2.昔の話
ひとりきりで眠るベッドは広すぎる。猫用ベッドならばまだしも、大人の人間が二人や三人寝転がっても問題ないほどの大きさとあればなおさらだ。
城主さまはなにか勘違いなさっているようだけれど、寝心地の良さはベッドの素材だけで決まるわけじゃない。どんな状況で寝るのかが問題なのだ。
と、不満に思ってはいても、わたしは素直にベッドの上にいた。
城主さまがいつも眠っている位置に寝そべって顔を埋め、シーツに染み込んだ彼女の香りを鼻いっぱいに吸い込みながら、一生懸命ベッドを踏み踏みしていた。
よく城主さまはお疲れになると猫の姿のわたしを抱きしめて体毛の香りを嗅ぐという戯れをなさるけれど、それに少し似ているかもしれない。
城主さまの香りは何よりの癒しになる。どんなに美味しいおやつも、異国から来たという猫の為の秘薬も、大好きな彼女の香りには敵わない。それは、わたしが猫であっても、猫でなくとも同じ事だった。
けれど、どんなに大好きな香りでもずっと包まれていれば飽きてしまうものだった。
こうなると城主さまそのものを恋しがってしまい、愛しいかの人がここにいないことばかりを考えてしまっていた。そして、どうしても、今この瞬間に城主さまが何をしているのかを考えてしまうのだ。
あの女と二人きり。綺麗にしてやった奴隷と何をするのかなんて、聞くだけ野暮なことだ。
わたしがあの女の立場だった時だって、やることは決まっていたわけだ。もっとも、わたしの場合は早々に城主さまの魅惑に憑かれて骨抜きにされてしまっていた。けれど、いかにそこが違っても、城主さまという御方があの女と何もしないというわけがない。
金髪碧眼。確かに美しい。
その目立つ特徴のみならず、それに相応しいほどの目鼻立ちをしている。思い出しても震えるような横顔で、間近で見れば見るほど美しい女性だった。
綺麗なものが好きな城主さまが気に入るのも至極当然なことで、結果、わたしなんかよりも彼女の方を大事にしたとしても不思議ではなかった。
ああ、そうなったらわたしはどうすればいい。
一度、不安に思うとキリがない。いっそ、あの女がずっと狂犬のようだったらと何度も思ってしまった。
いや、ダメだ。
だって、城主さまは彼女を懐かせようとなさっているのだもの。
城主さまがお望みなのに、わたしがそうならないことを願うなんて最低じゃないか。
枕に突っ伏しながら、わたしはごろごろと喉を鳴らしていた。鳴らし方なんていつ覚えたのか分からない。けれど、喉を鳴らしていると不安な気持ちも少しは落ち着くような気がした。踏み踏みも同じ。そうしていると、まるで昔から自分が猫であったかのような気さえしてしまう。
いけないいけない。わたしは人間だ。城主さまの猫となっていても、かつては人間だったことを忘れてはいけない。本物の猫には出来ない寄り添いをするためには、少しであっても人間のままでなくてはいけないのだ。
でも、これだけわたしが思いを寄せていても、城主さまは自由奔放に過ごされる。
まるで、彼女の方が気まぐれだという猫のようだった。
「城主さま、遅いな……」
呟きながらわたしは身体を丸くして、自分の尻尾の動きを眺めた。
城主さまと初めて会った時、真っ先に愛らしさを褒めてもらった。
島に来る前だって、ちやほやされていたのはよく覚えている。その自尊心は自覚しているだけでもかなりのものだったけれど、城主さまの完璧な美にはとても弱く、真正面から褒められたこと自体に喘いでしまいそうなほどだった。
ここへ来る前と来た後で、この自尊心はどう変わっただろう。正直なことを言うと、あまり覚えていない。ただ、ここへ来てからのわたしは、自分でも呆れてしまうほど、ある誇りをもって生きてきた。
この島に流れ着いた奴隷はたくさんいる。けれど、その数多くの魅力的な者たちのなかで、城主さまと常にベッドを共にしてきたのはこのわたしだ。
こうして猫にされてはいるけれど、今だってたまにはベッドの上でだけ人間の姿に戻して貰えることもある。抱きしめ合いながら愛を囁いてくれるその声はいつもまろやかなもの。あの言葉が嘘だなんてどうして思えるだろう。
そう、わたしは城主さま好みなのだ。
だから、飽きられてしまうわけがない。
何度も何度も言い聞かせ、わたしは尻尾を揺らし続けた。
この姿になったのだって、他の奴隷たちの状況とは違う。
城主さまがそうおっしゃっていた。
他の奴隷たちの場合は飽きたからとか都合が悪くなったからだとかそういう理由だけれど、わたしはそうではないのだと。もっともっと可愛がってやるためだと城主さまはそう教えてくれた。
だから、わたしは特別なはずなのだ。
怖がることなんてない。
あの女に夢中であることも、今だけ。
美しいものを見たいという欲求は誰だってあるだろう。その欲望を満たすためだけであって、本当に愛しているのはわたしであるのだ。
一次的に綺麗な男を囲っては飽きてしまったときのように、最後にはわたしのもとに戻って来てくれる。
そう信じたかった。
けれど、不安はどんどん膨らみ、わたしの心を折ってしまいそうになる。
「わたしもいつか、他の奴隷たちのように飽きられてしまうのかしら」
言葉にしてみれば、心がずしりと重くなった。
こうしてわたしが城主さまの香りに現を抜かしている間に、あの女も城主さまの魅力に気づいてしまうかもしれない。城主さまの魔法か何かで飼い馴らされれば、わたし以上に気に入られる愛玩になり得るだろう。
だってあんなに綺麗な人だもの。
覗き見るなんてとても出来ない牢獄での内緒事を想像しながら、わたしは両目をぐっと瞑った。
尻尾は暴れるし、両耳が勝手に伏せってしまう。猫になってからは度々煩わされる恋の季節はまだまだ先のはずだけれど、その時のような熱りが全身に広がった。
ああ、わたしったら、はしたない。
よりによって城主さまとあの女の今頃を想像してしまうなんて。
割り込むことは出来ないのに、傷つくだけだと分かっているのに、どうしてこうも考えを暴走させてしまうのだろう。
結局、わたしはそのまま一人で枕を濡らすこととなった。
城主さまの優しい香りが身に染みて、さらに惨めな気持ちになる。じっとしていることしか出来ない苦しみに悶えながら、一心不乱にベッドを踏み踏みしているうちに、いつの間にかわたしは夢へと迷い込んでいた。
目が覚めたのは、指の感触がわたしの毛並みを乱したからだ。
誰の手かなんて、瞼を開ける前から分かっていた。
「城主さま……?」
「起こしちゃったようね」
そう言いながら城主さまは、わたしを抱き上げ、寝かし直した。
猫の身体で仰向けにされると何だかバランスが取りづらい。ぐらぐらする身体を城主さまの両手に支えて貰いながら、無防備なお腹を晒している状況に、わたしは軽い緊張とそこはかとない興奮を覚えていた。
城主さまはそんなわたしの毛並みを彩った爪で整えてくれる。
その繊細な指使いには、いつもぞくぞくしてしまう。
「私がいなくて寂しかった?」
甘い声で囁かれると、嘘はつけない。
「はい。とても」
「そう。それじゃあ、お詫びに尻尾の付け根をトントンしてあげましょうか。どう? してほしい?」
意地悪な声で問われ、わたしは耳を伏せながら彼女を見つめた。
「……して欲しいです」
恥じらいながらもそう言うと、城主は微笑んだ。
「いいわ。してあげる」
その後の流れは、どうしても語れない。それこそ、尻こそばゆい話だ。これ以上の秘め事だってあるけれど、猫には猫なりの恥じらいもあるものなのだ。
とにかくさんざん甘え尽くし、ふと冷静になってみると、次に気になるのは城主さまの笑みに隠された暗い印象だった。
きっとお寂しいのだろう。たった一人でこの島に暮らし、気まぐれに漂流者を拾って養うのだってそのため。お陰でわたしは城主さまと運命の出会いを果たせたけれど、わたしだけでは彼女の心の隙間を埋めきることが出来ていない。
力不足が悔しかった。
しかし、ただ悔やんでいるだけでは何にもならない。わたしに出来ることは、城主さまに寄り添い、その心の隙間を少しでも埋める事。そして、猫であろうと出来る範囲でお役に立つことだけだ。
だから、あの女の世話をしろと言われたら、大人しくそれに従うしかない。
背中を撫でられながら喉を鳴らしていると、城主さまがわたしの隣で寝転んだ。
じっとわたしの姿を見つめ、微笑みを浮かべた。
「お前は可愛い子ね。手に入れた時からそうだった。私の望みで進んでその姿にもなってくれた。そんなのはお前くらいよ。愛しているわ、猫」
「光栄です」
得意げにヒゲを伸ばした。が、城主さまはため息を吐いた。
「“彼女”もお前の半分ほどの可愛げがあればいいのに」
――彼女。
嬉しい気持ちに水を差された。
無意識にあがっていたお尻が下がり、憂鬱な気分と共にわたしは体勢を変える。身体がむずむずしてきて、毛繕いで気を紛らわした。ざらざらとした舌でせっせと全身の毛並みを整えていると、少しは気持ちが落ち着いた。
城主さまを横目で見やると、哀愁漂う表情で天井を見上げていた。その眼差しの向こうには、やっぱりあの女の事しか見えていないのだろうか。わたしを撫でるのもほんの気まぐれなのだと思うとやっぱり寂しかった。
「城主さま」
そっと声をかけてみても、視線はこちらに向いて来ない。
仕方がないので、わたしはそのまま話しかけた。
「あの……あの女も、いつかは姿を変えてしてしまうのですよね? 今からどんな素晴らしい姿にしてしまうのか楽しみです」
すると、ようやく城主さまはこちらを向いてくれた。
微笑みを浮かべ、わたしの頭を優しく撫でる。
「お前は無邪気で残酷な子ね。そこもまた好きよ。……そうね。お前も喜んでくれるような、とっておきの姿を考えておきましょう。何しろ、素材がいいもの。竜巻の女神のような半人半鳥の姿はどうかしら。黄金の翼に青空の目を持つ半裸の雌鳥……」
恍惚とした様子で呟くと、城主さまは小さく息を吐いて、わたしに囁いた。
「まあ、ゆっくり考えましょう。とにかく、明日も彼女のお世話をお願いね。頼りにしているわ」
ぎゅっと抱きしめられて、わたしは再び喉を鳴らした。
不満だってあるけれど、城主さまの温もりと、豊かなお胸の感触と、優しい香りに包まれてしまうと何も言えない。まあいいかと誤魔化されてしまうのだ。
結局、不満らしい不満を言うこともないまま、わたしは翌日、いつもの家事を終わらせると、城主さまの言いつけ通りにあの女の元へと向かったのだった。
バケツに水を汲むのも、それを運ぶのも大変だ。揶揄われながら身体を洗ってやるのだって、精神的疲労を感じてしまう。それでも、城主さまがそれを望んでいるのだと思うと放り出すことは出来なかった。
「さあ、今日も徹底的に磨いてやるんだから覚悟なさい!」
腰に手を当ててそう言ってのけると、女は寂しそうな表情を浮かべた。とりあえず、逆らうつもりはないらしい。それさえ分かればそれでいい。
だが、さっそくスポンジを湿らせていると、彼女の方からこちらに声をかけてきた。
「猫のくせに、飼い馴らされた犬のようだね」
とっさにわたしは顔をあげた。女はじっとこちらを見つめている。
揶揄うわけでもなければ、煽っているわけでもない。
睨みつけてやっても、女の眼差しはちっとも変わらなかった。寂しそうな表情、といったが、寂しいのではない。それに気づいた時、わたしは心底不快になった。
このわたしを憐れんでいる?
だとしたら、なんて生意気なのだろう。
「犬だろうが猫だろうがわたしはわたしよ。城主さまのために生きているの。それに不満なんて感じたこともないわ。だから、そんな目でわたしを見ないで」
文句を言いつつ背中を拭いてやると、女は黙り込んだ。
しかし、しばらくすると再びこちらに向かって訊ねてきた。
「……君は元々人間だったんだよね。皆にちやほやされていたお嬢様だったって。皆ってだれ? 島の外で暮らしていたの?」
「どうでもいいでしょう? あんたに話す義理なんてないわ」
「気になるんだ。猫にされてしまう前の君はどんな人間だったのかって。ねえ、教えてよ。ただでさえ楽しみの少ない毎日なんだ。鎖で繋がれた世界は、これまで広い世界を旅してきた私にとって狭すぎる」
「旅?」
ふと、その単語に手が止まった。何故だかは分からない。ただ、耳がぴくりと動き、体毛で覆われた胸元がざわついたのだ。
我に返り、スポンジを押し当てつつも、わたしはそっと彼女に訊ねてみた。
「旅をしていたの?」
すると、女は怪しげな笑みを浮かべた。
「やむを得ず、ね」
「どういうこと?」
「逃げ回っていたのさ。仲間たちとね」
「誰から?」
「いろんな国のいろんな奴らから。私と仲間たちは様々な理由から居場所を失った者達でね。生きるためならば何でもやった。何でもやったから多くの人に恨まれた。恨まれたから、逃げ回る旅をしていたのさ」
ため息交じりに窓の外を見つめる。空虚な笑みを口元に浮かべ、彼女は淡々と語った。
「向かった先でも色々やった。仲間たちと一緒に、奪えるものは全て奪ってきた。金目のものも秩序も命も。どうせ、捕まれば死罪。ならば、とことん好きに生きてやろう、とね」
「あんた……盗賊だったの?」
率直に訊ねると、女は黙ったまま項垂れた。
思わず眉間にしわを寄せてしまった。当初から思っていた通り、この女は碌な生き方をしていなかったわけだ。美しいのは見た目だけ。どんなに綺麗な外見でも、今日を生きるために様々なものを穢してきた女なのだ。
そんな女に城主さまを奪われるなんてことがあっていいだろうか。
ああ、でもきっと城主さまはそんな女の身の上だってお見通しのはずなのだ。
城主さまの占いは的確だ。わたしの過去だって、最初からご存知だった。色々と言い当てられて驚いたことは覚えている。だから、この女も同じはず。この女がしてきたことだって、最初からご存知のはず。
それでいて、城主さまはこの女を鎖に繋いで飼うとお決めになった。つまりは、城主さまにとって取るに足らないことなのだろう。
ひとり憂鬱な気分になっていると、女がそっとこちらを振り返ってきた。
「いろんな国を見て回ったけれど、君のように家事に勤しむ猫なんて見たことがない。だから、気になるんだ。猫になる前も、君はそういう人間だったの?」
「それは……えっと……」
答える義理なんてない。
そう言ったはずなのに、とっさにわたしは答えを探していた。
探している。
そう、探さなければいけなかった。
何度か答えを考えているうちに、わたしはある事に気づいた。
「わたしは……」
――わたしはどういう人間だったのかしら。
妙な寒気がして、手が完全に止まった。
何故かわたしは必死になって、この島に来た頃の事――城主さまに夢中になり始める前のことを思い出そうとしていた。
そう、ちょうど目の前のこの女のように、わたしも人間の姿で鎖に繋がれていたのだ。そこで、城主さまの美しさに怯えていると、色々なことを言い当てられ、神秘的なその姿に骨の髄まで虜になってしまった。
でも、よく思い出せない。惚れたのは確かだし、その後の関係も全く嫌がらなかったことは、はっきりと覚えている。 だが……その前の時期をどうしても思い出せない。
ここへ来てしばらくの間、或いは、ここへ来る前、わたしはどんな人間だっただろう。
お嬢様だったわたしをちやほやしてくれたのはいったい誰だった?
親や兄弟だっただろうか。それとも別の誰かだっただろうか。
どうしても、思い出せない。
そもそもわたしは、なんと呼ばれていただろう。
「どうしたの?」
ふと問いかけられて、わたしは我に返った。
動揺を振り払い、スポンジでその背中を軽く叩いた。
「なんでもない」
「昔の事、思い出していたの?」
「……そうね。でも、あんたになんて教えてあげないんだから」
「そっか、残念だ」
皮肉交じりにそう言ってから、彼女はそっとこちらに手を伸ばしてきた。
不意に手を重ねられて、せっかく振り払った動揺がさらに深まる。戸惑いと恐れが何故か生まれるけれど、ついつい求めてしまうような温もりがそこにあった。
「じゃあ、代わりに私の話を聞いてくれる?」
「話?」
「外の話だよ。これまでの思い出。もうこの島から出られないのなら……いつか、姿を変えられてしまうのなら、その前に、誰かに聞いて欲しいんだ。お願い。聞いてくれるだけでいいから」
弱々しいその訴えを、突っぱねることは出来なかった。
城主さまに気に入られたどんなに腹立たしい女であっても、このように頼られてしまうと、どうやらわたしは断れないらしい。そういう性分であったのだと、今になって知ることが出来た。
人間の頃もわたしはそういう人物だったのだろうか。少しだけ首を傾げ、ため息交じりにわたしは答えた。
「いいわ。聞くだけなら聞いてあげる。ただし、あんたのお世話をしている間だけなんだからね」
突き放すように言ってやったのだが、女は振り返って目を細めた。
安心したようなその笑みが、どうしても目に焼き付いてしまう。本当に、美しい人だ。
「ありがとう。嬉しいよ」
声を震わせ静かにそう言うと、彼女はさっそく思い出を語り始めた。