忘れ物 その二
コーヒーを飲み終えて一息付いた堀江がフロントに入り、飛び込み客の名前をチェックしていた。
「調布夢子さんかぁ、この方葉書送ったわ」
その言葉が偶然耳に入った小野坂はえっ? と反応した。
「三年前に一度、ご利用頂いてた記録が残っててん。正直期待はしてへんかってんけど」
「あっそう」
小野坂は微妙な表情を浮かべていたが、この日は人の出入りが多く話はそこで終了する。
「おばんです」
今度は商店街の盆踊り大会実行委員の男性二人が正面入口から入店した。
「堀江さん、先程はご苦労様でした」
「いえ、今日までしかご協力できませんので」
「若い男性の加入はこちらとしても嬉しい限りだべ」
二人は労いの言葉を掛けつつも、作業に遅れが見られるところがあるのでもうひと手伝いお願いしたいと打診する。
「したらここの人にだばんこくでねっぺ」
先程まで同じく準備を手伝っていた村木が代わりに反論するが、普段この手のことにほぼ参加しない小野坂が珍しく立候補した。
「俺行ってくるよ、悌もう帰ってくるだろ?」
「さっき『離れ』で会うたよ。そろそろ入ってくると思う」
小野坂はエプロンを外して堀江に渡す。
「行ってらっしゃい、こっちは大丈夫やから」
堀江はそれを受け取って小野坂を送り出した。
「これからお願いする作業は力仕事ではねえですから」
「そうですか」
小野坂は実行委員と共にペンションを出て行った。そして入れ替わるように根田が事務所から中に入り、代わりますと声を掛けた。
「えぇよ、さっき帰ってきたとこやから」
「そうですか? テーブルの準備はボクがしますので、そこの二人お願いします。智さん、盆踊り大会の準備ですか?」
「あぁ、俺ら今日までしか参加できひんから。【サルビア】ルームに一名飛び込みのお客様、調布夢子さんって女性客様」
「分かりました」
根田は名簿をチェックすると、厨房に入って支度に取り掛かった。
夕食がほぼ仕上がり既に食事を開始している宿泊客も居る中、黒い服の女性が外出先から戻る。この時フロントに立っていた堀江は、消去法でこの女性が調布夢子であろうと推察していた。
「お帰りなさいませ」
「少し遅くなってしまいました、一度着替えてきます」
堀江は部屋の鍵を渡すと、彼女は昼川瀬にした質問を投げ掛けた。
「小野坂智さんは?」
えっ? 堀江は一瞬言葉に詰まるが、宿泊客様だからどのみち顔を合わせることもあるだろう……そう思い直して外出中ですと告げる。
「そうですか。実はチェックインした時も同じことを言われまして」
今回は粘って訊ねてるな……川瀬は厨房から漏れ聞こえる調布の声を聞いていた。
「失礼ですが、チェックインは何時頃なさいました?」
「三時過ぎです、その時も外出中と伺ったんです」
三時台だと『アウローラ』やな……確かにその時間小野坂はここにいなかった。
「そうですね、五時前に一度戻ってきています。実はもうじき港祭りがありまして、それに合わせて商店街主催の盆踊り大会が催されるんです。今は準備がピークを迎えておりますのでそれで出掛けております。多分遅くなると思いますので、伝言等ございましたら本人に伝えることは可能ですがいかが致しましょうか?」
「いえ、取り急ぐ内容でもありませんので直接話します」
調布は首を横に振って部屋に上がり、又しても黒い服に着替えてカフェに戻った。
この時間になるとひとしきり涼んだ村木、息子照と待ち合わせしていた塚原も帰路に着いていた。フロント業務も堀江から根田に代わっており、夕食の宿泊客も最後に入ってきた調布を残すのみとなっている。
根田は無料チケット使用の別の宿泊客の接客をしているので、川瀬が後片付けをしながら調布の食事の進行具合をチェックしていた。彼女の食事はゆっくりと、行儀良く進んでいる。川瀬はメインディッシュを食べ終えて少し間を置いたタイミングを計り、最後のデザートとコーヒーを用意した。
「あの、彼何か言ってましたか?」
調布は川瀬に小野坂の反応を訊ねた。
「いえ、それが……思い出せていない様子でした」
酷い答えかな? とも思ったのだが、嘘を吐くことも出来ず正直に答える。調布は予測していた風で、十年ほど会っていないと言った。さほど親しい間柄でもないのか、それでも知り合ってから長そうな口ぶりだな……川瀬は頭の中で余計な事をあれこれ詮索していると、彼女の方から昔話を始めた。
「彼とは祖父母の代から実家が隣同士なんです」
えっ? 川瀬は数時間前にすっとぼけた小野坂の姿を思い出していた。さすがにそれは忘れないでしょ? それが顔に出ていたため、調布は小野坂が嘘を吐いていることに気付く。
「私たち、物心付いた頃からよく一緒に遊んでいたんです。幼稚園から高校まで同じ所に通っていて、お互いの親も将来結婚でもさせるかなんて言っていたくらいなんです。それもあってだと思うのですが、お互い好き同士だった時期もありました。ところがうちの父が借金を作ってしまいまして、追い討ちをかけるように同居していた伯母も病気になりまして。それでまとまったお金を工面しなければならなくなったことで、通っていた大学を数ヵ月で退学して水商売の仕事を始めたんです」
調布は一度ここで話を止め、デザートに手を伸ばしてコーヒーで喉を潤す。川瀬は食べている最中にまでここに居て良いものか悩んだが、どうしても無視する事が出来なかった。仕方無く根田に目配せすると、まだ残っている洗い物を引き受けるため厨房に引っ込んだ。
「その辺りから彼と考え方や価値観が合わなくなりまして、仲がこじれてしまったんです。結局彼は大学を辞めて北海道へ、私は借金返済のため水商売の仕事を続けました」
調布は自嘲するかのようにふっと笑う。
「実は私、結婚しているんです。調布は旧姓で、今は小宮山に変わっています。気付いてくれるかな? って淡い気持ちもありましたが、考えが甘かったみたいです」
調布はそこまで話すと、残りのデザートとコーヒーを綺麗に平らげた。
「御馳走様でした、美味しかったです。それと、変な話を聞いてくださってありがとうございます」
彼女は笑顔を崩すこと無く部屋に戻る。川瀬は客に丁寧な一礼をして、姿が見えなくなるまで見送った。
翌朝、調布は食事を摂りながら小野坂の姿を探していたが、その頃彼はまだ起きたばかりで、『離れ』で朝食を摂っている。朝食ラッシュを過ぎた川瀬が賄いを持って『離れ』に入り、小野坂と鉢合わせる。
「「おはよう」」
二人は互いに挨拶を交わし、向かい合わせで朝食を摂る。小野坂の食事は食パン一枚と飲み物のみだったのですぐに終わってしまい、さっさと席を立って片付けを始める。
「ごちそうさま、先行くわ」
その様子は一見普段と変わらないのだが、昨夜の調布の話を聞いている以上、どうも彼女から逃げている様にしか見えなくなっていた。
「昨日、どうして嘘吐いたの?」
川瀬は堪え切れなくなり前日の嘘を問い質した。小野坂には彼が何を言わんとしているのか分かっていたが、その話題に触れたくなくて何を? とすっとぼける。
「調布夢子さんのこと。あの方幼馴染み、なんでしょ?」
川瀬は一度出した矛を納められず、いつになくダイレクトな言い方をした。何でそのこと知ってんだ? 口にこそ出さなかったものの、表情は明らかに変わってぱたと動きが止まる。
「さすがに幼馴染みの名前は忘れないよね? 彼女わざわざ東京から逢いに来られてるんだから、コソコソ逃げるのやめにしたら?」
「別に頼んじゃいねぇよ、むしろ迷惑してるくらいだ」
小野坂は川瀬の言葉を突っぱねて『離れ』を出て行く。取り残された川瀬はその背中を見て、意外と動揺してるなと冷静に分析していた。
恐らく調布の話は真実なのだろう、それなら小野坂にも彼女に対して何らかの思いはあるはずだ。自分にはどうしてやることも出来ない、ただ彼には折角の機会をフイにして欲しくない……そう願うばかりだった。




