、蘭風は風雅を床から抜きながら、すばやく跳び退いて避けた。


「やるのう、鬼神衆」


 蘭風は、風雅を逆手で構えて刃を向けた。


「私の名は龍神(りゅうじん)宗家(そうけ)、神条時雨馬さまが御守刀、鬼守蘭風。宗主(そうしゅ)さまへの狼藉(ろうぜき)は、決して許しません!」


「ぬかせっ」


 カラマと名乗った隻眼の少女は、分銅を蘭風に投げつけた。その手に構えた刀に、鎖が絡みつく。


「スグリ!」

「あいよ!」


 ものすごい勢いで、回転しながら突っ込んでくるスグリ。だが蘭風は、その攻撃を高く跳び上がってかわした。


「なんじゃっ?」


 目標を見失ったスグリは、その場に転倒した。着地した蘭風は、スグリの頭を踏みつけると、そのままカラマのいる方に跳び込んだ。


「こいつ、わしの頭を踏み台にぃ?」


「させるか!」


 カラマは、左手に持った鎌で蘭風に向かって斬りかかるが、蘭風は紙一重のところで何度もその攻撃をかわし続ける。やがて、風雅に絡みついた鎖がほどけると、蘭風は、すぐさまカラマに向かって刀を振り上げた。


「とおっ!」


 間一髪のところで、蘭風の攻撃を避けたカラマだったが、手にした鎖鎌を弾かれてしまった。


「こいつ……速い……」


 カラマはすばやく体勢を整え、再び鎖鎌を手にすると、倒れたままのスグリの方へ駆け寄った。


「スグリ、行くぞ」


 カラマは、スグリの体を抱きかかえたまま、窓ガラスを割って道場の外に脱出した。蘭風が後を追うが、すでにそこからふたりの姿は消えていた。


「夜来衆……。こんなところにまで……」


 蘭風はそう言うと、ゆっくりと息を吐いた。



 危険が去ったことを確認した蘭風は、時雨馬のもとへと駆け寄った。


「大丈夫ですか、時雨馬さま!」


 時雨馬は若干の打ち身やすり傷を負った程度で、疲れ果ててはいたもののとくに大きなケガをしている様子はなかった。


「ありがとう、蘭風。あのとき僕、君の顔が浮かんで……。そしたら……」


「よかったぁ、時雨馬さま……」


 蘭風は時雨馬の体を抱きしめると、彼の顔に頬をこすりつけて涙を流し始めた。


「ごめんなさい、時雨馬さま、時雨馬さまぁ……」


「い、痛いよ、蘭風」


 だが蘭風は、いつまでも時雨馬のことを離そうとはしなかった。






(五)



 ノックの音がした。


「入りたまえ」


「失礼いたします」


 ドアを開けて入ってきたのは、おそらく五十代半ばと思われる、黒ずくめのスーツに身を包んだ男だった。その目つきの鋭さと、顔に刻まれたシワ、そして何より鍛え抜かれた体型が、彼のエージェントとしての実力とキャリアの深さを物語っていた。その部屋のデスクの前に座っていた太めで白髪の男性は、彼の姿を確認すると、ゆっくりと椅子から腰を上げた。


()(とう)()君、また今度も、ずいぶん派手にやってくれたようだね」


「ですが部長、今回の件については、やむを得ない事情がありまして……」


 後藤田と呼ばれた男は、部長の言葉に直立不動のまま答えた。


「君の言い分については、提出された始末書でさんざん確認させてもらったよ。だが、死者ゼロとはいえ、重体ふたりに重傷七人、おまけに軽傷十六人というのは、正直ちょっといかがなものかな」


 手元の書類をめくりながら、部長は言った。その言葉を、微動だにすることなく聞いている後藤田。


 しばらくの沈黙のあと、デスクのそばから歩みを進めてきた部長は、後藤田の耳のそばまで口を近づけると、ドスの効いた低い声で言った。


「……お前さん、やり過ぎなんだよ。知っての通り、ここは公調(こうちょう)といってな。諜報活動が任務なんだ。誰もテロリスト退治なんて、要求しちゃいないんだよ」


 部長と目を合わせることなく、後藤田は言った。


「十分に反省しております」

「ほう、そいつはよかった」

 部長は再びデスクに戻り、自分の椅子にドカッと体を預けた。


「そんな殊勝な後藤田君に、私からとっておきの役職(ポスト)をプレゼントだ。()(とう)()(まさ)(しげ)君、君は本日付をもって、わが公安調査庁の特殊活動調査室へと配属される」


「特殊活動調査室?」


 その言葉を聞き、後藤田ははじめて部長の顔を見た。


「このたび新たに開設された部署だ。おまけに室長だぞ、めでたく昇進だな。とは言っても、部員は目下(もっか)のところ君ひとりだが」


 部長はデスクに両肘をつき、指を組みながら、見上げるようにして後藤田に向かって話し続けた。


「私はそこで何を?」

「いま、東京湾沖ほか、日本のあちこちで頻発している火山活動のことについては知っているな」

「ニュースで見た程度ですが」

「そいつと、これだ」


 部長はそう言いながらデスクの引き出しを開け、一通の封筒を取り出すと、デスクの上に放り投げた。


「彼らとの関連性を調べてもらいたい」


 後藤田は、封筒の中から『重要機密(トップ・シークレット)』と書かれたファイルを取り出した。そこには、ふたりの人物の顔写真に、簡単なプロフィールが記されていた。


「……何者ですか、いったい?」


「なんでも、今回の火山活動に密接に関係すると言われている、『龍脈(りゅうみゃく)』の秘密を握る一族の末裔(まつえい)だそうだ」


「龍脈? これまたずいぶん、オカルティックな話ですが……」


「まあそれについては同感だが、こちらとしても予算(カネ)がついた以上、調べんわけにもいかんからな」


「それが、私の役目というわけで」


「不満かね?」


「いえ」


「とにかく、それを詳細かつ綿密に調べるのが、今回の君の任務だ。……内容は理解したかね? 理解したら、速やかに行きたまえ」


 すでに話は終わったとばかりに、部長は懐から煙草の箱を取り出して、その中の一本を口にくわえると、ライターで火をつけた。後藤田はファイルを封筒の中にしまい、頭を下げて言った。


「それでは、失礼します」


「おっと、後藤田君、もうひとつ」


 扉から出ようとする後藤田を呼び止めると、部長は人差し指を向けながら言った。


「報告を(おこた)るな」


「……了解しました」


 後藤田は、静かに部長室のドアを閉めた。



 後藤田は、走行距離十万キロをとっくに超えたシルバーのセダンのドアを開けると、部長から預かったばかりのファイルを助手席に放り込んだ。そのまま運転席に腰を下ろし、シートベルトを締める。


 そして彼は、ファイルのプロフィールに書かれた住所を確認すると、再びその用紙をシートの上に放った。


「やれやれ。新興宗教団体の次は、子供(ガキ)のお守りか……」


 そう言いながら、グローブボックスからサングラスを取り出して、顔にかける後藤田。彼はキーを回してエンジンを始動させると、車を西東京市方面へ向けて発進させた。


 ファイルに記されていた、その人物の名は、『神条 時雨馬』と『鬼守 蘭風』だった。






(六)



「あいつら、いったい何者なの?」


 蘭風とともに、自分の部屋に帰ってきた時雨馬はそう言ってたずねた。薬箱を見つけてきた蘭風は、時雨馬の負った傷の手当てをしながら答えた。


「夜来衆といって、昔から私たちに敵対している(あや)かしの一族なんです」


「あやかし? それってつまり……人間じゃないってこと?」

「そうですね」


 やけにあっさりと答える蘭風。


「いやいやいや」


 時雨馬は手のひらを顔の前で左右に振りつつ、ちょっと笑いながら言った。


「そんな、小説(ラノベ)漫画(アニメ)じゃあるまいし。そんなものがこの令和の世の中に、本当に存在するって言うの?」


 そう言う時雨馬に、蘭風は答える。


「ええ。だって、私も似たようなものですから」


 その言葉を聞くと、時雨馬はびっくりしたように蘭風の顔を見ながら叫んだ。


「ほ、ほんとに?」


 あ然とする時雨馬に対し、逆に少々気の抜けた様子で蘭風が言葉を続けた。


「……時雨馬さま、本当に何もご存じなかったんですね」


 ひととおりの手当を終えた蘭風は、薬箱をしまうと、時雨馬の方に向かって座り直した。そんな蘭風の様子に、つられるようにして正座する時雨馬。


「時雨馬さま、私は千年の長きにわたって、代々龍神宗家にお仕えしてきた、鬼神衆の血を引く娘です」


「鬼神衆?」


 そう言えば、昨日の夜も安尋和尚がそれと同じ言葉を言っていたことを、時雨馬は思い出した。

「私たち鬼神衆は、その妖力(ようりょく)と武力を持って、龍神宗家を統べる方、つまり宗主さまをお守りしてきたんです」


「それが、『御守刀』っていうことなの?」


「はい。ひとりの宗主さまには、必ずひとりの『御守刀』と呼ばれる鬼神衆の者がお仕えすることになっているんです」


「はあ……。なるほど……」


 時雨馬は、思わず深くうなずいた。読書が趣味の彼にとって、こういうファンタジー系の話は個人的に好みのジャンルだった。だが興味深く蘭風の話を聞いているうちに、時雨馬にはひとつの疑問が浮かんだ。


「ところでさ。さっきから、龍神宗家とか、宗主さまとか言ってるけど」

「はい」

「それってつまり……」

「もちろん、時雨馬さまのことですよ」


 蘭風は、手のひらを広げた指を時雨馬のほうに向けながら言った。


「龍神宗家って、いったい何?」


「龍神宗家とは、この国の龍脈を支配する力を持った、それはそれはとってもありがたーい神族(しんぞく)の方々のことです」


 蘭風は、手のひらを顔の前に合わせながら、拝むようにして言った。


「神族って……ようするに神さまってこと?」

「まあ、平べったく言えば、そうなりますね」

「僕が?」

「はい!」


 それを聞いて、思わず腕を組みながら天井を見上げる時雨馬。


「……あのさ、蘭風」


「はい、時雨馬さま」


「それはウソだよ! だって僕、ただの一般人だもん。そんな、神さまのわけないじゃん。何の力もないよ。僕にだって、父さんや母さんにだって……」


 そう言いながら、時雨馬は急に言葉を止めてうつむいた。だがやがて、小さな声でこうつぶやいた。


「……だから、父さんと母さんは殺されたの?」


 時雨馬は、蘭風の顔を見た。彼女は何も言わず、ゆっくりとうなずいた。


「そんな馬鹿な! 何でそんなことが君に……」


 気が動転して、思わず大声を上げる時雨馬に、蘭風は静かに言った。


「わかります。だって、私も時雨馬さまと同じように、父を亡くしたんですから……」


「……!」



 蘭風は、時雨馬に向かって話を続けた。


「私の父、鬼守(おにがみ)蘭山(らんざん)は、時雨馬さまのお父さま、重馬(じゅうま)さまにお仕えする御守刀でした。重馬さまをお守りして、もう二十年以上になると聞きます」


「そんな……僕、何も知らなかった……」


「おそらく、時雨馬さまが成人されるまで、そのことは黙っていらっしゃるおつもりだったのでしょう」


「でも、父さんは普通の人だったよ。神さまとか妖力とか……」


 蘭風は、かぶりを振りながら言った。


「すべての宗主さまが、妖力をお持ちだというわけではないんです。およそ百年に一度、龍脈に乱れが生じる時があって、それを鎮めるために、そのときの龍神宗家の宗主さまがその妖力を覚醒させると言われています」


「龍脈って?」


「この国の大地の根幹を支えるべく、縦横無尽に流れている気脈のことです。いま、日本の各地でそれが大きく乱れているのです」


「……もしかしてそれって、このこと?」


 何かを思いついた時雨馬は、そばにあった新聞を開き、蘭風に指し示した。それは、東京湾沖に突如出現した火山礁と、それに関連するように各地の活火山が活動をはじめているというニュースだった。


「はい。おそらく、その通りです」

「……」


 時雨馬は、しばらくうつむいていたが、やがて蘭風に口を開いた。


「ねえ、父さんと母さんは、何で死んだの?」


「わかりません。先ほど襲ってきた、あの夜来衆のふたりが関係しているかどうかも、私にはわからないんです……。でも、決しておふたりは、交通事故でお亡くなりになったわけではありません。私の父が同じ日に命を落としているということで、それは間違いないんです……」


「蘭風……」


「時雨馬さま……。私の父が、ご両親をお守りできなくて、本当に申し訳ございません。でも、私……、わたくし……」


 そのとき、蘭風の目に涙があふれ出した。言葉に詰まる蘭風。そんな彼女の体を、時雨馬は手を伸ばして抱きしめた。


「だけど、僕を守りに来てくれたんだよね……」


「時雨馬さま、いまはあなたが龍神宗家の血を引く宗主さまです。父の死んだいま、私があなたを……」


 蘭風は涙を拭いながら、時雨馬の顔を見た。時雨馬は、彼女を元気づけるように優しく微笑んだ。

「話してくれて、ありがとう、蘭風。僕に何ができるかわからないけど、まあがんばってみるよ」


「時雨馬さま……」


 その顔を見て、蘭風も笑顔に戻った。


 なんだか信じられないようなことばかりだけど、いま、ここには自分のことをまっすぐに見つめてくれる、蘭風がいる。


 時雨馬は、それだけは揺るぎないものだと確信していた。



「悪かったのう、姉者。わしが油断したせいで……」


「もういい、スグリ」


 カラマは、申し訳なさそうに話すスグリに向かって言った。彼女は、剣道場で仕留め損なった、時雨馬と蘭風のことを思い出していた。


「それにしても、あの蘭風とかいう女。あの動き、ただ者ではない……」


「鬼神衆か……やっかいじゃのう。でも姉者、あのガキは本当に龍神の宗主なのか?」


 スグリの問いに、うなずくカラマ。


「ああ。まだ妖力の覚醒はしてはおらんが、あの匂いはまさしく本物だ」


「ああ〜ん、まさか喰い損なうとはのう……」


 スグリは、天を仰いで手足をバタバタさせながら悔しがった。


「まあいい、今日はもう寝ろ」

「……姉者」

「なんだ?」

「腹減った」

「さっき喰ったばかりだろうが!」

「ん〜、でもぉ〜」


 そのとき、何か小さな影が駆けていくのを、カラマは見逃さなかった。彼女は、手元の鎖鎌についている分銅をすばやく投げつけた。


「セイッ!」


 チュッ!


 カラマの分銅が、ネズミのしっぽの上を挟みつけていた。それを見たスグリは、すばやく飛びついて、両手でネズミを捕まえた。


「おお〜悪いな、姉者」


 カラマは何も言わず、寝床に横になって目を閉じた。スグリは舌なめずりをすると、ネズミをしっぽからぶら下げて持ったまま、その手を顔の上にあげた。


「あ〜ん」


 暴れるネズミの真下で、スグリは大きく口を開けると、そのまましっぽから指を離した。



「時雨馬さま、お風呂が沸きましたよ」


「うん、ありがとう」


 夕食をすませて、テレビを見ながらくつろいでいた時雨馬に、蘭風は声をかけた。時雨馬はタオルと着替えの用意をすると、風呂場の方に向かっていった。


「じゃ、お先に」

「はい、どうぞ」


 服を脱いで洗濯機の中に放り込むと、時雨馬は風呂のガラス戸を開けた。真っ白い湯気で満たされた空間に、時雨馬は足を踏み入れる。


 かけ湯をして、ゆっくりと湯船に浸かる時雨馬。


「はあ〜」


 四十三度と、ほどよい温度に沸いたお湯に浸かり、時雨馬は思わず大きな息を吐いた。

 今日一日の緊張と疲れが、湯船の中で少しずつ解きほぐされていく気持ちよさを、時雨馬は全身で感じていた。安アパートのユニットバスとはいいながら、なかなか入り心地のいい風呂に、時雨馬は十分満足していた。


(やっぱり、日本人はお風呂だよねえ)


「時雨馬さま〜、お湯加減はいかがですか〜?」


 ガラス戸の向こうから聞こえてくる蘭風の声に、時雨馬は目を閉じながら答えた。


「ん〜、ちょうどいいよ〜」


「それは、よかったです〜」


「ん〜」


「じゃあ私も入りますね〜」


「ん〜」


 ……ん?


 目を開けた時雨馬の視界に飛び込んできたのは、一糸まとわず風呂場の中に入ってきた蘭風の姿だった。



「ちょ、ちょっと待って! なんで入ってくるの!」


「せっかくですから、お背中をお流ししようと……」


「いいって!」


「あら、遠慮なさらないでください、時雨馬さま」


「遠慮なんて……。べつにしてない……けど……」


 そう言いながら、時雨馬の目は蘭風のたわわに実った胸に釘づけになった。彼の人生で、はじめて目にする、家族以外の女性のナマの裸。それも、いままでに想像したこともないほどの、特大のボリュームを携えて登場したのだった。


「時雨馬さま?」


 蘭風は、その身体を少しも隠そうとせず、湯船に浸かったままの時雨馬の前に立った。そのまま呆然としている時雨馬の顔を、心配そうにのぞき込む。


「どうかなさいました?」


 両腕の脇にはさまれて、窮屈そうな蘭風の胸が時雨馬の顔の前に現れ、プルンと揺れた。そのふくらみも肌のきめ細かさも、その先端の色や形状さえ、近眼の時雨馬の目にもくっきりと確認できる。

「いや……。蘭風って、よくほかの人といっしょにお風呂に入ったりするの?」


 時雨馬は、なぜかそんな質問をしていた。


「うーん、そう言えば……。覚えはないですね。家族以外とは、はじめてです」


「は、は、はじめてなんだ……。や、やっぱ、はじめてのほうがいいよね……」


「はい」


 自分でもよく訳のわからないことを言う時雨馬に、にっこりと微笑んで答える蘭風。


「それでは、よろしいでしょうか?」


「なにが?」


「いえ、そちらにごいっしょしても……」


「こっここ、ここ入るの?」


「ええ、せっかくですから」


「そっか、せっかくだしね」



 どっくん どっくん どっくん どっくん



 心臓の音が、はっきりと耳に聞こえてくる状態となった時雨馬にかまわず、風呂桶を使って丁寧にかけ湯をする蘭風。白い肌の上をお湯が流れ、さらさらとしたたり落ちてゆく。



「ふう」


 ひと息ついて、蘭風はゆっくりと振り返る。


「それじゃ、時雨馬さま、失礼しまぁす」


「うん……」



 どっくんどっくん  どっくんどっくん



 時雨馬が浸かったままの湯船の中に、両手をかけて入ろうとする蘭風。すらりと伸びた右脚の太ももが、ゆっくりと上がってゆく。


「はぁ……」



 どっくどっくどっくどっくどっくどっく……



「うふ……。はいっちゃいますよぉ……」



 どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくど



 時雨馬の目の前に、蘭風の秘密の部分が現れようとしていた。あまりのことに、時雨馬の胸の鼓動は最高潮に達しようとしていた。



 そのとき、玄関のドアを勢いよくノックする音が聞こえた。


「時雨馬ぁー、あたしー。晩ごはんのおすそ分け持ってきたよー。肉じゃがー」


 それは、春希の声だった。一気に我に返り、湯船から立ち上がる時雨馬。


「時雨馬、いないのー?」


 突然のことに、次にすべき行動の優先順位を、頭の中で組み立てはじめる時雨馬。

 と、とにかくダッシュで上がって、体を拭いて服を着て、風呂場の中は絶対見られないようにして……ああっ、もう!


「しっぐっまっ、いっるっんっでっしょっ? ……なんだ、カギ()いてるじゃん」


(だめぇーっ、いま開けないでぇーっ!)


 時雨馬の心の叫びもむなしく、春希はドアを開けた。玄関を入って、すぐ横に見える風呂場の中で、素っ裸のままなかよく並んでいる時雨馬と蘭風に、春希は目を合わせた。


「やあ……」

「こんばんは」

「どうも……」


 三人は、とりあえず挨拶を交わした。


「って……」


 やがて、春希は怒りに震える声で叫んだ。


「あんたたち、なんでいっしょにお風呂入ってんのよ!」






(七)



 次の日、時雨馬を学校に送り出した蘭風は、スーパーや専門店がテナントで入っている駅前ビルへ買い物に出かけた。東京を訪れるのは、今回がはじめてというわけではなかったが、スーパーどころかコンビニすらない「鬼神(おにがみ)の里」からやって来たばかりの彼女は、久しぶりに見る都会のマーケットに、感激を隠さなかった。


「わあ、きれい……。それに広ぉーい!」


 そんな声を上げる蘭風の横を、母親に手を引かれた女の子が不思議そうに見ながら歩いてゆく。それに気がつくと、蘭風は微笑みながら女の子に向かって小さく手を振った。


「ふふ、ばいばい」


 色とりどりの商品で埋め尽くされた店内に足を踏み入れ、蘭風はすっかりウキウキした気持ちになっていた。


 しばらく、各フロアをぶらぶらと散策したあと、蘭風は地下の食料品街へとやって来た。なにしろ今日は、食事の材料を買いに来たのである。


「さて、と。今晩は何にしようかな……」


 財布の中身は、決して潤沢ではなかったが、時雨馬の顔を思い浮かべながら夕食の献立に思いをめぐらすことに、蘭風は静かな喜びを感じていた。



 青果売り場を通ったとき、蘭風は商品棚のある果物に目がとまった。


「あ、メロンだ」


 それは、季節的にはちょっぴり早めのマスクメロンだった。いかにも高級そうな木の箱に収められたそのメロンは、棚の最上段に鎮座していた。


「いい香り……」


 メロンは、蘭風の大好物だった。彼女はゆっくりと手を伸ばし、ひび割れた表面の模様を指でそっとなでながら、昔のことを思い出していた。



()()()、ほら、ご挨拶なさい」


 (みやこ)は、息子の時雨馬に挨拶をうながした。だが時雨馬は黙ったまま、母親のスカートの裾からまったく離れようとしなかった。


 それは、十年前のことだった。(しん)(じょう)家の親子三人は、時雨馬が誕生してはじめて、鬼神の里を訪れていた。


「時雨馬さまは、ちょっと恥ずかしがっていらっしゃるようですなあ? (じゅう)()さま」


 時雨馬の父、重馬の御守刀を務める鬼守(おにがみ)蘭山(らんざん)がそう言って笑う。重馬は、時雨馬の肩に手をかけながら言った。


「どうした、時雨馬」


「……」


 そのとき、蘭山が物陰に隠れてこちらを見つめている少女に気づき、声をかけた。


(らん)(ふう)、こちらへ来なさい」


「は、はい、とうさま」


 はきはきとした声でそう答えると、蘭風は小走りでやって来て、神条親子の前にちょこんとひざまずいた。


「おはつにお目にかかります! わたくし、『おにがみらんふう』ともうします。こんごとも、よろしくおねがいもうしあげます!」


「まあ、元気で立派なご挨拶ね、蘭風ちゃん。いまいくつ?」


 都の問いに、蘭風は答えた。


「七さいです!」

「そうか……。よろしくな、蘭風ちゃん」


 重馬は、優しく微笑みながらそう言った。


「はい!」


 すると蘭山は、娘に言い聞かせるように話しはじめた。


「蘭風、こちらの時雨馬さまは、(りゅう)(じん)(そう)()のつぎの宗主さまになられるお方だ」


「そうしゅさま……?」


「お前が将来、命を懸けてお仕えする方なんだぞ」


「はい! ……しぐまさま、らんふうです。よろしくおねがいいたします!」


 そう言って、かしこまっておじぎをする蘭風。すると時雨馬は都のそばを離れ、ゆっくりと蘭風に近づいていった。


「……うん、よろしくね、おねえちゃん……」


 そう言って時雨馬は、ちょっとだけ微笑んだ。それは、幼い少女の心に、小さな笑顔が刻み込まれた瞬間だった。



 その明くる日、蘭風は熱を出して寝込んでしまった。どうやら、知り合ったばかりの時雨馬と仲良くなろうとして、はしゃぎすぎたらしい。


「しょうがない。今日はおとなしく寝ておきなさい、蘭風」


「ふぁい……」


 そう言って、蘭風の寝ている部屋のふすまを閉める蘭山。すると、その向こうから時雨馬の声が聞こえてきた。


「ねえ、おねえちゃんは?」

「あ、時雨馬さま、いけません。今日は娘は熱を出しておりますので、あちらで……」


 蘭山が時雨馬にそう言い聞かすのを、蘭風は熱に浮かされながら聞いていた。

「ああ……。きょうもしぐまさまとあそびたかったな……」


 そのとき蘭風は、障子に時雨馬の影が映っているのに気がついた。部屋の中で寝ている蘭風の様子をうかがっているようだった。蘭風は思わず布団から手を伸ばそうとしたが、時雨馬はそのまま何も言わず走り去ってしまった。


「ああん、しぐまさまぁ……」


 熱のせいもあってか、悲しい気持ちに覆い尽くされるようになりながら、やがて蘭風は眠ってしまった。



 それからしばらくたって、蘭風の寝ている部屋のふすまを、蘭山があわてて開けながら言った。


「蘭風、こちらに時雨馬さまがいらっしゃらなかったか?」


「……いえ、さっきから、こちらには……。どうかしたのですか?」


 目を覚ました蘭風は、そう答えた。


「どこにもお姿が見あたらないのだ。いったいどちらへ……?」


 それを聞いて、起き上がろうとする蘭風。


「わたくしも、そちらへまいります」

「いかん、お前はまだ寝ていなさい」

「でも、とうさま……」

「時雨馬さまはわしらがお捜しする。起きてはいかんぞ」


 そう言うと、蘭山はまた去っていった。幼い時雨馬のことが心配で、いてもたってもいられなくなってしまった蘭風。だが、彼女にはどうすることもできなかった。


「……」


 それからまた、長い時間がたった。



 やがて陽は落ち、すっかり夜になってしまった頃、蘭風の部屋に向かってくる足音と、人々の声が聞こえてきた。


「時雨馬! いったいどこへ行ってたんだ?」


 父親の重馬の問いにも答えることなく、時雨馬は蘭風の部屋の前で止まると、ガラッと障子を開けた。


「しぐまさま……」


「おねえちゃん、これ、あげる」


 時雨馬は手にしていた紙袋を、蘭風に手渡した。その中には、何か大きな果物が入っていた。


「これは?」


「メロン!」


 そのとき、時雨馬の後ろから都が話しかけてきた。


「時雨馬、そのメロンどうしたの?」


「買ってきたの」


「ひとりでか? しかし、このあたりに、そんなもの売ってる店はないだろう」


 重馬の問いに、時雨馬は答えた。


「でんしゃとバスにのってね、町までいってきたんだ!」


「なんと……。まだ五歳でいらっしゃるというのに……」


 それを聞いて、感心したように言う蘭山。はじめて鬼神の里を訪れたというのに、時雨馬はちゃんと道順を覚えていて、一日かけて町まで往復してきたのだった。


「だって、おねえちゃんカゼひいたんでしょ? カゼにはぜったいメロンだもん。ねえ、ママ。これ切ってあげて」


 時雨馬の両親は、心配をかけた息子を怒る気持ちをすっかりなくしてしまった。それよりも、甘えん坊だった時雨馬が、今日たったひとりで成し遂げた冒険のことを思い、都は思わず時雨馬を抱きしめた。


「もう、あんたって子は……」


 おそらくは自分のお年玉など、全財産をはたいたと思われるメロンをカットして皿にのせ、時雨馬は布団から身体を起こした蘭風に差し出した。


「しぐまさま、あの、わたくし……」


 メロンのような高級な果物など、口にしたこともない蘭風は、どうしていいかわからず戸惑ってしまっていた。時雨馬は、スプーンで一番上の甘い部分を丁寧にすくった。


「はいあーんして」

「あ、あーん……」


 言われるままに、大きく口を開ける蘭風。時雨馬がメロンを食べさせると、その口の中にはじけるような歯ごたえと、爽やかな甘酸っぱさが広がった。自分の周りを取り巻いていたあつぼったい霧が、少しずつ晴れていくような気がした。


「おいしい?」


「はい、とっても甘くておいしいです……」


 はじめて経験するメロンの高貴な味に、蘭風は目の前の少年を重ね合わせていた。


(王子さま……。この人は、わたしの王子さまなんだ……)


「ほら、ぜんぶたべてゲンキだしてね、おねえちゃん」


「ありがとうございます、しぐまさま……」


 そんなふたりの子どもたちの様子を、親たちはなんとも言えない表情で見守っていた。



 あれからもう十年。時雨馬さまも私も、ずいぶん大きくなりましたね。

 時雨馬さまは、あのときのこと全然覚えていらっしゃらないですよね。

 でも私、あれよりおいしいメロン、いちども食べたことないんですよ。


 蘭風は、青果売り場に陳列されている木箱入りのメロンから静かに指を離して、再び歩き出していた。






(八)



 手にしたエコバッグにいっぱいの食材を買い込んだ蘭風は、アパートへの帰り道をゆっくりと歩いていた。


「桜が、きれい……」


 車道沿いには、ようやく満開を迎えた桜の木が整然と列をなしていた。木々の間を風が通り抜けるたび、薄いピンク色の花びらがパラパラと舞い踊る。蘭風は、そんなおだやかな春の息吹を全身に感じていた。


「んっ……。っくああ……」


 蘭風は、午後の陽光を浴びながら、大きく腕を伸ばし、息をついた。


 やがて、アパートの入り口へとたどり着いた蘭風は、そこにひとりの人影がたたずんでいることに気がついた。


「あら、春希さま、こんにちは。いま学校からのお帰りですか?」


 蘭風の問いかけには答えず、春希はゆっくりと彼女の方を向き直った。春希は、通学用のカバンと、部活のラクロスで使うスティックを肩に掛けていた。


「……あんた、いったい誰?」


 低い声で聞く春希に、蘭風はキョトンとしながら言い返す。


「え? 私、蘭風ですけど……」


「そうじゃなくて、何者なの、あんた?」


「あ……えーと、時雨馬さまの母方のおじさんの、イトコのお姉ちゃん……ですよ」


「ウソ」


 蘭風の言葉をさえぎって、春希は言葉を続ける。


(みやこ)おばさんに、兄弟なんていないわ。イトコなんて、でたらめよ」


「え? ええと……」


 春希から視線をそらし、考えをめぐらす蘭風。ふたりの少女の間を風が吹き抜け、無数の桜の花びらが舞い散っていった。


「時雨馬は……」


 春希は言葉を続けた。


「……時雨馬とは、ああやって毎日毎日、ここでいっしょにごはん食べたり、いっしょにお風呂入ったり、いっしょに寝たりしてるの?」


「トイレは別ですよ」


「当たり前でしょ!」


 こらえきれず、とうとう春希は大声を上げた。


「あんた、いったい何が目的なの? なんの関係もないのに、どうして時雨馬に近づくの? 言っとくけどね、時雨馬んちにお金なんてぜんっぜんないんだからね。いまだって、交通事故でお父さんもお母さんもいっぺんに死んじゃって、ひとりぼっちでこんな築三十年のボロアパートで暮らしてんの! たったひとりでよ? まだ中学生なのに。だから……、だから……」


 早口でまくし立てると、春希はそのままうつむいた。


「だからもう、時雨馬に近づかないで……」


 蘭風は、春希が落ち着くのを待って、声をかけた。


「それだけ、ですか?」

「……え?」


 思わず、春希は聞き返した。


「あのぅ私、これからお夕飯の用意しなくちゃなりませんので、これで……」


 そう言って、アパートの階段を上がろうとする蘭風を、春希はあわてて呼び止める。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ! まだ話は終わって……」


「あなたに、なにができるんですか?」


 蘭風は春希の方を振り向くと、そう言った。


「……!」


 絶句する春希。


「どうぞ、ご安心ください。時雨馬さまは、私がお守りしますから」


 そう言って微笑む蘭風に、逆上した春希は思わず、持っていたラクロスのスティックを彼女に向かって振り下ろした。


「う、うるさいっ!」


 スティックの先端の、網のついたヘッドが蘭風の頭を捉えたと思った瞬間、蘭風はすでにそこから、階段の最上段にまで跳び退いていた。それは、常人にはあり得ないほどのジャンプ力だった。

 蘭風は、無言のまま春希に向かって丁寧にお辞儀をすると、そのまま二〇一号室のカギを開けて、部屋の中へと消えていった。そしてそのあと、ドアのカギを閉めるカチャンという音が、春希の耳に冷たく響いた。


 春希は全身から脱力したように、その場にしゃがみ込んでしまった。


「時雨馬ぁ……」


 うつむいた春希の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。



 夜来衆のカラマとスグリとの争いにより、あの夜メチャクチャになった道場については、その翌日かなりの騒ぎとなっていた。床や壁への大きな傷跡のほか、なんといっても派手に割られた窓ガラスが、事の重大さを物語っていた。


 当然その日、この道場を最後に出たはずの時雨馬は、教師や警察からの厳しい聴取を受けた。時雨馬は、とにかく必死にしらばっくれたが、そんな彼をかばったのは、剣道部主将の風間心だった。彼女は、ひょっとして時雨馬の身に何かが起こったのではないかと考えていた。


「神条、本当に大丈夫なのか?」


「心配していただいてすみません、風間先輩。でも、何もありませんでしたから……」


「そうか。お前がそう言うなら、これ以上はもう何も聞かない。でももし、何か困ったことがあるのなら、遠慮なく教えてくれ。力になるぞ」


「はい、ありがとうございます」


 結局、道場の修理のためと、周辺の安全が確認されるまで剣道部の活動は中止となった。



 時雨馬は、部活がなくなったため、授業が終わるとすぐに下校の途についた。


「蘭風、待ってるかな……」


 学校からの帰り道を急ぐ途中、時雨馬は人通りの少ない路地へとさしかかっていた。そのとき彼は、ひとりの男が道ばたに立っているのに気がついた。


 その男は、公安調査庁の特殊活動調査室室長に抜擢されたばかりの、後藤田だった。彼は、トレードマークである黒い上下のスーツに黒いサングラスという、シークレットサービスにお決まりの出で立ちだった。


「神条、時雨馬……だな」


 後藤田は、サングラスを外しながら時雨馬に声をかけた。はじめて見たときから、あからさまに怪しい雰囲気をかもし出していた後藤田に対し、時雨馬は警戒心をあらわにして身構えた。


「そうですけど……。誰、ですか?」


「もう少し、じっくり観察してみるつもりだったが、予想外に接触が早かったようなのでな。やはり俺は、単刀直入な方が好みだ」


「どういうことです?」


 そうたずねた時雨馬のもとに、後藤田はすばやく駆け寄ると、彼の背後に回り込んだ。


「!」


 時雨馬が気がついたときには、後藤田は懐から拳銃を取り出していた。彼は、時雨馬の首もとに銃口を突きつけながら言った。


「こういうことだ……。悪いが、君にはいまここで死んでもらう」

「な、なぜ……僕を……」

「さあな」


 突然の出来事に、声が震える時雨馬。百戦錬磨の殺し屋のような雰囲気を漂わせている後藤田の言葉は、本気としか思えなかった。


「離せっ!」


 意を決して、時雨馬は後藤田の手をふりほどくと、彼から二、三歩離れて向き合った。時雨馬は、背負っていた竹刀袋から、風雅を取り出した。


「ほう……その刀で、いったいどうする気だ」


 ベレッタM92FSの銃口を、時雨馬に向かって構えながら、後藤田はニヤリと笑った。


「まさか、日本刀で拳銃に立ち向かおうっていうんじゃないだろうな? アニメの見過ぎだぜ、坊や」


 時雨馬は、風雅を縦に持ち、柄と鞘をそれぞれの手で握ると、そのままゆっくりと刀身を抜きはじめた。半分ほど抜いたとき、時雨馬は目をつぶり、大声で叫んだ。


「蘭風!」


 すると、道場の時と同じように、風雅の刃が光り輝いた。その光の強さに、思わず目の前に手をかざす後藤田。


「クソッ、なんだこれは!」


 やがてその光は、風雅の刀身から時雨馬の目の前へと移動し、そこに人影を作り出した。光が消えると、そこに蘭風の姿が現れた。


「馬鹿な……」


 後藤田は、目の前で突如起こった少女の出現に、困惑を隠しきれない様子だった。


「お呼びですか、時雨馬さま!」

「蘭風……。なに、その格好?」


 そのときちょうど夕食の支度をしていたらしく、蘭風はセーラー服にエプロンをつけ、右手におたまを、左手に小皿を持って立っていた。どうやら、ちょうど味噌汁の味見をしていた途中だったようだ。


「また(あや)かしの狼藉者ですね! この鬼守蘭風がお相手いたします!」


 蘭風は後藤田の方を振り返り、右手のおたまを逆手に持つと、身構えつつ言った。


「蘭風、おたま」

「あ」


 蘭風は、おたまを時雨馬に渡し、代わりに風雅を受け取った。


「……すみません、お借りします」


 そして再び身構える蘭風。


「さあ、かかっていらっしゃい!」



 そんなやりとりを見ていた後藤田は、ふっとため息をつくと、拳銃の構えを解いた。


「安心しな、お嬢さん。ホンモノじゃねえよ」


 後藤田は、銃口を足元に向けながら二、三回引き金を引いた。カチカチという小さな音だけが聞こえ、銃弾は発射されなかった。後藤田のその姿に、思わず緊張を解く蘭風と時雨馬。


「駅前のおもちゃ屋で買ったエアガンだ。ほれ、君にやるよ」


 そう言いながら、その拳銃を時雨馬に向かって放り投げる後藤田。時雨馬が両手でキャッチしたものは、間違いなくプラスチックでできた、ただのおもちゃだった。偽物の拳銃にもかかわらず、後藤田のあの迫真の演技力によって、時雨馬はまんまとだまされていたのだった。


「さて、これで俺に戦う意志がないってことを、わかってもらえたかな?」


 両手を広げてそう言う後藤田に、再び真剣な顔になった時雨馬が答える。


「どういうことですか? 大人の悪ふざけにしては、ずいぶん(たち)が悪いですよ」


「そうですよ。あなたはいったい……」


 語気を荒げるふたりに、後藤田は言った。


「すまなかった。とにかく、君たちの本当の力が知りたかったのでな」


 後藤田の言葉を、黙ったまま聞いている時雨馬と蘭風。


「だが、これでよくわかった。お嬢さん……らんふう、いや蘭風(らんぷう)さんだったっけか。あんたの力はただものじゃなさそうだ。それから、時雨馬君」


「はい」


「君もな。……また、近いうちに会うことになるだろう」


 そう言いながら後藤田は、ふたりに背を向けて歩き出した。


「ちょっと待ってください!」


 時雨馬が後藤田を呼び止める。


「……あなたの名前は?」


 時雨馬の問いかけに、後藤田は歩みを止めた。


「まあ、名前くらいは教えといてやるか」


 彼は振り向いて言った。


「後藤田だ」

「後藤田さん、あなたは、僕の味方ですか……それとも、敵ですか?」


 予想外のストレートな質問に、一瞬考え込む後藤田。


「それは、いまんとこちょっとわからんな。……味方であることを祈っておいてくれ。それじゃ」

 去っていく後藤田の姿を見送る時雨馬。蘭風は風雅を鞘に収めると、何も言わずに時雨馬の腕にしがみついた。



 ふたりと別れたあと、道路脇に停めておいた車に戻った後藤田。キーを取り出し、ドアを開けようとしたとき、彼は自分を見つめる視線に気がついた。


「ガキ相手に、回りくどいイタズラをするじゃねえか、あんた」


 後藤田は、声のした方をゆっくりと振り向いた。


「そっちこそ、ずいぶんと(ガラ)の悪いお坊さんだな」


「へっ」


 その声の主は、安尋和尚だった。一応袈裟を身にまとってはいるものの、髪型やアクセサリーは例のヤクザスタイルのままだった。彼は、口に火のついた煙草をくわえたまま、後藤田を値踏みするように話しはじめた。


「まさか警察……のわけねえよなあ。スジモンのようにも見えねえし、さしずめ公安あたりの調査員(エージェント)ってとこか」


「そんなナリしてるわりに、けっこうこの業界に詳しいじゃないか」


 安尋和尚は、後藤田のそばまで近寄ると、真面目な表情になって言った。


「なんの目的があるか知らないが、あいつらには手を出すんじゃねえ」


 そう言うと、安尋和尚は振り向いてその場を立ち去ろうとした。


「ふん、彼らの保護者を気取っているつもりか?」


「いや」


 後藤田の問いかけに、安尋和尚はひと言だけ答えた。


「あんたの身の安全の方が、心配なだけさ」



 春希は、時雨馬のアパートからの帰り道を、とぼとぼと歩いていた。


『あなたに、なにができるんですか?』

『時雨馬さまは私がお守りしますから』


 彼女の心の中を、先ほどの蘭風の言葉が何度もリフレインしていた。


 つかず、離れず。これまで、幼なじみの腐れ縁くらいにしか思っていなかった、時雨馬という存在。それがこの一週間のうちに、春希の中で想像もできなかったほど大きくなっていた。


 それを春希に思い知らせたのは、まさしくあの少女、鬼守蘭風。自分と時雨馬が何年もかけて築き上げてきた関係を、蘭風にたった数日で上書きされてしまったような気持ちだった。


(時雨馬が、あのおっぱい女に盗られちゃう。どうしよう……)


 道の真ん中で、ふと立ち止まる春希。だが次の瞬間、自分の前に誰かが立っていることに気がついた。


「誰?」


「何か、お悩みのようね、お嬢さん」


 ゆっくりと春希に近づいてきたのは、夜来衆、紅蓮のカラマだった。カラマの黒い装束やその雰囲気に、ただならぬものを感じた春希は、恐怖のあまりその場にへたり込みそうになってしまう。


「ひっ!」


 カラマは、左眼につけた眼帯を外すと、大きな傷の残った左眼をゆっくりと開いていった。その不気味さに、思わず顔を背けたくなる春希だったが、なぜかカラマの顔から視線を外すことはできなかった。


「ああ……、ああ……」


 やがて、カラマの左眼が完全に開くと、その目の奥から妖しい光が放たれた。その光を見た春希は、そのまま気を失ってしまった。


「おっと」


 その場に倒れ込みそうになった春希の体を、いつのまにか彼女の背後に近づいていた、蒼雷のスグリが抱きかかえる。


「うまくいったな、姉者」


 スグリは、左眼に眼帯をつけ直しているカラマに向かって話しかけた。


「心に迷いの生じた人間など、しょせんこんなものだ」


 あたりを見回し、カラマは言った。


「行くぞ、スグリ。その娘には、存分に役に立ってもらおう」






(九)



 後藤田との出会いののち、時雨馬と蘭風はアパートへと帰っていった。蘭風は部屋の中にいるときに呼び出されたため、靴はなく裸足のままだった。


「そのままで大丈夫? 蘭風」


「平気です、時雨馬さま。お家までもうすぐそこですから……」


「それにしても、この風雅のあるところなら、どこにでも出てこられるんだね。それも、鬼神衆の持っている妖力のおかげなの?」


「ええ、そうですよお。時雨馬さまがピンチになったときは、すぐに私の名前を呼んでくださいね。私、いつでもどこにでも、参上いたしますから」


 蘭風は、ちょっぴり自慢げにそう言った。


「うん。ありがとう、蘭風」


 すると蘭風は、ちょっとうつむきながら時雨馬に話しかけた。


「時雨馬さま、あのう、春希さまのことですけど——」


「春希?」


「あの方のこと、どう思っていらっしゃるんですか?」


 考えもしなかったことを急に聞かれ、時雨馬は少し驚いた。


「どうって……。うーんまあ、幼なじみってやつかな。幼稚園も小学校もずっといっしょだったし、兄妹みたいなもんだよ。あ、あいつのほうが僕よりちょっとだけ早く生まれたんだけど……」


「そうなんですか……」


「急に、なんで?」


「いえ、じつは私、先ほど春希さまにお会いして、ちょっとキツイことを申し上げてしまったかもしれなくて……」


 蘭風は、アパートの前での春希とのやりとりを思い出しながら言った。思えば、他人にあんな態度を取ったのは生まれてはじめてだった。そのことを、蘭風は気に病んでいるようだった。


「そっか。……まあ、そんなに気にすることなんかないよ。あいつ、べつに根に持つ性格じゃないし。ちょっと気が強くて生意気なとこあるけど、これからもずっとなかよくしてやってよ、ね?」


「はい、時雨馬さま」


 時雨馬の言葉に、蘭風はうなずいた。



 ふたりがアパートの前までやってくると、そこには春希が待っていた。蘭風は彼女を見て、一瞬気後れしたようだったが、春希は明るく笑いながらふたりに手を振ってきた。


「や、おふたりさん。待ってたよー!」


 春希の陽気な雰囲気を見て、蘭風と時雨馬はほっとしたように顔を見合わせると、どちらからともなく微笑み合った。


 三人は、時雨馬の部屋に入ると、ちゃぶ台を囲んで座った。すると春希は、時雨馬と蘭風のふたりに、こう話しかけてきた。


「蘭風さん、さっきはごめんね。あたし、ずいぶんひどいこと言っちゃって……」

「いえ、私の方こそ、ご無礼を申し上げてすみませんでした、春希さま」


 春希に向かって、深々とお辞儀をする蘭風。


「ね、仲直りしてくれる? 蘭風さん」

「ええ! もちろんです、春希さま!」

「ホントに? ありがとう、蘭風さん! やっぱり、おっぱいの大きな人は、(ふところ)も大きいのねえ……」


 そう言いながら蘭風に抱きつくと、春希はそのまま彼女の胸に顔をうずめて、スリスリしはじめるのだった。


「ん〜ん、やわらかくって、すごく気持ちい〜い……」

「え、ちょっと春希さま、そんな、いや、……あんっ」


 そんなふたりのやりとりを、ちょっとドキドキしながら見つめる時雨馬。


「それでね、じつはいまから親睦もかねて、蘭風さんと時雨馬をうちにご招待しようと思ってさ。それで、ふたりを迎えに来たの」


 春希の申し出を聞いて、驚く時雨馬。


「えっ、いまから?」


「うん。パパもママも、蘭風さんのこと話したら、ぜひ一度会ってみたいっていうから。ね、ね? おいでよ」


「どうする? 蘭風」


「はい……。でも春希さま、こんな夜分に本当にお邪魔じゃないんですか?」


「もちろん! じゃ、決まりね。行こう、蘭風さん、時雨馬」


 ふたりの背中を、後ろから押すようにして外出をうながす春希。



 身支度をして部屋を出ると、時雨馬はドアにカギをかけた。そのまま、春希の家へと向かう三人。しかしその途中で、春希は何かに気がついたように言った。


「あ、ごっめーん! あたし、あんたの部屋に携帯(スマホ)忘れて来ちゃった。悪いんだけど、先にあたしんち行っててくれるかな?」


 そう言う春希に、時雨馬は不機嫌そうに答えた。


「えーっ。何やってるんだよ、もう……」


「いいでしょ。ね、カギ貸して」


「ほら」


 時雨馬は、春希に部屋のカギを放ってよこした。


「サンキュ」

「早く戻って来なよ」

「すぐに行くから、待ってて」



 時雨馬の部屋のカギを開け、中に入る春希。しばらくあたりを見回すと、彼女は壁に立てかけてあった竹刀袋を発見した。


 すばやく袋の口を開け、中身を確認する春希。その中には、時雨馬の剣、風雅が入っていた。


「ふっ……」


 風雅を鞘から抜き、刀身を確認して不気味に笑う春希。そのまま刀を収めると、風雅を抱えたまま、時雨馬の部屋をあとにした。



「遅いな、春希……」


 結局、ふたりはその場でしばらく春希を待つことにしていた。


「やっぱ、先行っとく?」


「いえ、もう少しお待ちしましょう」


 そう答えたあとで、蘭風は時雨馬に問いかけた。


「ところで時雨馬さま、風雅はお持ちにならなかったんですか?」


「え、うん。だって、春希の家に行くのに必要ないだろ?」


「それはそうですけど……」


「どうしたの?」


「私、ちょっと胸騒ぎがするんです。……すみません、時雨馬さま」


 そう言うと、蘭風は時雨馬のアパートの方へと駆けだしていった。


「蘭風!」


 ものすごい脚の速さで、あっという間に見えなくなってしまう蘭風。やっとの思いで時雨馬が彼女に追いついたのは、結局自分の部屋の前だった。


「はあ……はあ……。いったいどうしたの……?」


 息を切らせている時雨馬に、部屋から出てきた蘭風が焦りの表情で答える。


「……時雨馬さま、風雅がありません。それから、春希さまのお姿も」


「なんだって?」






(十)



 春希の姿が消えてから、三時間以上が経過していた。

 彼女の自宅はもちろん、この街のどこを捜しても、春希を発見することはできなかった。別々になって春希の行方を追っていた時雨馬と蘭風は、待ち合わせていた時間になったため、西武新宿線の()(なし)駅前にあるロータリーで再び顔を合わせていた。


「どうだった?」


 息を切らせながら、時雨馬は蘭風に話しかけた。蘭風は、黙ったままかぶりを振って答えた。あたりはすっかり夜になっていて、帰宅する通勤客たちで駅前は断続的にあふれかえった。


 時雨馬は携帯電話を使って、安尋和尚にも連絡を取った。


「どうした、時雨馬」


「安ちゃん、春希がいなくなったんだ」


 時雨馬の言葉を聞いて、いつになく安尋和尚のトーンが尖ったように変わる。


「……何かあったのか」


「わからないけど、僕の刀も、いっしょになくなってるんだ」


「本当か? ……よし、わかった。俺の方でも、心当たりを捜してみる」


「うん、頼むよ」


「いいか、これから何が起こるかわからん。とにかくお前さんと蘭風は、これからは絶対に離れるんじゃないぞ」


 安尋和尚は、念を押すように言った。


「わかった、安ちゃん」


 電話を切り、夜の街を見渡しながら考えをめぐらせる時雨馬。


「どこに行ったんだ、春希……」

「春希さま……」


 蘭風は不安そうな気持ちを隠そうともせず、時雨馬の腕の袖口を握った。時間が経つにつれ、ふたりにはあせりの気持ちだけがつのっていった。



 トゥルルルルル、トゥルルルルル、トゥルルルルル……。


 そのとき、時雨馬の携帯が鳴った。発信元は、春希の携帯からだった。あわてて電話に出る時雨馬。


「もしもし、春希? いまどこにいるんだ?」


 しかし、電話の相手は春希ではなかった。


「ブッブー。ざんねーん、ちがいまーす」


「誰だ!」


「ヒントは、夜来衆美人姉妹のかわゆい方、じゃ」


「まさか……お前、蒼雷のスグリ!」


「ピンポーン。第一ヒントで正解じゃ。賞品として、おぬしらを地獄の底へご招待ぃ!」


「ふざけるな! 春希をどこへやった!」


「へっへっへっ……。心配せんでも、ちゃあんと大事にお預かりしとるけん。……そう、この街のいっちばん高〜いところにのう」


「一番高いところって……まさか!」


 時雨馬は、この街で一番の高さを誇る、スカイタワーの方角を見た。全高二百メートル近くにもおよぶその鉄塔は、明日の天気を示す紫色にライトアップされていた。


「まさか、あのタワーの上に……」


「へっへっへ。早く降ろしてやらんと、うっかり下に落ちてしまうかもしれんのう。あの高さから落ちたら、ちょっと無事ではすまされんのう……」


 そのまま、電話は切れてしまった。


「時雨馬さま!」

「行こう蘭風!」


 時雨馬と蘭風は、スカイタワーの方へと全速力で向かっていった。



 時雨馬は、走りながら再び安尋和尚に電話をかけていた。


「もしもし、安ちゃん!」


「どうした時雨馬、何かわかったか?」


「春希の居場所がわかった、()(なし)タワーだ!」


「何だって?」


「カラマとスグリっていう変なヤツらに、さらわれちゃったんだ」


 その名を聞いて、一瞬押し黙る安尋和尚。


「チッ……夜来衆の生き残りか……」


「僕と蘭風はそっちに向かってるけど、どうすればいい?」


「待ってろ、俺もすぐに行く。……いいか、無茶なことはするなよ、時雨馬」


 そう言うと、安尋和尚は電話を切った。


「急ぎましょう、時雨馬さま!」


 蘭風は時雨馬の手を取り、ラストスパートをかけた。



「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」


 スカイタワーのもとへと、全力で走ってきた時雨馬と蘭風。このタワーに隣接したところには、科学館が建っていた。その敷地内に足を踏み入れたとき、タワーを見ていた蘭風が何かに気がついて叫んだ。


「時雨馬さま、あそこに春希さまが!」


「えっ、本当に?」


 スカイタワーの最上部に備えつけられたパラボラアンテナの付近に、なんと縄でくくられた春希がぶらさげられていた。だが、近視の時雨馬には、それははっきりとは確認できなかった。


「ええ、間違いありません。気絶なさっているようです」


 蘭風は、春希の様子まで正確に答えた。


「それに……あっ、時雨馬さま、風雅もあそこに!」


 どうやら、春希とともに風雅も縛りつけられているようだ。


「くそっ……」



「どうだ、お前たちの探しているものは見つかったか?」


 その声のする方に振り向く時雨馬と蘭風。物陰から姿を現したのは夜来衆のひとり、紅蓮のカラマだった。


「どういうつもりだ、カラマ!」


 時雨馬の声に、ゆっくりと近づいてくるカラマ。その手には、あの鎖鎌が握られていた。彼女は右手で、分銅を回転させはじめた。


「我らのほしいものは龍神宗家の宗主、お前の(キモ)のみよ」


(キモ)?」


 時雨馬は問い返した。


「それさえ喰らえば、我らは失われた妖力のすべてを取り戻し、夜来の一族を再び再興することができる。おとなしく命を差し出せば、あの娘だけは助けてやろう」


「そんな……春希……」


「時雨馬さまっ!」


「そこの鬼神衆の娘は下がっていろ。まあ、宗主の剣を持たないお前などに、なんの恐れもないがな」


 言うとおりにしたところで、彼らが約束を守るとはとうてい思えない。しかし時雨馬は、どうすればいいかわからないでいた。


 そのとき、時雨馬のそばにいた蘭風が、小さな声でささやきはじめた。


「時雨馬さま……」


「何? 蘭風」


「私、春希さまをお助けします」


「そんな、ムチャだよ。あんな高いところにいるのに」


「大丈夫です。その代わり……」


「えっ?」


「無事に春希さまをお助けしたら、ごほうびをくださいますか?」


「ごほうび?」


「はい」


 時雨馬は蘭風の言葉に、思わず聞き返した。


「僕にできることだったら、なんでもしてあげるよ」


「本当ですか? ありがとうございます。でも……」


「でも?」


 蘭風はひと呼吸置くと、こう言った。


「私の本当の姿を見ても、どうか嫌いにならないでくださいね」



「何をごちゃごちゃと話しているっ」


 ヒュンッ!


「ハッ!」


 カラマは、蘭風の方をめがけて分銅を投げたが、蘭風はすばやい動きでそれをかわすと、そのままタワーのふもとまで走っていった。


「おのれっ!」


 カラマの手から、次々とくり出される分銅の攻撃を、間一髪で避け続けながら、蘭風はやがてタワーの真下にたどり着いた。


 蘭風はそこに立ち止まると、深呼吸しながら精神統一をはじめた。


「どうしたんだ、蘭風……?」


 蘭風を見守っていた時雨馬は、彼女が何かをつぶやいているのに気がついた。



 我が胎内に受け継ぎし (おに)(がみ)の血と肉よ

 いまこそ そのすべてを解き放ち 我に力を与えよ

 龍神宗家にあらがう者を斬り裂くべく 我に角と牙を与えよ



 呪文を唱え続けていた蘭風は、やがてひと呼吸置くと、こう叫んだ。


鬼神(おにがみ)変化(へんげ)……(ザン)!」



 カッ!



 するとそのとき、空高くから稲妻が、蘭風に向かって落ちてきた。激しい光を放つ落雷の直撃を、まともに受ける蘭風。まるで、地上ゼロメートルで打ち上げ花火が破裂したような、強烈な光だった。


「蘭風!」


 大声で、彼女の名を呼ぶ時雨馬。だがそのとき時雨馬は、蘭風がまったく無傷であると同時に、その姿に変化が起きているということに気づいた。


 蘭風の額から、二本の鋭い角が生えていたのだ。


 その角は、青白く鈍い光を放ちながら十センチほど伸びていた。それはまさに、蘭風が鬼神の血を引く少女であることの証だった。



 やがて、ゆっくり目を開ける蘭風。その瞳は赤く染まり、これまでの明るく温和な女子高生の姿からは想像もできないほどの力強さと荘厳さを身にまとっていた。


「蘭風……。あれが、蘭風の本当の姿……ってこと?」


 時雨馬は、鬼神衆という一族の真の姿をはじめて目撃した。だが不思議と恐怖心などは感じず、それどころか自分の身体の中にも、エネルギーがわき上がってくるような感覚を覚えていたのだった。時雨馬は蘭風の姿を見守りながら、強く拳を握りしめていた。


 そのとき蘭風は、その場にしゃがみ込むと、そのまま垂直にジャンプした。


「あっ!」


 蘭風は、二百メートルはあろうかというスカイタワーの最上部まで、なんとたったひと跳びでたどり着いてしまった。彼女は素手のまま、春希を縛りつけている縄を断ち切ると、春希の体と風雅を両腕に抱えこんだ。そしてあろうことか、蘭風はそのままの姿勢で、タワーのてっぺんから真っ逆さまに飛び降りたのである。



 ズウウウンッ!



 ものすごい轟音と、周囲への衝撃とともに、地面に激突する蘭風の体。その落下地点には、半径数メートルにわたって、半球状のくぼみができていた。しかし、その中心にいた蘭風と春希は、まったくなんの影響も受けてはいなかったのだ。



「あれが、『鬼神(おにがみ)変化(へんげ)』か……」


 カラマは、予想をはるかに超えた能力を目前にして、驚愕していた。


 蘭風は、再び安全なところまでジャンプし、春希の体を横たえると、風雅をいつものように逆手に構えつつ、カラマに向かって対峙した。


「サア、夜来ノ女ヨ。我ト剣ヲ交エヨ」


 角と牙が生え、鬼と化した蘭風は、その口調までも変化していた。


「鬼神衆め……。我が一族の秘術を見よっ!」


 カラマは顔の前で印を結び、呪文を唱えはじめた。すると、カラマの周囲の地面に無数のひび割れが発生した。そしてそこから、次々と黒い人影が現れだしたのだ。


「夜来衆秘術、死人(しびと)(まい)……!」


 地面から湧いて出てくる黒い人影は、かつてこの地で命を落とした者の、残留思念の(かたまり)だった。カラマは秘術によって、彼ら死人(しびと)の影を操っていたのだ。



 ……ウ〜ウ〜、ウウ〜ウ〜、ウウ〜ウ〜。



 地の底から響いてくるような、低いうなり声を上げながら、死人(しびと)の影は、蘭風の方に向かってひたすらに歩みを進めてくる。それぞれが前方に伸ばした腕の指先からは、黒い雫が地面にしたたり落ちていた。



 ……ウ〜ウ〜、ウウ〜ウ〜、ウウ〜ウ〜。



 死人(しびと)の影たちは、やがて十重二十重(とえはたえ)に蘭風の周りを取り囲んだ。おぞましい怨念の渦巻く黒い影は、とうとう一斉に飛びかかると、蘭風の体を完全に包み込んでしまう。


「喰らい尽くせっ!」



 ウオオオオオッ!



「蘭風ぅーっ!」


 その光景を目の当たりにした時雨馬は、ただ力の限りに声を上げて、蘭風の名を叫んだ。


「なにっ!」


 ついに、息の根を止めたとカラマが思った瞬間のことだった。蘭風を包み込んでいた黒い影が、またたく間に周囲へと散っていった。その中心には、風雅を体の前に捧げ持ちながら、蘭風が静かに立っていた。


 カラマは、その様子に思わず唇をかんだ。


「バカな……。ひるむな、やれっ!」


 カラマの声に、次から次へと蘭風に襲いかかる死人(しびと)の影たち。しかし蘭風は、それらに見向きもせず、最小限の動きですべて斬り捨てていった。


死人(シビト)ノ踊リトハ、コンナモノカ、夜来衆ヨ」


 蘭風の剣に、最後の影が斬り捨てられたとき、カラマは叫んだ。


「スグリ! 宗主だっ!」

「あいよっ!」


 すると、それまで物陰に隠れていたスグリが姿を現し、時雨馬に向かって飛びかかった。


「いただきじゃあっ!」

「うわああっ!」


 蘭風のいるその位置からは、時雨馬のところまでは届かない。スグリの鉄の爪が、いままさに時雨馬の首を狙おうとした、そのときだった。



 ターン!



 それは、一発の銃声だった。銃撃を、頭にかぶった鉄製の兜にまともに食らったスグリは、体勢を崩して落下。そのまま地面に転倒して気絶してしまった。


「スグリ!」


 その一瞬の隙を突いて、カラマとの距離を詰める蘭風。これまでには考えられない速さと力強さで、剣をくり出してくる蘭風に、もはや防戦一方のカラマ。


(ぐっ……。ヤツの剣筋が、まったく見えない……。これが、鬼神の力を解放した、真の御守刀というものなのか……)


 やがてカラマは、なすすべもなく叩き伏せられてしまう。転倒した彼女の首に、ついに風雅の刃が当てられた。


「……死ネ」

「クゥッ!」


 そのとき、時雨馬が叫び声を上げる。


「やめるんだ、蘭風! 殺すな!」


 時雨馬のその声に、ピタッと動きを止める蘭風。もはやカラマが完全に戦意を喪失していると知った時雨馬は最後、蘭風に彼女の命を奪うことをやめさせたのだった。



「フ……情けをかけたつもりか、宗主……」


 疲労困憊したままのカラマは、右眼で時雨馬をにらみつけた。時雨馬は、そんな彼女に向かって意を決してこうたずねた。


「ひとつだけ教えてくれ。カラマ。……君は、僕の両親を殺したのか?」


「……」


「答えろ!」


「……お前の両親や、その御守刀たる鬼神衆の男を殺したのは、我ら夜来衆ではない」


「なんだって? それじゃ……」


「きっかけは、龍脈の乱れだ。お前も知っておろう」


「あの、火山の噴火のこと……?」


 カラマの言葉に、時雨馬は答えた。


「巨大な力が、また目覚めようとしている。それこそ、この国を揺るがすほどの、な」


「……」


 息を飲む時雨馬をにらみつけながら、カラマはゆっくりと立ち上がる。


「龍神宗家が妖力を持つとき、それはこの世に巣くう妖かしどもにとっても、力を得る絶好の機会なのだ」


 カラマは、時雨馬を指さして言葉を続ける。


「いいか、我ら以外にも、龍神宗家の宗主の身を欲する者は、いくらでも存在する。そう、その血も、肉も、(キモ)も! ……これからは、お前もまたそうした妖かしどもに果てしなく命を狙われ続けるのだ。それが、妖力を覚醒させる血を引いて生まれた、龍神の宗主としての宿命よ……」


「宿命……」


 カラマの言葉を反芻する時雨馬。


「フフ……。後悔するなよ、宗主どの」


 足を引きずりながら、カラマはスグリの倒れているところへ向かった。


「起きろ、スグリ」

「……んじゃぁ?」


 カラマは、スグリの首根っこをつかむと、時雨馬の方を向いて言った。


「龍神の宗主どのよ……。さらばだ」


 そう言い残すと、一瞬のうちにカラマは(きつね)の姿に、スグリは(てん)の姿へと変わった。

 そしてふたつの黒い影は、長い尾をひるがえらせると、夜の闇に溶け込むようにしてそのまま消えてしまったのだった。



 時雨馬の命令で、しばらくの間ストップモーションのように動きを止めていた蘭風は、やがて力が抜けてしまったかのように、そのままそこに倒れ込んだ。時雨馬が彼女の体を抱きかかえると、すでに彼女の額から、二本の角はなくなっていた。


「蘭風……しっかり、蘭風!」


 時雨馬の声に、やがてゆっくりと目を覚ました蘭風。


「う……ううん。時雨馬さま……」


「大丈夫?」


「はい。時雨馬さまも……」


「うん。おかげで助かったよ」



「時雨馬さま……。私の本当の姿、見られちゃいました?」


「うん」


 時雨馬は、鬼神の力を解放し、驚異的な能力を見せた蘭風の様子を思い出していた。だが彼女は、どうやら別のことを気にしていたようだった。


「えへ……。やっぱり、気持ち悪いですよね。角や牙の生えてる鬼なんて……」


 時雨馬は、首を振って答えた。


「蘭風、違うよ。君の本当の姿は、いつもの優しい君のほうだよ」


「時雨馬さま……」


「ありがとう、蘭風……」


 ふたりは、静かに抱き合った。



「よう、お前たち、大丈夫か?」


「安尋さま!」


 そのときふたりのもとへ現れたのは、安尋和尚だった。彼は、春希の体を後ろに背負っていた。

「安ちゃん! 春希は?」


「ああ、気を失っているだけだ。どうやら、やつらに催眠術をかけられたな。まあ、じきに目を覚ますだろう。そしたら……」


「今夜のことも、忘れてるかな?」


「だといいけどな。おっとそうだ、一応あいつの方にも、礼を言っとけよ」


「え? ……ご、後藤田さん!」


「よう、少年。また会ったな」


 安尋和尚が振り返った後ろには、後藤田が静かに立っていた。後藤田は、狙撃用のライフルを手に抱えていた。最後にスグリに向かって一発の銃弾を放ったのは、彼だったのである。


「じつは君の命を守ることも、俺の仕事のひとつでな。まあ、また始末書モノだが」


「後藤田さん……」


 時雨馬は、そんな後藤田の言葉に、内心ほっとしていた。


「俺に連絡をくれたのは、そこの住職さんだ。つぎはもう少し、早めに連絡をくれるとありがたいんだがな」


「まあ、また気が向いたらな」


「……ふっ」


 かすかに笑みを浮かべてライフルを下ろすと、後藤田は振り向いてその場を立ち去ろうとした。

「ありがとうございました、後藤田さま」


 時雨馬の命を助けてくれた後藤田に対して、感謝の言葉を告げる蘭風。後藤田は何も答えることなく、ただ右手を挙げただけだった。そして車に乗り込むと、そのまま後藤田は走り去った。



 それから安尋和尚は、スカイタワーまで運転してきた自分の車に、時雨馬と蘭風、そして眠ったままの春希を乗せて家まで送ってくれた。彼は時雨馬のアパートの前で、ふたりを降ろした。


「本当にお世話になりました、安尋さま。おやすみなさいませ」


「おう、またな」


 そう言うと蘭風は、時雨馬より先にアパートの階段を上がっていった。


「さて、それじゃ俺は、眠れるお姫様を城に届けてくるからな。お前さんも、早く部屋に帰って休みな」


 そう言って車を発進させようとする安尋和尚に、車窓の外から時雨馬が話しかけた。


「安ちゃん、今日は本当にありがとう」


「へっ、礼なんざいらねえよ。今日の危機を乗り越えたのは、あの()と、それからお前さん自身の力のおかげだ」


「安ちゃん?」


「なんだ、時雨馬」


 時雨馬は、安尋和尚に問いかけた。


「……安ちゃんは、僕らのこと、どれくらい知ってるの?」


「龍神宗家とか、鬼神衆のことか」

「うん」


 すると安尋和尚は、懐から煙草を取り出して火をつけた。


「まあ、ボチボチとな……。俺は昔、お前の親父さんには本当に世話になったんだ。親父さんはな、妖力なんざ持ち合わせちゃいなかったが、立派な人だった。どうしようもねえチンピラに過ぎなかったこの俺が、いま寺の住職なんてしていられるのも、もとはと言えばお前の親父さんのおかげなんだ」


「本当に? そんなこと、はじめて聞いた……」


「昔の話だ」


 安尋和尚は、ゆっくりと煙を吐いた。


「俺はな、死ぬ前の親父さんに、お前の将来のことを頼まれたんだ。龍神宗家の血筋を引く、お前のことをくれぐれもよろしくってな。だがな、そもそも俺にはお前さんを守ってやれる力なんてねえのさ……」


「安ちゃん……」


 安尋和尚は、煙草の灰を灰皿に落とした。


「その力を持っているのはな、御守刀のあの()だけだ。時雨馬……これからもお前、あの()のこと、大切にしろよ。……って、そんなこたぁいまさら俺なんかに言われなくても、もうわかってるよな」


 安尋和尚は、階段の上から時雨馬のことを心配そうに見つめている蘭風に気がつくと、彼女に向かってウインクをした。蘭風は、あわてて丁寧にお辞儀を返した。


「じゃあな、時雨馬」

「うん。おやすみ、安ちゃん」


 そして、安尋和尚の車は発進していった。

 時雨馬は、今日の出来事をあらためて思い出しながら、ずっと見送っていた。






 エピローグ



「次のニュースです。このところ活発な噴火活動を続けていた、東京湾沖の火山礁ですが、本日未明に突然沈静化いたしました。現場ではすでに、火山礁は再び海面下へと姿を消したことが観測されている模様です。また、それに呼応するかのように、日本各地で頻発していた活火山活動も、ほぼ通常のレベルまで減少しているということです……」



「蘭風、ほら見て! 東京湾の火山、なくなったんだってさ」


 テレビで朝のニュースを見ていた時雨馬は、台所に立っていた蘭風にそう話しかけた。

「……本当ですね! これってきっと、時雨馬さまの妖力が本格的に覚醒してきたっていう(あかし)ですよ」


「そうなの? そんなことわかるんだ」


「ええ。……ちょっと失礼しますね?」


「ちょ、蘭風……」


 蘭風は、両手で時雨馬の肩を抱くと、自分のおでこと時雨馬のおでこをくっつけた。

 そうしてしばらく目をつぶったあと、彼女はゆっくり目を開けて言った。


「はい。時雨馬さまの妖力、ほんのちょっぴりですけど、確かに感じますよ」


「本当?」


「はい!」


 龍神宗家の宗主としての力……。蘭風にそう言われたものの、まだ時雨馬には、まったくそれが実感できないでいるのだった。


「……そう言えば、時雨馬さま。昨日のごほうび、まだいただいてなかったですよね」


「ごほうび?」

「時雨馬さま……」


 そう言うと蘭風は再び目を閉じ、今度は唇を時雨馬の顔に近づけた。


「んー、んっ♡」

「……!」


 ふたりの唇が重なったその瞬間、玄関のドアが勢いよく開いた。


「おっはろー! 時雨馬、学校行こー。……って、まぁた、あんたたち!」








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