兆し その三
手の怪我が癒えた嶺山は、自身のリハビリも兼ねて再びパンを焼き始めた。職人としての勘を取り戻すため『オクトゴーヌ』の厨房を間借りし、使用頻度の低いオーブンで手始めとしてバターロールを作る。多少のブランクのせいで本人はイマイチやと首をひねっていたが、出来上がったパンたちは彼の復調を喜んでいるペンションメンバーの胃袋に収まった。
堀江は『アウローラ』復帰の足場作りに、とリフォームで世話になった業者に声を掛けてカフェの改造を始める。閑散期なのをいいことに席を少し減らしてパンが販売できるスペースを作り、根田と鵜飼に宣伝チラシのデザインを頼んでいた。
「これちょっとプレッシャーやな」
自身のために行動を起こす堀江に嶺山は失笑していたが、彼の情熱にも火を点ける形となったと見えて原材料の取引を再開させバターロールを焼くようになった。それに伴って日高と北村が舞い戻り、本格的な営業ができるよう準備が着々と進んでいく。
「手伝うてくれるんはありがたいけど給料はまだ払えんぞ」
「そんなんは出世払いでいいさ、そん時は弾んでもらうしたから」
「僕だって毎日できる訳でねえですよ。したから軌道に乗せて働く場作らさってください」
二人の加入で営業再開が現実味を帯び、同じく怪我の癒えた雪路が退院する当日を迎えた。この日は鵜飼と根田の迎えで『離れ』にやって来る。多少びっこを引いている感じだが歩行そのものに問題は無く、リハビリは通院しながらもう少し続くと言った。
「何か賑やかになってるね、『オクトゴーヌ』」
「ん、忠さんのヤル気に火が点いたべさ」
「それが仁さんにも飛び火してカフェの内装少し変わったんですよ、後で覗いてみてください」
雪路の退院に伴い、根田が『離れ』の退去を決めて鵜飼の自宅に身を寄せることになった。このところ根田はちょっとした外出でも自転車を使うようになっており、今では雪道にも慣れてまた一歩道産子の生活に馴染んでいく。それに触発された小野坂も自転車を購入し、持ち前の運動神経の良さであっさりと雪道走行をマスターしていた。
「これで駐車スペース一個空くじゃねぇか、営業車を『離れ』に移せば業者さんの時間が被っても対応できるだろ」
嶺山家にとっては不運だった『アウローラ』の全焼火災だが、冬季営業で閑古鳥が鳴いていた『オクトゴーヌ』にとっては思わぬ追い風となった。
小スペースながらも営業を再開させた『アウローラ』は予想以上の顧客を呼び、作ったそばからパンが売れていくという嬉しい悲鳴を上げている。『オクトゴーヌ』の宿泊料理やカフェメニューにも『アウローラ』のパンを使うとカフェ営業を中心に客足も戻ってきた。
二店舗の並行営業は目まぐるしい忙しさだが、職場内の雰囲気はむしろ良くなっている。嶺山を始め日高と北村も気が利く性分で、お互いの仕事をカバーしあう良好な関係を築けていた。
一方『離れ』の住民となった雪路だが、足の状態を考慮すると店に立つのはまだ難しかった。代わりに家事全般を引き受けていることでこれまで以上に家事が行き届くようになる。カウンセリングの効果もあってトラウマの再発も無く穏やかに過ごしており、女性一人の加入で『離れ』の雰囲気は明るく変わっていった。
現体制になって程なく、亡兄の命日を一ヶ月後に控えた根田が三日間の休暇を申し出る。彼がここ『オクトゴーヌ』で働くため、実家の両親が『命日に必ず帰省する』ことを条件に単身移住を認められている状態だった。堀江もそれは承知しているので快諾し、夜間バイトを続けている小野坂にもそのことを告げておいた。
「その時期バイトは外せばいいんだな?」
「うん、そうしてくれると助かるわ」
小野坂の了承を得た堀江は早速翌月のシフトを組み始める。この時期になると雪路のリハビリも終了していて店頭に立つようになっており、根田が帰省する頃には現体制にも慣れているだろう。その前から彼女は時々『オクトゴーヌ』の手伝いをしているので、カフェのフロア業務は『勝手知ったる』レベルに熟知していた。
それよりもこのところ部屋からほとんど出てこなくなっている里見友勝の健康状態が気掛かりだった。少し前はキーボードを爪弾く音も聴こえていたが、最近はそれも聴こえてこない。彼の接客はほとんど根田が引き受けており、親子ほど年の違う二人は出会った当初から馬が合っていた。
最近里見さん顔色が良くないような……自動車免許を持っている小野坂が病院の送迎をしているのだが、根田も雪溶け時期と共に教習所へ通うことを決めている。小野坂に嫉妬をしている訳ではないが、実の両親よりも家族的親近感を覚えているためか可能な限り里見のことは自分が引き受けたいという思いがあった。
「ボクも免許取ろう」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ、何でもありません」
根田はこの日も里見のお世話に精を出していた。




