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兆し その一

「こんちわ〜」

 この日もいつもの調子でいつもの時間に鵜飼が洗濯物の回収にやって来た。今や家族のように親しくなっている根田が嬉しそうに出迎える。

「ちょうど今から始めるところなんです」

 同時に掛け持ちアルバイト先の上司でもあるので会話は敬語を使っている。

「したら始めんべ。あっそだ、仁は?」

「今日日中はお休みですよ」

「そうかい、回収終わったら『離れ』に寄らしてもらうべ」

「なら後で伝えておきますよ」

 二人は仲良く二階に上がって作業を開始した。

「ここんとこ智さん見ないべな」

「はい、掛け持ちのアルバイト先が夜のお仕事なんです。それで最近はずっと夜勤になっていましてさっき帰宅されましたよ」

「そうかい、彼慣れてるらしいしたから」

 空白の五年間はゲイバーで働いていたことを今となっては二人とも知っている。

「はい、でも夢子さんとの時間が取りづらくなってるんじゃないでしょうか?」

「したって『DAIGO』も夜営業は普通にあるべ」

 『DAIGO』では昼と夜の二部営業という形を取っている。調布にしても昔取った杵柄で夜営業のシフトの方が向いているようだと小野坂も言っていた。

「確かにそうですけど」

「『ユメはとにかく朝に弱い』ってこいてたべ、逆に生活スタイルも合わせ易いんでないかい?」

「なら良かったです。最近ボク入れ違いで」

 根田は顔文字さながらのしょんぼり顔をしてみせる。

「それもずっとでねえべさ、智さんあくまで臨時で行ってるだけしたから」

 鵜飼は宥めるようにそう言って作業を促した。手際良く洗濯物を集めて三階に上がり、根田は最早日課が如く真っ先に【シオン】ルームの前に立つ。ところが寒さの影響かここ数日里見はほとんど部屋から出なくなっており、この日もドアノブに【起こさないでください】と書かれたプレートが寂しくぶら下がっていた。

「……」

 もしかして体調が悪いのかな……そう思いながら寂しさを抑えて隣の【クレマチス】ルームの掃除を始める。すると隣の部屋からキーボードの音色がポロポロと聞こえてきた。体調不良ではなく創作活動と分かってほっと安堵し、次に顔を合わせられるのを楽しみに掃除のペースを上げた。

 回収作業を終えた鵜飼は、店舗業務は父と従業員に任せて『離れ』を訪ねていた。最近商店街にある花屋さんが営業車を買い替えることにしたそうで、廃車にするほどの状態でもないからと譲渡先を探しているらしい。

「ワゴン車?」

「ん、最近内地からのお客さん増えてるぬかさってたでないかい。したら送迎用の車が一台あったら便利なんでねえかなって思ってさ」

「それ自体は便利やと思うけど智君しか免許持ってないから……」

「これを機に仁も免許取らさったら?」

 せやなぁと言いつつ堀江は免許取得のことはほとんど考えていなかった。

「そう言や最近悌君が免許取ろうかなぁ言うてたな」

「ん、教習所の資料集めてるべ」

「俺は早うて悌君が免許取ってからやなぁ。車のことは智君にも話してみるわ」

「ん、急がんしたから考えてみて」

 うん。堀江の返事を受け取った鵜飼は『離れ』を出て行き、それと入れ替わるように嶺山が見舞いから戻ってきた。

「お帰りなさい、ユキちゃんの調子はいかがですか?」

「ん、順調やで。来週末には退院できそうなんやけど……」

 と含みのある言い方をしてさっさと二階の部屋に入っていった。手には賃貸情報誌があったのでそういうことかと察しが付く。

「う〜ん、ここ男しかおらんからなぁ……」

 堀江は尖ったあごを触って一人唸っていた。


 一日丸々休みとなった根田は、朝から『離れ』のキッチンで急に思い立ったようにパンを作り始める。この日は結構な悪天候だったため、ペンションのカフェ営業も閑古鳥が泣いている状態だった。

 小麦粉とドライイーストと……と材料を揃えてこね始めたは良いが、彼は強力粉と薄力粉と間違えるというミスを犯していた。そのことに気付かず調子良く生地を練ってると、その音に反応したのか嶺山が部屋から出て一回に降りてきた。

「何しとんのや?」

「パンを作っているんです、結構体力要るんですね」

「薄力粉でかいな?」

「えっ? 違う小麦粉ってあるんですか?」

「薄力粉でもできんことないけど、食パンみたいなんは強力粉でないとできひんぞ」

「そうなんですかぁ?」

 根田は作業を中断して薄力粉ベースの生地を寂しそうに見つめる。

「これやったら炊飯器使おう、空いてるんあるか?」

「ハイ、義さんがたまにカレーとかを作ってるのがありますよ」

 根田は調理用に使用している炊飯器を出した。

「ドライイースト入れとるんなら発酵がいるわ、炊飯器を保温状態にセットしたら温度も安定するし」

 嶺山は生地をこね直して用意した炊飯器に入れる。

「十分ほど保温状態にしてから電源を切って三十分ほど待つねん。その後真ん中に穴開けてガス抜きしてから切って形を作って二次発酵させてから炊飯ボタンで焼くんや」

「うわぁ結構工程があるんですね、これからもっと感謝して食べます」

「普通に『頂きます』と『ご馳走さま』で十分やぞ」

 根田の言葉に嶺山は思わず吹き出した。ここからは嶺山主導で作業を進め、出来上がりが近づくにつれパンの優しい香りがキッチン内を充満させていく。

「これはこれでええなぁ」

「ハイ、凄く良い香りがします」

 久し振りに感じるその香りに嶺山の何かが解放された気がした。根田とパンを食べた後部屋にこもったのだが、レシピノートを開いて久し振りに新作を記し始めていた。

 根田はパンの残りを早速ペンションに持って行く。従業員入口から入ると小野坂が長ソファーで仮眠を取っている。

「智さん、忠さん復活しましたぁ」

「……あ"?」

 寝起き状態の彼は不機嫌丸出しな返事をする。

「忠さんがパンを作ってくださったんです」

 それに怯まず手にしているパンを小野坂に見せる。小野坂は体を起こして中を覗き、何で焼いたんだ? と訊ねた。

「炊飯器です」

「それで白いのか……」

 彼は炊飯器パンに手を伸ばして半分に割る。

「匂いはパンだけどちょっと感じが違うな」

「実は薄力粉なんです、ボク間違えちゃって」

 そういうことか……根田の間違いと分かった小野坂は失笑してパンをひと口かじる。

「これはこれで美味いな、けど忠さんと会わなかったら何で焼くつもりだったんだ?」

「厨房の空いてるオーブンを使うつもりでした」

「なるほどな」

 小野坂は小さめに作ってあるパンをあっという間に完食する。

「仁呼んでくる、冷めないうちに食べさせよう」

 彼は仮眠を中断して事務所を出て堀江を呼ぶ。小野坂が出で行った後入れ替わりで堀江が入り、どないしたん? と根田を見た。

「忠さんがパンを焼いてくださったんです、お一つ召し上がりませんか?」

「うん、頂くわ。義君今手が離せんやろから厨房に持って入ったって」

 堀江はパンを一つ手に取ってから川瀬にも勧めるよう促す。根田はそれに従って厨房に入ると、川瀬はひと段落着いていたところだった。根田は三度同じセリフを言って炊飯器パンを勧めると、小腹が空いていたと見えてあっという間に平らげていた。

「やっぱり彼の作るパンは美味しいね、薄力粉で作ってきたのは意外だけど」

「それはボクが間違えちゃったんです。忠さんのお陰で美味しくなりました」

「あっ、そういうことね」

「忠さん復活ですよ」

「だと良いね、僕も早く彼のパンをお出ししたいよ」

 嶺山の復帰を望む一人である川瀬も笑顔見せた。

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