3.歌と踊り
天気が良い事は大変宜しい。
たとえ雨が降っていても、洗い物を干す場所は城内に確かにある。しかし、爽やかな青空の下で、海風を浴びながら干す作業は、家事ではあっても良き気分転換になるのだ。
いつもは渋々ながら城主さまのためにやっている作業でもあるのだけれど、今日はこの快晴のおかげか鼻歌なんか歌いながら洗い物を干すことが出来た。
そう、鼻歌。
今までは歌ったり、踊ったりすることなんてなかったのに、ここ数日、度々わたしは猫の身体で小躍りすることが増えてきた。
それもこれも、皆、”彼女”の影響だった。
今も彼女は牢獄で鎖に繋がれている。そのことについて哀れに思うが、解放してやろうなんてつもりはない。城主さまの大切な奴隷なのだから当然だ。
最初はそのことに酷く嫉妬した。美しい容姿だけで愛しい城主さまの関心を奪い去ってしまわれている気がして、とにかくその存在が許せないほどだった。
しかし、今はそうではない。洗い物の中に彼女の衣類があっても、全く気にせずに扱うことが出来るようになっていた。
きっかけは彼女の思い出話だった。
盗賊だったというろくでなしの過去だが、彼女とて好きでそうなったわけではない。住んでいた村が滅び、命からがら仲間と共に逃げ出して、それからずっと生きるために罪を重ねていくしかなかった。
きっと息つく暇もない生活だっただろうけれど、彼女が語るのはわたしには想像も出来ないほど広々とした世界の光景ばかりだった。
そんな彼女の思い出の中で、妙に興味を引かれたのが、歌と踊りというものだった。
もちろん、鎖で繋がれているから、彼女は踊ったりしない。
しかし、彼女が覚えている音楽を口ずさむと、体がうずき、勝手に手足が動いたのだ。そんなわたしを見ながら、彼女は曖昧な部分を覚えている限り、言葉で教えてくれた。それを踏まえてもう一度歌って踊ると、なんだかとても楽しい気持ちになれたのだ。
まるで、忘れてしまった懐かしい何かと再会したかのような……。
そうだ、少しだけ思い出せた。
わたしは歌と踊りが好きだった。
たぶん、踊子だったわけでも、歌手だったわけでもない。
それでも、素晴らしい音楽と心を震わせる舞に憧れて、人目を忍んでそっと真似をしていた。そんな断片的な光景をふと思い出したのだ。
なんで、忘れていたのだろう。
きっとこの島の生活がそれだけ幸せで、平和ボケしていたからなのだろう。
今は、そういう事にしておきたい。
しかし、一度でも取り戻した思い出は、忘れろと言われても忘れられるものではなかった。
家事の時も、暇な時も、はたまた夢を見ている時さえも、わたしは無意識に鼻歌交じりに踊っていた。
猫の姿で歌って踊る、その様子はきっと傍から見て大変滑稽なのだろう。わたしが練習の成果を見せると、いつもは鋭い彼女の表情もだいぶ和らいだ。
面白がられるのは正直不満だけれど、このお陰で城主さまの言いつけに素直に従うようになるならば望むところだ。それならばいっそ、と、わたしはさらに歌と踊りの練習を繰り返し、彼女のお世話ついでに披露するようになっていた。
全ては城主さまの為だ。
けれど、嫌々そうしているわけではなく、わたしもわたしで練習の成果を見てもらうことが楽しみだった。
いつの間にか、これがわたし自身の楽しみになっていた。
洗い物が終わると、わたしはそのままの足で彼女のもとに向かう。
ここ数日の間に自ら城主さまに希望したことだった。どうせ、毎日のように城主さまは彼女に会いに行く。ならば、このわたしがいちいち確認せずに綺麗にしてさしあげましょうと。
下心なんてない。ただただ城主さまを想ってのことだ。それでも、まるで逢引でもしているかのように、わたしは彼女の元に行くときに妙な緊張を覚えていた。
「おはよう。身体を洗う時間よ」
「おはよう。今日もよろしく頼むよ」
今ではすっかり挨拶を交わす仲だ。
相変わらず鎖に繋がれているけれど、相変わらず美しい。無論、わたしがしっかり磨いているお陰でもあるのだと自負している。
しかし、その目だけは天然の輝きだ。青い目で見つめられるとため息が漏れそうになる。悔しいからぐっと我慢するのだけれど、うっかり見惚れてしまう瞬間は何度もあった。
城主さまもきっとこの目が好きだから長く可愛がられているのだろう。
静かにそう思いながら、わたしは彼女の背中を流した。
「ねえ、あれからまた練習したの。あとで見てくれる?」
問いかけながらごしごしと擦ると、彼女は背中を丸めて小さく笑う。
「いいよ。君の歌と踊りは私にとっても密かな楽しみだからね」
「本当? 嬉しい。猫の身体で踊るのは大変なのよ。音程を守るのだって難しいの。でも、あなたみたいな観客がいるのなら、練習し甲斐があるってものよ」
得意げに語りながら汗を流していると、彼女はふとわたしを振り返った。
「その歌と踊り、君の愛する城主さまは褒めてくれた?」
さり気ないその問いかけに、思わず手が止まってしまった。
我が愛しの城主さまは、どうやら歌も踊りもお好きではないらしい。
猫の身体でも歌って踊れることを知ったあの日、わたしが真っ先に向かったのはもちろん城主さまの元だった。
秘薬づくりと占いに勤しんでいらしたけれど、興奮を抑えきることが出来なくて、わたしは半ば強引に彼女に歌と舞を披露したのだ。
最初の日だから観るに堪えない芸だっただろう。それでも、城主さまはじっとわたしの姿を見守り、うっとりとするほどの笑みを浮かべてしっかりと褒めてくださった。
けれど、彼女はこうも言ったのだ。
――とっても素敵だったけれど、歌うことも、踊ることも、お前のすることではないわ。そんなに好きならば、今度、歌と踊りが得意だった奴隷たちを集めてあげる。一緒に楽しみましょうね。
それは暗に、わたしに対して歌う事と踊る事を禁じているようだった。
しかし、だとしても、直接そう言われたわけではない。いくら愛する城主さまがそう願っていらしても、命じられていない限り――いや、もしかしたら命じられていたとしても知ったことではない。
城主さまの見ていないところで、わたしは歌と踊りを練習した。見てくれるのはたった一人の奴隷だけ。そのひとりがとてつもなく大きかった。
だが、こんな事情をどうして正直に言う必要があるだろう。
尻尾をぶんと揺らしてから、わたしは彼女に答えたのだった。
「城主さまは褒めてくださったわ。でもそれは、可愛い愛猫のわたしだから。このお城にはね、かつては歌手や踊子だった者もいくらかいるの。そういう者たちは城主さまが命じたら人間だった頃のように歌ったり、踊ったりできるのよ」
「……それは、なかなか恐ろしい話だね。彼らは人間だった時のことを覚えているのかな」
「さあ、それは分からない。他の奴隷とお話をしたことはないもの。お世話をしたことはあるけれど、誰も彼もわたしと違って言葉を忘れてしまっているみたい」
だが、確かに気になった。彼らは今、どのようなことを考え、どのような気持ちで歌い、踊っているのだろう。
鳥獣であれ、怪物であれ、妖精であれ、彼らが城主さまに命じられて披露するのはいずれも人間だった頃に覚えていた歌と舞であるという。魂に焼き付いたその芸は、姿が変わり、記憶が封印されていても、城主さまの許しさえあれば解放されるのだとか。
そんな彼らの芸は非常に素晴らしかった。
特に、自分でも歌って踊るようになってからは、改めてその腕前に感心してしまう。
そういえば、ずいぶんと前に歌の上手い男が囚われ、世話をしたことがあった。人間の時もお礼にと、わたしの知らない珍しい異国の歌をいくつか歌ってくれたものだが、何を言っているかは分からなくとも美しい音色だったのを思い出した。
その姿が精霊鳥となってしまってからは、人間だった頃以上に素晴らしく、この世のものとは思えないほどの美声で歌うようになった。
神聖だが、わたしの目指せるような歌声ではなくなってしまった。今になってそう気づいた。
彼の歌声は今も島のあちらこちらから聞こえてくる。城内外を気ままに飛び回り、好きな時に歌っているらしい。
その様子は傍から見る分にはのびのびとしているように見える。しかし、彼がどんな思いで歌っているのかは定かではない。
気になる。妙に気になってしまう。彼だけではない。わたし以外の者たちすべてについて、どんな思いでここに暮らしているのかが今更になって気になり始めた。
むしろ、これまではどうして気にならなかったのだろう。いや、それとも、これまでにも考えたことはあったのだろうか。あったような、なかったような……。
惚けていると、女の溜息が聞こえて我に返った。
相変わらず、叱られた犬のように彼女は背中を丸めている。その表情は、笑っているけれど、間違いなく自嘲的だった。
「私はどんな姿になるのだろう。君みたいに可愛げがあるといいが……いずれにせよ、どうせ人間のままでいられないならば、記憶もまた失いたい。何もかも忘れて、君のように、城主であるあの魔女を慕うだけの日々でありたいものだ」
その淡々とした呟きは、振り払いたくなるほど暗いものだった。
彼女は未来を諦めている。それは、間違いなく城主さまにとって予定通りのことだ。
ならば、それは喜ばしいこと。彼女が自ら奴隷となるならば、一番の愛玩であるこのわたしは満足しなくてはいけないはずだ。
それなのに、わたしは何故だか焦りを覚えた。
彼女が記憶を失うとしたら、いったいどこまでの記憶がなくなってしまうのだろう。こうして触れ合って、歌や踊りを見てもらっていることも、忘れてしまうのだろうか。
手早く泡を洗い流してしまうと、わたしはやや雑に着替えを彼女に渡した。
「ねえ、着替えながらでいいから観て。昨日見せた『妖精の舞』ではなくて、今度は一昨日、あんたが教えてくれた……えっと、なんていう題だっけ」
すると、女は微笑みを浮かべて答えてくれた。
「『天の使者の踊り』だね」
「そうそれ!」
「もう覚えたの?」
「もちろん! わたし、物覚えがいいって城主さまによく褒められるの。まあ、観ていて」
得意げにそう言うと、わたしは両手をあげた。
尻尾も、ヒゲも、両耳も、ピンと伸びる。
歌うために口を開けることなんて、彼女が来るまではなかった。……いや、あったのだろうか。あったような気がするのだけれど、これまでずっと忘れていた。少なくとも、猫の姿はではなかっただろう。
いつから、わたしは歌う事が好きなのだろう。いつから、踊る事が好きなのだろう。
あらゆる疑問を纏いながら、わたしはくるくると踊っていた。ただでさえ気をつけないといけない二足歩行で踊るのは大変だ。それでも、尻尾の位置を意識して、勢いに任せてしまえば、どうにかなるものらしい。
コツさえ分かればあとは簡単だった。
とにかく楽しい。
身体と一緒に心まで歌い踊っている。
そして何よりも楽しみを盛り上げてくれるのが、優しい眼差しでわたしを見つめる観客の存在だ。
彼女はいつまでも、わたしの踊りに付き合ってくれる。だから、いつまででも踊れそうなくらい楽しかった。
しかし、ずっとこんな時間が続くわけではない。
いつかは必ず終わらなければならない時がくる。
城主さまが遅い朝を迎えられ、金髪女の美しさを恋しがってこちらを訪ねるまでが、わたしと彼女の楽しいひと時だった。
本日、城主さまが現れたのは、完璧に「天の使者の踊り」を三回踊り切って、さらに「妖精の舞」まで二回踊った直後だった。
「さあさ、もう疲れたでしょう?」
手をぽんと叩かれて、わたしはびくりと震えてしまった。
扉が開いたことにも気づかなかったのだ。
「城主さま!」
慌てて姿勢を正そうとすると、城主さまはにこりと微笑みながらわたしの頭を撫でた。
「いい子ね。私が来るまでの間、奴隷を楽しませてやっていたのよね。でも、もういいの。お前は休んでいなさい。私の寝る場所をいつものように温めていてほしいの」
目を細めてそんな事を言われれば、従わざるを得ない。
しかし、妙だった。
城主さまのことは嫌いじゃない。嫌われたくない。大好きだ。それなのに、その気持ちと並行する形で、まだまだ踊っていたい。まだまだ”彼女”に褒められたいという気持ちが浮かんできたのだ。
いけないことだ。きっと、自由気ままだという猫にされた影響で、自分本位なところが強く出てしまっているのだろう。
わたしは必死に欲求を抑え、城主さまに向かって頭をさげた。
「分かりました。今すぐに温めてまいります」
それからすぐに、わたしはいつもの寝室へと向かったのだった。
道中、城主さまがあの女に夢中になっているのをいいことに、鼻歌も忘れなかった。まだまだ踊り足りないし、歌い足りない。そんな気持ちが溢れ、止まらない。
寝室にたどり着いた後もそうだった。
どうせ、城主さまがお帰りになるのはずっと後だ。眠くなるまでもう少し踊ってしまおう。そう考えたわたしは、城主さまとの愛を育むベッドの上で、先程の「天の使者の踊り」と「妖精の舞」を続けて三回も踊ったのだった。
さすがに歌いすぎたし、踊りすぎた。
終わる頃にはさすがに疲れ、そのまま吸い込まれるように眠ってしまった。
寝入りは、とても爽やかな気分だった。家事で疲れた時や、女が来たばかりの頃のような嫌な気分はしないし、ただ何となく眠りにつく時よりもずっと心が軽かった。
どっぷりと眠り、夢も見ないまま時は夕暮れ。
城主さまの持ってきたお夕飯の香りで、わたしは飛び起きた。
「ぐっすり眠っていたわね」
「そうみたいです。……でも、眠気が吹き飛んでしまいました。この香り……今夜は焼き魚ですね。ハーブ焼きでしょうか」
「ええ、それに少々のお酒もあるわ。今晩はまた占いをしようと思っているの。お前にも同席してもらいたくてね」
「城主さまの占いに? わたしなんかが一緒でもよろしいのでしょうか?」
「勿論よ。お前は私の愛猫であり、かけがえのない相談相手だもの。多少は私の魔術を知ってもらわねば困る。そうでないと、いつまで経っても伴侶になれないでしょう……?」
「伴侶に!」
ごくりと息を飲み、わたしは城主さまを見つめた。
尻尾がぷるぷると震えてしまう。ただでさえ城主さまに骨抜きにされてしまっていたわたしにとって、伴侶という言葉は刺激が強すぎた。
そんなわたしの反応を見て、城主さまはくすりと笑う。
「あら、魔女の伴侶になんてなりたくなかったかしら?」
「い、いえいえ、滅相もない。なりたい! なりたいです!」
慌てるわたしを前に、城主さまは満足そうに頷いた。
どうやら今宵はとてもよい夜を過ごせそうだ。期待が強まり、緊張もしてくる。尻尾がぴんとあがりそうなのを必死に堪えながら、わたしは城主さまと並んで寝室を後にしたのだった。