初恋 その三
「初恋のお相手の方のこと、物心付いて以来今まで一度も忘れることはありませんでした。それは結婚している今でも変わりません」
オイオイ、急に何言い出すんだよ? 小野坂は心の内をさらけ出そうとしている女性客に驚くが、引き留めるにも何故か声が出ない。相変わらず小野坂がこの場にいることに気付かない彼女の話にはまだ続きがあった。
「三年前、『結婚さえしてくれたら借金の面倒は全部看てやる』ってプロポーズまがいの事を言われたんです。返しても返しても無くならない借金に辟易としていた私は、これ以上お金に苦労したくなくて彼にすがってしまいました。でもすぐに後悔しました。財がある以外何の魅力も無い男ですし、元々女性にルーズなところがあって、結婚したからってその癖が治る訳でもありませんでした」
小野坂は続きを聞きたくなかったが、職務放棄もできず表情が渋くなる。
「好きで結婚した相手ではないので女性の影があっても何とも思いませんし、体の関係もほとんどありません。立場上仲良くしなければいけませんので仮面夫婦とは言っても子供は一人くらいって空気もあって、正直なところ面倒臭くなってきているんです。できることなら今すぐにでも別れたいんです。ただ借金の肩代わりをしてもらってあとはポイ捨てって言うのも何だか失礼な気がして……」
「さっきから何好き勝手なこと言ってんだよ?」
小野坂は耐え切れなくなって女性客の話を遮った。川瀬と思い込んで話していた相手が小野坂と知り、死角から姿を見せた彼女はフロントへ駆け寄った。
「勝手なのは分かってる、でももう限界なの」
調布は目に涙を溜めて小野坂の顔を見る。しかし彼の表情は冷たいものだった。
「旦那だって限界だろうよ、金を餌に釣ったとは言え妻からは愛情を向けられず、浮気をしても興味すら示してもらえない。いくら承知の上でもいざ直面すると辛いだろ、それ分かって言ってんのか?」
彼女の夫“小宮山”に同情する気などさらさら無かったが、燻り続けているモヤモヤが刺激されてにわかに感情的になる。
「だってお父さん助けたかったんだもん、一度本当に首くくりかけちゃって。そんなの嫌だったから、あそこですがればお父さん死なずに済むって……」
調布も感情を抑え切れず、途中からは涙声になっていた。
「結局金選んだのお前だろ? そうしたんなら旦那とちゃんと向き合えよ」
小野坂は極力冷静さを保とうとするが、自身の放つ言葉で自身の胸を細い針でチクチクと刺している感覚に襲われる。俺人のこと言えんのか? 一瞬そんな考えが頭をかすめ、口から出た言葉と本当の気持ちが一致しない居心地の悪さに支配され始めた。
「向き合ってきたよ、私なりに。でも気付いたら昔の記憶ばかり蘇るの。これじゃ駄目だって何度も打ち消して否定してきたけど、私の拠り所はそこにしか残っていなかったの。いくらお金があったって、いくら裕福に暮らせてたって、自分の気持ちに嘘を吐いてるって分かった以上、あの生活には戻りたくない」
調布は手で涙を拭い、声を殺して泣いている。小野坂はそんな彼女を寂しそうに見つめていた。ユメ……彼の右手が恐る恐るながらも調布の顔に近付く。しかしあと一センチも満たないところでその手がピタリと止まり、握りこぶしを作って差し出していた手を引っ込めた。
「吐いた嘘は吐き通せ、いずれ本当になるからさ」
小野坂は子供に言い聞かせるように穏やかな口調で言ったが、調布は彼の顔を見て首を横に振る。
「そんなのできないよ」
「やるんだよ。過去は戻せねぇんだから」
「間違ってるの分かってて?」
「間違ってねぇんだって」
小野坂の一言で調布の表情が変わる。
「もうこれ以上嘘は吐けない」
彼女の瞳に外からのものとは違う光が宿り、これまでに無かった強さを放ち始める。それに一瞬怯んだ小野坂は言葉に詰まる。どう言っても無駄かも知れない。
「私が愛してるのは智なの」
「お前何言ってんだ?」
彼女の口から飛び出した十年振りの愛の告白に我が耳を疑う。
「あなたが好きでいてくれなくても構わないわ、このまま夫と延々仮面夫婦を装うくらいなら一人でいる方がずっと良い」
調布は真っ直ぐ小野坂の顔を見つめており、その一途さが痛すぎてスッと顔を逸らす。それでも構わず彼の手をそっと握り、もう離すまいと少しずつ力を込める。小野坂は自身の中でずっと押し殺してきた黒い塊が熱を帯び始め、体が熱くなるのを感じていた。彼女に握られている左手からは温かな波動が伝わり、無意識に保ち続けた緊張感が徐々にほぐされていくようで何だか泣きたくなる。
小野坂はそれを必死に堪えて冷静になろうと一度下を向いて目を閉じる。そして彼女の手の上に右手を置くと、力を込めて左手を抜き取って再び顔を上げ、少しずつ緩んできた気持ちを引き締め直すかのように厳しい視線を向ける。
「俺はあの頃の気持ちを捨ててきた、今更元に戻れる訳無ぇだろ!」
そう言い切らないうちに調布に背を向けてフロントから出て行った小野坂は、事務所にある車のキーを掴んで外に飛び出すと当ても無く車で何処かへ走り去った。
仮眠を取っていた根田は慌てて飛び起きて外に出る。そこへ用事を済ませて戻った川瀬と鉢合わせて小野坂が職務放棄した事を告げた。
「事情は分かりませんが、智さん車で出てきて行っちゃいました!」
車で? 川瀬は目を丸くして驚いた表情を見せる。ここのメンバーで自動車免許を持っているのは小野坂のみで、村木か鵜飼の助けを借りなければ彼を捜すのは困難だった。
「参ったな……悌はオーナーに報せてきて。フロントには僕が入る!」
川瀬は事務所入口から中に入り、何の身支度もせずにフロントに向かった。
根田は『離れ』に駆け込み、夜勤を外れている堀江の元に走る。そこには何の用事か知らないが嶺山も姿を見せていた。
「仁さぁん! 智さんが車で出て行っちゃいましたぁ!」
「やりおっやか」
根田の言葉に堀江は軽く苦笑いする。調布がカフェを利用しているのは川瀬から聞いていたので、展開次第でこうなることは何となくだが予測していた。
「おい、何をや? 今日の腑抜けっ振りと関係あるんか?」
嶺山はこの日の小野坂の勤務態度が気になって『離れ』を訪ねに来ており、ちょうどその話をしているところだった。
「多分大アリやと思います。実は今宿泊されてる方の中に智君の元カノらしき女性がいらっしゃるみたいなんです」
「あ~そういうことな。にしても社会人としてはちょっと頂けんわ」
「でもこんな所に元カノなんで来られたらボクだって動揺しちゃいますよ」
「悌君、その話はちょっと置いとこか」
堀江は根田をたしなめて嶺山の方に向き直ると、ケータイが震え出して画面をチェックすると鵜飼からの着信だった。
「信からやから出るよ。もしもし」
『仁かい? 今寄り合いの帰りしたっけ、『オクトゴーヌ』ん営業車見掛けてさ。運転できるん智さんだけだべさね?』
「うん、どっち方向へ行ったか分かる?」
『西の方向だべよ、したってなしてだ?』
本来なら従業員の職務放棄など外部に漏らすべきではないが、彼なら軽々しく言いふらしたりはしないだろう……そのことよりも今は小野坂の行きそうな場所を把握しておくのが先決だと考えた堀江は簡単に事実を伝えた。
『マジで! したら多分あっこだべ、昔何かある度に頭冷やしに行かさってた場所があるしたから』
堀江は鵜飼からその場所を聞き出して通話を切る。
「多分大事にはならんわ、落ち着いたら戻ってくるやろからここで待っとこ」
堀江は根田をペンションに戻らせてフロントの川瀬にもそれを伝える。川瀬はそれを了承し、二人は何事も無かったように通常業務に戻った。




