1.愛と嫉妬
海鳥の声が今日も騒がしい。いつもならば、小さな孤島の心細さを紛らわしてくれる彼らの声も、忙しい今となってはただの騒音にしか思えなかった。
とにかく洗い物が多くて嫌になる。どっさり抱えてわたしの背丈を余裕で超えてしまうのだから、たまったものじゃない。せっかくの快晴だというのに、洗い物の山を目にしただけで心の中が曇り空になってしまった。
そもそも、わたしの身体は家事に向いていない。かろうじて二足歩行を維持してはいても、本来ならば前足と呼ばれてしまいがちなこの猫の手では、衣類をひとつひとつ掴むだけでもひと苦労なのだ。
ついでに言えば、背丈も辛い。うんと背伸びをしてようやく大人の人間の腰辺りに届くかというようなおチビさんでは、何をするにも無駄な労力を要するものだった。
昔はこうではなかった。人間の身体だった時は、洗い物が面倒だと思うことはあってもここまで苦労するなんてことはなかった。ただ身体が変化してしまったというだけではなく、わたしは多くのものを失ってしまったらしい。そんなことを一つ一つ思い知らされながら勤しむ家事は、体力以上に気力を消耗するものだった。
……いや、辛いのは身体のせいだけではない。
家事の合間に息苦しくなってしまう理由は実を言えばほかの所にあった。そのことについて深く考えようとすれば、途端に何もかも投げ出して日向ぼっこを始めたくなるものだが、そんなことをすればきっと城主さまががっかりなさるので、わたしは自分の心に鞭打って触りたくもない洗い物を桶につけるのだった。
山ほどある洗い物の内のいくつかは愛しい城主さまの美しさを際立たせる大切な衣類である。こちらならば日が暮れるまで時間をかけて清潔にしてみせよう。だが、半数近くはそういうものじゃない。汚らわしい城の奴隷であったり、いつでも構わないわたしの私物であったりする。
その中に紛れ込んでいる、ある人物に関する衣類の存在が、腹立たしくてしょうがなかった。
三日ほど前、島のすぐ近くで一隻の船が沈没した。
暴風と荒波に襲われ、乗っていた者のほぼ全員が海神の供物となってしまったのだ。しかし、そんな壊滅的な状況の中でたった一人だけ、生きた状態で浜辺に流れ着いた者がいた。
みすぼらしい身なりの女だった。身分らしき身分なんてものはないだろう。碌な生き方をしてこなかっただろうことは、格好と所持品でよくわかった。
それなのに、城主さまは彼女を気に入った。
目覚める前も、目覚めた後も、孤島の中で唯一目立つこの城の上階で大切に鎖につないで世話をしているのだ。
それだけでも腹立たしいのに、真に許せないのは彼女の態度である。
目覚めた彼女はまるで猛犬のようだった。城主さまには暴言を吐くし、世話をするわたしのことは話す毛玉扱い。身体を拭いてやっても、食べさせてやっても、感謝のひと言だってない。
何か口走ったかと思えば、男のように粗暴で、女性らしさの欠片もなかった。
そんな女を何故気に入るのか、不満は思えども疑問にはならなかった。
疑う隙もないほどに、そいつは容姿に恵まれていたのだ。
垢や土埃を落としてみれば、髪は蜂蜜の輝きを思わせる美しい色をしており、肌も傷跡こそあるがそれもさほど気にならないほどの艶やかさがあった。目は深海の静けさを思わせる青色で、それらの目立つ特徴に相応しい目鼻立ちをしている。
とにもかくにも、どうにかして中身さえ入れ替えてしまえば、それは素晴らしい淑女になり得る素材だったのだ。
城主さまは美しいものが好きだ。
人であれ、モノであれ、美しく磨き甲斐のあるものに目がない。
この城にはあらゆる奴隷がいるけれど、いずれも城主さまが自ら望んで手に入れられた者たちであり、それぞれに秀でた何かがあった。
光栄なことにわたしもそうだと判断されたから、流れ着いた浜辺で拾われ、この城で暮らすことが出来ている。それは確かな事。
けれど、城主さまの興味はちょっとしたことで薄れてしまうのも確かな事だった。彼女に一時的に持て囃され、飽きられ、城の片隅で忘れ去られている者たちも少なくないのだ。
だから、わたしは不満だった。不満であり、不安だった。
これまでだってわたし以外の人物に興味を持ち、親しい仲になったことはあった。けれど、そのいずれも男であり、一時の気の迷いと欲望以外で城主さまと深く繋がれるものなんて誰もいなかった。
城主さまのもっとも近くにいたのはいつだってわたしだ。猫になる前も、猫になった後も、わたしの地位はどんな美青年にも揺るがされはしない。そう思っていた。
けれど、今回は女だ。これまでずっと一緒に眠って下さった城主さまが、わたしとは違う女に現を抜かしている。その事実はあまりにも重たかった。
ため息を何度も吐きながら、わたしは洗い物を全て庭に干してしまった。
雲一つない晴天。恐れるべきはイタズラ好きの海鳥と、気まぐれな海風くらいのものだろう。いつもなら爽やかな空気だったが、今日はそのさっぱりとした体感があっても、わたしの心は湿ったままだった。
力の入らない尻尾を引きずって、わたしは城主さまのもとを目指した。
昨夜は遅くまで秘薬づくりと占術をなさっていたから、きっとまだお休みになっているだろう。それならば、隣でそっと添い寝をすることくらいは許されるはずだ。
そう、これまでならば、城主さまのベッドに入り込んで優しくしてもらうこともわたしだけの贅沢だったのだ。
ほんの少しの期待と共に、わたしは城主さまのベッドに近づき、そっと御顔を覗いた。
朝支度を整えていなくとも、十分、彼女は美しい。その美しいお鼻に自分の猫の鼻をくっつけたくてたまらない。だが、顔を近づけようとすると、ヒゲが当たったのか、城主さまの目がぱちりと開いてしまった。
「もうお洗濯は終わったの?」
優しい問いかけを受けて、わたしは慌てて猫なりに姿勢を正した。
「はい、城主さま。しっかり洗って、すべて干してしまいました」
「そう。お前はしっかり者ね。猫になっても変わらぬ働きぶりで感心するわ」
「いえいえ、そんなこと……。城主さまのお役に立てることこそがわたしの悦びですので」
胸を張ってそういうと、何故だか城主さまはくすりと笑ってしまった。
何かおかしいことでも言ってしまっただろうかと首をかしげていると、城主さまはわたしよりもずっと猫らしく寝そべりながら、赤みがかった褐色の目をわたしに向けてきた。
「素晴らしいわ。お前がいるから私はとても助かっているの」
そう言って城主さまは頭を撫でてくれた。
共に眠っている時にもある。この触れ合いこそが、わたしの生きる喜びであった。猫になる前は何が楽しかっただろうか。そんなことも思い出せないくらい、城主さまに全身を撫でてもらう時間は至福のひと時だった。
しばらくだらしなくゴロゴロと寝ころびながらも、わたしはふと我に返って城主さまのお顔を見上げた。
「――それで、城主さま。本日はどうお過ごしになられるのでしょうか?」
「そうね……。もう少ししたら”彼女”の所にいくわ」
そこで、完全に我に返った。
”彼女”。それが誰なのか、すぐに分かって心が沈んでしまった。
すっと起き上がり、咳払いをして私情を必死に隠す。そうでもしないと人間ほどではないと思うが露骨に不満が漏れてしまいそうだった。
そんなわたしの事情を知ってか知らずか、城主さまは澄まし顔で命じてきた。
「それでね、悪いのだけれど、お前にはもう一仕事お願いしたいの」
「何なりとお申し付けください」
「”彼女”の身体を洗ってやって」
私情は呆気なく漏れた。きっと今のわたしはこの上なく不満を露わにした表情をしているのだろう。でも、これ以上の我慢は無理だ。だって猫だもの。
しかし、そんなわたしの頭にぽんと手を置きながら、城主さまは言った。
「猫の手だと大変かもしれないけれど、どうかお願いよ。お前しか頼れる者がいないの」
甘えた声でそう言われ、わたしの尻尾が暴れ出す。
あの女の世話をするという屈辱と、城主さまの役に立てるという最大のチャンスとの間で引き裂かれそうになりつつも、結局は逆らうなんて選択肢がないことに気づき、わたしは項垂れたのだった。
「もちろん。わたしこそが城主さまにとって一番役に立つ存在でありますもの。猫の姿をしていたって問題ありません」
「頼もしいわ。お前がいてくれてよかった。よろしくね。終わった後は教えて。私はその時に行くわ。その後なら、このベッドを独占したっていい。朝の家事で疲れたでしょうから、ひとりでゆっくりお眠りなさい。夜の家事はモノ言わぬケダモノたちに任せるから」
「ありがとうございます」
猫なりに笑顔を浮かべてその場は去ったのだけれど、城主さまの視界から外れるなり気分はさらに落ち込んだ。
本当は今すぐに昼過ぎくらいまで城主さまと一緒に寝そべりたかった。あの女の体に触れるのなんて嫌だし、そのあとに一人きりで眠るのも嫌だった。
だって、わたしが眠っている間、城主さまはあの女と二人きりになるのだもの。隅々まで洗ってやって、その後、二人きりで何をするのやら。人間の姿のままの二人が話をしているというだけでも気が気でないというのに。
何度もため息を吐きながら、わたしは女を繋いでいる階へと向かった。
尻尾はだらりと下がり、全く力が入らない。引きずりながらその感触をぼんやり味わって、バケツやらスポンジやらをせっせと用意していった。
新しい奴隷の身体を清めてやったことは何度もある。いずれも男だったけれど、それでも人間の身体を拭いてやるのは苦手だ。何より面倒臭い。
ただ、単純に面倒で大変だからというだけではない。
思い出しそうになるのだ。自分が猫ではなかった時代の事を。
しかし、ここぞというところで引っ掛かりがあって、思い出せない。その感覚は、くしゃみが出そうで出ないままという不快感にも似ていて、大嫌いだった。
いけない。さっさと終わらせないと。
暗い気持ちをぶんぶんと振り払って、耳とヒゲをぴんと伸ばしてわたしは女の過ごす牢獄に突入した。
「さあ、今すぐ服を脱いで。身体を拭く時間よ」
扉を開けるなり、ツンとした態度でそう言ってのけたが、女は呆れたように頬杖を突いた。
何ともまあ生意気な態度だ。わたしのことを完全に舐めている。この三日ほど、その身体を拭いてやっているのはわたしだが、いつだってこの態度だった。服を脱げと十回以上せっついて、爪を立ててやっと脱いでくれるのだから困ったものだ。
しかし、今日という今日はそうはいかない。
「ほら、さっさとして。城主さまがお待ちなのよ」
すると、意外なことに女は深くため息を吐きつつ従ってくれた。
服を脱ぐと途端に眩い程の女体が現れる。わたしだってここへ来たばかりの頃はこんな肌をしていたのに。そんなどうしようもない不満を密かに抱きつつ、さっそくバケツにスポンジと石鹸を投げ入れた。
そんなわたしの苛々が伝わったのか、女がじっとこちらを見つめてきた。
「何よ。何か文句でもあるわけ?」
そう言ってキッと睨んでやると、女は何故だか目を細めた。
「別に、何でもない」
女は低い声でそう言うと、小さく呟いた。
「相変わらずよく喋るケダモノだと思っただけさ」
「ケダモノですって?」
わたしはすぐに手を止めて、彼女を睨みつけてやった。
「聞き捨てならないわね。わたしはケダモノなんかじゃありません。これでも元々は人間だったのよ。皆にちやほやされる可愛いお嬢さんだったんだから!」
「ふうん。じゃあ、どうして毛玉なんかになってしまったんだい?」
「城主さまがその方がいいっておっしゃったからに決まっているでしょう!」
答えてやると我が尻尾がぶんぶんと揺れた。
この身体で生きる悩みはこうした感情がすぐに耳や尻尾に現れてしまうところかもしれない。
わたしは荒ぶる尻尾を自由にさせながら、女の身体をこすってやった。
「だいたいね、ケダモノなんかでも毛玉なんかでもないの。知らないのなら教えてあげる。猫というの。いっておくけれど、猫が神様の国だってあるの。城主さまもそれをお聞きになって、わたしをこの姿に変えてしまったのよ。つまり、これは神聖な姿なの。ひれ伏しなさい!」
「そっか。つまり、ここの魔女は人間の姿を好き勝手に変えてしまう恐ろしい化物ってわけだ」
「化物ですって?」
思わず目を丸くしてしまった。
心より慕ってやまない城主さまを怪物呼ばわりだなんて、寒気がする。怒りで全身の毛が逆立ってしまった。
「城主さまの何処が化物だっていうのよ。あんなに美しい御方なのに! いいこと、ちょっと容姿に恵まれたからって自惚れるんじゃないわよ。浜辺で倒れていたあんたを拾ってやったのは、他ならぬ城主さまなんですからね!」
感謝するどころか化物とは。
城主さまが気の毒でわたしは悲しかった。いくら容姿が綺麗でも、中身がこんなのではいけない。いつかきっと城主さまの御心を深く傷つけることになるだろう。そう思うと、今ここでこの美しさを台無しにしてしまうのも一考ではないか。
なんてスポンジの手を止めて爪を出してはみたけれど、艶やかな肌を目の前にすると気が引けた。これまで他人を傷つけたことなんてないこともあって、引っ掻くなんて野蛮なことは出来なかった。
こちらがそんな葛藤にもやもやしているとも知らず、女はわたしに背を向けたまま、深くため息を吐いた。
「君は心から魔女を慕っているのだね。それなのに、そんな姿にされてしまったのか」
「だから、これは異国の神さまの姿なんだってば!」
「何だっていい。人間だったのに、違う姿にされたのは同じだろう? ねえ、君は人間の姿に戻りたいと思わないの?」
青い目に振り替えられ、わたしは面食らった。
戻りたいかどうか。たまに戻りたい時はある。たとえば、洗い物のとき。小さな猫の身体で家事はつらい。人間の姿だったら、人間の指だったら、人間の背丈だったら、そう思う時はいくらでもある。
しかし、彼女が訊ねているのはそういう事ではない。わたしには分かった。分かった上で、わたしは平然と答えた。
「思わない。だって城主さまがこの姿がいいっておっしゃったのだもの。わたしは城主さまのために生きているの。城主さまに求められることこそわたしの幸せなの」
「……そう。到底、理解できない生き方だ。でも、よく分かったよ。ここは私には向いていない。ご主人さまにもそう伝えてくれ」
「あなたに向いていようがいまいが関係ないの」
スポンジを背中に叩きつけてわたしはそう言った。
「あなたを今後どうするかはあなたではなく城主さまがお決めになることなの。期待しているのならお生憎だけれど、自由にはなれないわよ。これまでだってたくさんの人が奴隷になって飽きられたけれど、その全てがケダモノにされて城の何処かでずっと飼われているのだもの」
「なるほど。私もいずれはそうなるわけか」
彼女は自嘲気味に笑う。
その姿がなんだか不快で、わたしは追い打ちをかけてやった。
「今のうちにその姿を大事になさいな。ケダモノになってしまうと、わたしのようにお話が出来るとは限らないのよ。わたしだって相当努力をして二足歩行とお喋りを維持しているのだもの。多くはその日のうちに言葉を忘れ、記憶を忘れ、身も心もケダモノとなって城主さまの愛だけを求める存在になってしまうのだから」
口に出してみて、わたしは身震いしてしまった。
だって今述べたことは、わたしの身にだって起こり得ることなのだもの。もしも二足歩行とお喋りが出来なくなってしまえば、わたしはきっと身も心も猫になる。そうなれば、他のケダモノと一緒じゃないか。
いやいや、一緒なわけがない。わたしはすぐに思い直した。だって、わたしは特別で、こんなにも努力して城主さまと添い寝をする地位にいるのだもの。この世でたったひとりの、城主さまの支えになるのだから。
不安を必死に抑え込んでいると、女がまたしても大きなため息を吐いた。
「その時は、そうなってしまった方が幸せだろうね」
「え?」
恐る恐る訊ね返すと、女はそっとわたしを振り返った。
「身も心もケダモノになるのさ。人間だった頃の事を忘れて、もう戻れない過去の事なんて手放して……その方がきっと幸せだろうって」
その目を見上げ、わたしはしばし惚けてしまった。
青空のような目が美しかったからというだけではない。希望を手放してしまったようなその表情が、わたしの心にすっと沁み込んできたのだ。
どうして、だろう。彼女の目を見ていると、焦りのようなものが生まれた。何故、焦る必要がある。考えてみても分からない。わたしはしばし首を傾げ、小さく息を吐いた。
きっと、気のせいだ。城主さまを一目惚れさせたほどの美しい容姿が、わたしの頭を混乱させてしまったのだろう。
この表情だって悪いことではない。昨日までは野獣のようだった眼差しも、今ではすっかり大人しくなっている。外への希望を捨て、暴れたりしないでくれるのならば、城主さまの悩みも減る。
これは決して悪い事じゃない。
「どっちが幸せかなんて分かりはしないけれどね。少なくともわたしの幸せはさっさとこの面倒なお仕事を終えて城主さまの香りに包まれたベッドで眠る事なの。分かったら、そのお口を閉じて、大人しくしていてちょうだいな」
小言を口にしながら、わたしは再び彼女の身体を拭いてやった。
女といえども人間の身体は大きい。けれど、今日は大人しくしてくれている分、ケダモノの毛並みを整えるよりは楽なものだ。
うんと背伸びをしながら水を流してやると、女は叱られた犬のように項垂れて、力なく息を吐いた。
喋りはしないが、考え事をしている。きっと、この後の事で気が重いのだろう。わたしとしては贅沢な悩みだ。腹立たしい。けれど、いちいち喧嘩をしていては終わる仕事も終わらない。
尻尾をぶんぶんと揺らしながら、わたしは仕事に勤しんだ。