忘れ物 その一
日本列島が空梅雨に終わった七月下旬、北海道にも本格的な夏がやって来る。ここ『オクトゴーヌ』では、集客がなかなか安定しないながらもどうにか忙しく機能していた。堀江の知人による騒動からしばらくは身辺の落ち着かない日々だったが、最近になってようやく平穏な日常を過ごしている。
そんなある日の午後、一人の女性がこのペンションを訪れる。彼女は真夏だと言うのに全身黒ずくめの出で立ちで、日除けの黒い帽子を被ってサングラスをかけている。派手めの化粧に真っ赤な口紅、レース仕様の衣装で肌が透けて見えており、上等な代物なのは分かるのだがどうもあざとさが拭えなかった。
「いらっしゃいませ」
この日は川瀬が接客に立っている。女性一人の予約客はいないので、カフェ客としての接客を始める。しかし彼女はフロントの前に立ち、帽子を脱いでサングラスを外す。
「急に押し掛けて申し訳ございません、今日から数日間の宿泊地を探しているのですが」
「数日間……どの位をご希望でしょうか?」
川瀬の問に彼女は、満室の前日までとアバウトな答えを返してきた。川瀬は帳簿を開き、この日から空室のある日を調べ始める。
「そうですね。今日が二十八日ですから、八月一日まででしたら可能です。如何致しますか?」
「お願いして宜しいでしょうか? できればお食事付きで」
「かしこまりました」
川瀬は了承して早速チェックイン手続きの準備をする。
「実はこれを見てここを訪ねてみたんです。着の身着のまま出掛けてしまい、ろくな準備もしなかったもので」
女性はブランド物の黒いバッグから一枚の葉書を取り出してフロントの前にそっと置く。川瀬はそれを確認すると、東京在住の調布夢子、という名の女性であることが分かった。この方ここに来た事あるんだ……そう思って改めて見ると、彼の記憶に調布夢子は存在した。
「あの、三年ほど前に人を訪ねにいらっしゃいませんでしたか?」
川瀬は当時の記憶を辿りながら女性に話し掛ける。彼は『DAIGO』で働いていた頃から時々旦子の遣いでここを出入りしており、休憩時の留守を任される事もあった。ちょうどそんな時に、彼女がここで働いていたであろう従業員を訪ねに来たことがあるのだが、その時訊ねた相手の名前まで思い出せていない。
「覚えててくださってたんですか?」
調布は派手なメイクとは裏腹に可愛らしい笑顔を見せる。そしてチェックインの手続きを済ませると、可能であれば【サルビア】ルームをお願いしたいと言ってきた。予約客は他にもいたがどこの部屋を指定してくることなど無く、今のところ空室状態なのでその要求を了承して部屋に案内する。
「あの、小野坂智という方を探しています。最近この街に戻ったと伺ったものですから」
智君のことだったんだ……川瀬の記憶は完全に蘇り、当時厨房を担当していた男性に訊ねて、かつての従業員であったと聞いていたことを思い出した。以来今までその記憶が紐解かれることは無く、客の顔を見るまですっかり忘れていた出来事だった。小野坂の許可無く勝手に近況を教えてしまうのも気が引けたが、宿泊客である以上いずれ分かると考えて正直に答えることにした。
「只今外出中のため不在ですが、ここで働いていますよ」
「そうですか」
調布はどこにいるのかも知りたかったのだが、恐らく期待する返答は無いように感じて詮索するのは止めることにする。【サルビア】ルームに着いて荷物を運び入れると、川瀬は何かございましたらフロントにおりますのでと声を掛けてから下に降りていく。彼女は先に旅の疲れをシャワーで洗い流してから、別の黒い服に着替えて一度外へ出て行った。
それから二時間ほど後に小野坂が『アウローラ』のアルバイトから帰宅してきて、冷房の効いている事務所に一旦避難した。
「あぢぃ」
「お帰り、外は暑いね」
川瀬が厨房からねぎらいのアイスティーを作って小野坂に手渡した。
「サンキュ」
グラスを受け取ると、勢い良くほぼ一気に飲み干してしまう。
「外よりも厨房の方が地獄だな、下手に冷房入れらんねぇからさ」
「まぁ、そうだね」
川瀬は自身も主に厨房にいるのに涼しげに笑っている。
「普段厨房にいる割に何でそう涼しい顔してられんだか」
小野坂はその表情に苦笑いを浮かべる。
「もう慣れたからね。それに暑さと言えば大阪の方がよっぽど地獄だよ」
「へぇ、ヒートアイランドとか言うやつか?」
「そうだと思う、関東も似たような感じだもんね」
小野坂は僅かに残っていた分も綺麗に飲み干してグラスを川瀬に返すと、着替えてくると言って事務所を出る。あっ……!調布のことを訊ねようと思って出遅れてしまい、呼び止めようにも既にいなくなっていた。
「別に後でもいいんだけど……」
川瀬は小野坂が使用したグラスを厨房の流しに置いて、再びフロント業務に戻る。それから程なくして、小野坂は別の服に着替えてペンションに戻る。
「代わるよ」
彼は川瀬と入れ替わってフロントに入ると、【サルビア】ルームが埋まっている事に気付く。
「飛び込み客か?」
「うん、調布夢子さんって女性客だよ。智君のこと知ってるっぽかったけど」
「俺を?」
小野坂は意外そうな表情を見せる。宿泊客名簿を見て考えている風の彼をじっと見つめていた川瀬に向けて、分かんないやと首を振った。
「そう。じゃ、お昼行ってくる」
大して親しくなかったみたいだな……この時の川瀬はさほど気にせず話を切り上げて、まかない飯と共に『離れ』へ移動する。
「彼何気にお人好しだから」
人助けでもしたのかもね……それで済ませようとしても何故か引っ掛かりを感じてしまい、釈然としない胸のざわつきが取れなかった。
夕方、塚原がいつものように能天気な調子でやって来る。
「今日は平和で何よりだよ、商売としてはあがったりだけどね」
「そう言ってる奴は平和なんて望んじゃいねぇ」
この時フロントに立っていた小野坂は、相手が塚原なのをいいことに早速悪態を吐く。
「ひどいこと言うなぁ。それより智ちゃん、アイスコーヒーちょうだい」
それでも構わず馴れ馴れしい態度を取る彼に辟易とする小野坂は、はぁいと面倒臭そうに返事をして厨房に入った。そこへ商店街主催の盆踊り大会の準備に借り出されていた堀江が、村木を連れてペンションに戻る。
「智~! お金払うからアイスティーちょおだぁい!」
「うっせぇよお前」
どおりで珍しく客用入口から入ってきた訳だ……小野坂は塚原の分と一緒に堀江と村木の分も作り、まずは厨房に入ってきた堀江にアイスコーヒーを差し出した。
「お疲れさん、水分補給しといたら?」
「ありがとう、何か変わったこと無かった?」
「あぁ、【サルビア】ルームに飛び込みが一人入った、女性のお客様だよ」
「そう、その方は食事付き?」
「名簿にはそう書いてあった。もう少ししたら戻って来られるんじゃないか?」
「分かった」
堀江は頷いてからコーヒーを飲み始める。小野坂がアイスコーヒーとアイスティーを持ってカフェに入っていくと、塚原は村木が座っている席の隣にわざわざ移動して何やら話をしている。村木は相変わらず嫌そうにしているのだが、川瀬の誕生パーティー以来何だかんだでまともな会話をするようになっている。
「こんな所で油売ってねえで息子の相手してやんなよ」
「今日はここに先生が連れて来てくれるんだ、待ち合わせして一緒に帰る」
「んなの効率悪くねえかい? したって先生も忙しいしょ」
「まぁ今日は治療だからさ、どのみち先生には付いてて頂かないと」
「治療かい?」
村木はキョトンとして塚原を見て、郵便配達員に変装していた頃の話を思い出す。
「あん話、どこまでが本当なんだべ?」
塚原はその話のことを気に留めていなかったようで、あぁアレと軽く笑う。
「照の話ほほぼ事実で、俺が北海道に来た理由は嘘」
「確か大学進学のため、だっけかい?」
「うん、大学には行ったけど」
「したら医者の元嫁さんとのことは?」
「彼女とは大学時代に知り合ったんだ。彼女は医学部、俺は体育学部、同じ大学のサークル仲間で」
「へぇ」
村木は塚原の話に興味を示し始める。
「したら嫁さんの話は?」
「彼女の話は事実だよ、知り合った時期こそ嘘だけど」
「何だ、あんたの話ほぼほらじゃん」
「まぁ公務員試験ではなくて警察学校だからね。京都での研修期間を終えての赴任先が北海道。でも転勤の話は全部本当だよ」
「どうせなら全部ほらにしてくれよ」
ほんずけねえ……会話は完全に塚原が村木をおちょくっている感じで、下手に事実を織り交ぜていただけに村木は頭を抱えている。小野坂は馬鹿馬鹿しいと二人のやり取りに呆れながらも、注文の入っているアイスコーヒーとアイスティーをカウンターに置く。
「「やっと来た……」」
二人は声を揃えてケチを付けると、なぜか両手でグラスを持ってストローをくわえ、同じペースで飲み始める。
「大した言い草じゃねぇか、出すタイミングに困るほど仲良く喋りまくってたくせによ」
「どこがだべ! オレはこのおっさんと仲良くしてる覚えはねえ!」
「つれないこと言うじゃない、礼ちゃん。仲良くしようよ」
塚原は嬉しそうに村木擦り寄ると、離れろ! と嫌そうな顔をして席を移動し始める。
「一応店なんだから静かにしてろ」
小野坂に注意された二人は大人しくなり、再び同じスタイルでストローをくわえている。それがまるで兄弟のようで、村木が実の兄二人とよりも仲良くしている風に小野坂には映っていた。




