居場所 その一
一方的に退職願を突き付けて『離れ』を飛び出した川瀬は、少し落ち着いてくると今度はこの先どうしようか? と悩む。何の宛ても無くとぼとぼと歩いているうちに近くの傘付きベンチの側まで来ていた。
そこにはたくさんのメッセージが書かれていて一部マニアには有名なスポットなのだが、夜にもなるとさすがに人も少なく何気に海を眺めていた。
すると一人の小さな男の子が川瀬の隣に立って、同じように海を眺め始める。その子は背の高い彼を見上げてこんばんは、と話し掛けた。
「ぼく粟田照っていいます」
男の子は律儀に自己紹介して、なぜここに居るのかを訊ねた。どう話そう? こんな小さな男の子に本当の事を話す訳にもいかず、取り敢えず無理矢理笑顔を作って気持ちを隠す。
「散歩、夜の海を観に来たんだ」
「そうなんだ、まちのあかりがはんしゃしてキラキラしてるね」
男の子は嬉そうにはしゃいでいた。どこから来たのかは知らないが、あまり海を見たことが無いようだ。
「君、地元の子?」
「ううん、ふだんは札幌にすんでるの。でもぼく、びょうきでほとんどおそとにでられなくて」
そう。川瀬は病気の事を追及したくなくて話題を変える。
「誰かと一緒じゃないの?」
「パパといっしょだよ、いまのみものかってきてくれてるんだ」
すると男の子は人の気配に反応してぱっと笑顔になる。川瀬には暗がりで見づらかったが、徐々に近付くにつれて面識のある男性が男の子に向けて笑顔で飲み物を差し出した。
「ほら、麦茶なら大丈夫だろ?」
「うん、ありがとう」
普段から割と上機嫌な姿しか見せないが、このような父親の表情を見たこと無かった。川瀬はその男性を見て驚いた顔をする。
「塚原さん?」
「こんな所で会うとはね。息子の照、粟田照って言うんだ」
塚原はまとわり付く男の子を相手しながら不思議そうに川瀬を見る。
「あの話、本当だったんですね」
川瀬は郵便局員になりすましていた頃のことを思い出していた。当時彼の話をまともに信じていなかったので、ここへきて実話を織り混ぜているとは思っていなかった。
「嘘だと思ってたの? まぁ全部が本当じゃないけど」
そう言って一旦は苦笑いしていたが、すぐにその笑顔も消えて傘付きベンチに腰掛けた。
「まさか君が職場放棄とはね」
「放棄も何も辞めますから」
川瀬は冷たく言い放ち、塚原父子から離れようとする。
「川瀬君、そろそろ負の連鎖断ち切らない?」
塚原は無表情の川瀬の顔を覗き込むと、息子の照も父を真似て彼の顔を覗き込んだ。
「おにいちゃん、おしごとやめちゃうの?」
照の言葉に川瀬はうんと頷いた。
「本当にそれで良いと思ってる?」
塚原は立ち上がって川瀬の行く道を塞ぐ。
「もう決めたんです、退職願も渡しましたから」
川瀬はすっと塚原をかわして立ち去ろうとすると、照が待って!と呼び止める。その声に思わず足を止めてしまった川瀬に、彼はパタパタと走り寄った。その様子に塚原は慌てて息子を追い掛ける。
「やめてどうするの? このまちからいなくなっちゃうの?」
「うん、故郷に帰ろうと思ってる」
塚原は川瀬の前に立っている息子を捕まえて自身の道を塞ぐ。
「何で今までそれでやんなかったの? 半月ほど前には知ってた話でしょ?」
「退職願をどう書こうか悩んでしまいまして」
塚原の問いにわざと軽い口調で答えると、照は悲しそうに川瀬の顔を見上げた。
「あそこが居心地、良かったからでしょ?」
「あなたさっき仰いましたよね? 負の連鎖を断ち切れって。その為に辞めるんです、だから放っといてもらえますか?」
肩をすくめて穏やかに話す塚原を、余計なお世話だと言わんばかりに睨み付ける。
「それじゃ何の意味も無いって、今しこり残したままだと一生後悔するよ」
「知ったようなこと、言わないでもらえませんか?」
「知らなきゃ言える訳ないじゃない。亀崎當真、君の徳島時代の友人でしょ?」
「!」
かつての友人の名前に川瀬は驚いた表情を見せる。彼は施設に居た時に一番仲の良かった一つ歳上の友達で、不良少年ではあったが面倒見の良い兄貴分だった。
「えぇ、當真だって被害者の一面を持ってるのに、風評でまで痛め付けられてきたんです」
「そうかも知れないけど、彼に付きまとわれた挙げ句殺害された女性の無念はどうなるの? 彼女は非行を乗り越えて夢を持てるようになった矢先だったのに、命もろとも全てが一瞬で失われたんだ」
塚原はそう言って川瀬を見る。
「もちろん被害に遭われた女性の方の事を考えなかった訳ではありません。ただ、家族の居ない僕にいつも優しく接してくれた彼を知ってるから、やっぱり仁君を許せないんです」
「だったらそのまま伝えれば良いんだよ、逃げられるのが一番辛いはずだから」
その言葉に川瀬は何も言えなくなる。
「おうちにかえろう」
照が川瀬の手を握った。彼の柔らかくて温かい手に川瀬の固くなっていた心は少しずつ溶かされている様な感覚になる。その感触はほとんど覚えていない母親の優しさを思い出して何だか泣きそうになった。
「皆待ってるよ、義君何やってんだ? って多少怒りながらもね」
川瀬は塚原父子に促されて『オクトゴーヌ』に戻ると、既に夜九時を回っていて厨房の灯りは落ちていた。なるべく音を立てずにこっそり中に入ると、彼自身がメモしておいた翌朝のレシピの下ごしらえは済んでおり、冷蔵庫に貼ってある赤岩のメモが視界に入る。
【体調を崩されたそうで、明日までは僕が厨房に立ちます。早い回復を祈ってます。 赤岩】
遠さんがしてくれたんだ……川瀬は自身の行動で迷惑を被っている人が居る事を思い知って罪悪感に苛まれる。フロントには堀江か小野坂が入っているはず、そう思ってそっと出ていこうとするとフロントと厨房を隔てているカーテンがサッと開く。
「義か?」
その口調で小野坂だとすぐに分かった川瀬は、一瞬怯んで返答出来ずにいた。彼は自身が飛び出してしまった事で昼食を摂り損ねているかも知れなかった。小野坂は厨房の灯りを点けて川瀬を見つめている。
「ゴメン、勝手なことしちゃって」
「いや、謝る相手が違うだろ?」
彼は何とも言えない表情を見せていた。
「僕、ここ辞めるから」
恐らく堀江から事情は聞いているだろうと推察して事実を告げた。
「あぁ、聞いた。ただ受理されてねぇぞ」
小野坂は川瀬に近付き、ポケットから紙切れを取り出すとそれを握らせた。手の中にある紙切れを見ると、昼間堀江に渡したはずの退職願で綺麗に真っ二つの状態になっている。
「オーナーが待ってる、さっさと顔見せてやんな」
彼は『離れ』へ行くよう促すと、灯りを消してカーテンを閉めた。
川瀬は真っ二つに裂かれた退職願を手にしたまま『離れ』に戻ると、一人リビングで堀江が待っていた。彼は疲れた表情をしていたが、従業員の帰宅に笑顔を見せるとおかえりと出迎えた。川瀬は早速小野坂に渡されたそれを見せると、どういうことですか? と説明を求めた。
「それが俺の答え。やり方に問題はある思うけど」
堀江は静かにそう言った。
「義君にここを辞めてほしくないんや、それでも気持ちが変わらんのならここたたむつもりやから」
それが堀江の言い分だった。身寄りの無い川瀬には嬉しさもある半面、その言葉が先代である衛氏の遺志を踏みにじっているのではないかと罪悪感も芽生え始める。
「何言ってんです? 僕一人の行動でここの命運まで決めないでよ」
川瀬は戻ったは良いがなかなか素直になれず冷たい言い方をする。しかし堀江の話はまだ続いた。
「義君だけやないよ、悌君、智君が欠けてもここは成立せぇへんから。誰か一人でも辞めてしもたらここの営業を辞める。実はこの話、衛さんにはしてあるんや」
「そんな冗談、誰が信じると思ってんの?」
川瀬は初めて聞くその事をにわかに信じられないでいた。しかし堀江の表情は穏やかで、嘘を言っているようには見えない。
「冗談やないよ。悌君がここに入った時に、ここのメンバーが辞めたら経営者失格としてここをたたみますって宣言してん。ただその時智君は居らんかったから、それは俺の勝手な解釈」
そんな宣言しなくても……川瀬は堀江の考えに若干呆れていた。仮にやむを得ない事情の場合でもそうするの? 友を死なせた男と一緒に居られない思いもくすぶって身勝手な発言に聞こえていた。それに一旦矛を出してしまった以上、どこか引っ込みも付かなくなっている。
「勝手な事言わないでよ、受理されなくても辞めますから」
川瀬は破かれた退職願を机に叩き付けると再び外に飛び出した。




