整理 その四
三月末日をもって東京のトータルビューティーサロンを退職した飯野凪咲が、満を持して箱館の地への移住を果たした。彼女が住んでいた東京では新型感染症が大流行している状態なのだが、このほど新薬が開発されたため条件付きでの渡航が認められるようになっていた。彼女も例に漏れず、三月のうちに検査と予防ワクチンを接種を済ませている。
「待たせたね箱館」
新幹線を利用した凪咲は夏以来のこの街に満面の笑みを見せる。桜満開状態の東京都は違いまだまだ冬の様相を見せていたが、それでもこの時期らしく心機一転感を彷彿とさせるリクルートスーツに身を包む新社会人らしき若者たちの姿も見受けられた。
凪咲は腕時計で時間を確認してから待ち合わせ用の停留所へ歩き出す。彼女自身雪道には慣れていないのだが、元々レジャーブーツを好んで履いているのでその割にはしっかりした足取りであった。それから待つこと数分、マラカイトグリーンのコンパクトカーが停留所に横付けした。
「久し振りだな」
車内から兄小野坂が姿を見せる。
「正月振りだね、つばさは?」
「シッターさんと留守番」
「そうなの? どうせなら一緒に……」
凪咲は一秒でも早く姪に会いたいと思っていたので少々ガッカリしている。
「何言ってんだよ、タイトなスケジュール組みやがって」
本来であれば小野坂も娘を連れてなるべく早く対面させておきたかったが、到着時間と引越し業者が来る時間をバッティングさせているせいで自宅を空けぬよう稲城に預けて留守を任せることにした。
「しょうがないじゃない、そこしか無かったんだから。けど桜南ちゃんがシッターさんってのも不思議な縁だよね」
彼女は稲城がシングルマザーでベビーシッターの仕事をしていることは知っていたが、美乃が契約しているシッター会社であることは最近まで知らなかった。
「あぁ、実際夜勤対応してくれるのそこしか無いから助かってるよ。おばちゃんのことだからその辺は見越してそうだけど」
「そうだね。ただ桜南ちゃん仕事の話ほとんどしないから」
「そうか」
「やっぱり秘守義務ってのがある程度厳しいみたい」
そんな会話をしながらスーツケースとメイクボックスをトランクに詰め、気持ち急ぎ足で車を発車させた。
「それにしても上手いタイミングでワクチンが開発されたよな」
「うん、ヘタしたら終息宣言が出るまで都外出られないって感じだったらさ。せっかくのチャンスがフイにならなくてほっとしたよ」
凪咲は助手席で腕を伸ばす。
「こんなタイトにしなくてもあっちでゆっくりしてからで良くなかったか?」
「一カ月あるんだからこっちの空気に慣れておきたくて、いざ生活ってなったら感じ方も変わってくるじゃない」
彼女は一見行き当たりばったりな行動をしていそうに見られがちだが、事前に準備万端状態にしておかないと気が済まない性分も持ち合わせていた。その点でいえば小野坂はむしろ逆で、一昨年の移住も働き口を決めずの状態であったため案外俺の方が無茶苦茶かと考えていた。
「お兄ちゃん?」
思考があさっての方向に飛び始めた小野坂に凪咲が声を掛けた。
「ん?」
「前会った時より顔色良くなったねって言ったの」
「そうか」
「うん、離婚って失敗でも不幸でもないんだね」
「そうだな、俺にとってはそうだと思う」
小野坂はそう言ってわずかに口角を上げた。車は自宅ハイツに向け順調に走っていた。すると逆方向から来た引越し業者のトラックが自宅に繋がる道に入り、小野坂の愛車もそれに続く。
「ひょっとしたらアタシの荷物かも」
凪咲は前を走るトラックを見ながら楽しそうに言った。
「そんな偶然そうあるかよ」
「分かんないじゃんそんなの、でもあの業者さんだから」
その後二台は同じ方向をひた走っていたが、契約駐車場が見えてきたのでトラックを見送って駐車場に車を停めた。そこから数分歩いて自宅ハイツに到着すると、先程前方を走っていたトラックと同じ型のものが目前に停車している。
「あっ、ビンゴっぽい♪」
凪咲はひと足先にハイツに走って業者の男性に話し掛けていた。世帯主である小野坂も後に続き、なだれ込むように引っ越し作業に入っていった。
「ところで桜南ちゃん」
昼過ぎに作業の目処が立ち、昼食を作るのが面倒なので出前を取ることにした。かといってつばさの分はそうもいかず、キッチンに立って離乳食を作っている稲城に凪咲が話し掛ける。
「もう来なくなった? 悪戯メール」
何カ月も前の出来事を蒸し返された稲城はへっ? と上ずった声をあげた。
「あれ一回きりやった、続っようなら警察に相談しようて思うて一応メールは残しちょっ」
「後で見てもいい?」
「うん」
稲城はそう返事してから程なく離乳食を作り上げ、冷めるのを待つ間に私用ケータイをバッグから出した。
「ん〜っと……あった」
彼女はそのメールを開いてから凪咲にケータイを手渡す。凪咲はそれを受け取ると隅から隅まで黙読し、何故か小野坂にも見せた。
「いや俺はいいって」
「そうじゃなくてさ、このメアド見たことある?」
「えっ?」
妹に接突かれて稲城宛の悪戯メールを見た小野坂はメールアドレスに釘付けとなった。それをいいことに凪咲は小野坂の寝室に入り、新しめのアルバムを見繕ってダイニングに戻ってくる。
「どう? お兄ちゃん」
彼女は早速アルバムを広げて物色するようにどんどんページをめくっていく。兄の思い出に触れるというよりも特定の写真を探している風であった。
「多分だけど見覚えあるよ、何でアルバムなんだ?」
「確認したいことがあって。結婚式の写真どこ?」
「もうちょい先のページだよ」
「あっそう……これだ」
凪咲は厚手のページをごっそり掴んで一気にめくり、結婚式の写真を見つけ出す。結婚当時はフォトフレームに入れて飾っていたのだが、離婚後調布が持ち出したようで探しても見つからなかった。
「そのメアド、どいつの?」
今度は結婚式の写真を見せてくる妹に小野坂は怪訝な表情を見せる。
「それ知ってどうすんだよ?」
「アタシが納得したいだけ。で、どいつ?」
小野坂は意外と雑な理由にため息をもらしたが、記憶違いでなければと前置きしてから元新婦の隣に座っている男性を指差した。凪咲は兄が指差した男性を凝視すると、コイツだ! と言って勢いよく顔を上げた。
「何がだよ?」
「通報したのコイツなんだよ!」
「だから何のだよ?」
噛み合わない義兄妹の会話をつばさは遠目からぽかんとした表情で眺めていたが、程よく冷めた離乳食を持ってきた稲城に気付くと興味は完全にそちらに移していた。
「この日旅行客風の若い子来たよね? 夏来た時には従業員になってて良かったなぁって思ってたんだけどさ」
また古い話をと思ったが、この日を境に彼の雰囲気が変わったことを考えると今更ながらも捨て置けない話かと思い直して凪咲を見る。
「親から捜索願が出てたって聞いてるけど」
「それもそうなんだろうけどさ、コイツわざわざ人目離れた所に移動して『不審者が入り込んでる』って通話してたんだよ。その後新婦に向かって『もう大丈夫、通報しておいたよ。いざとなったら現役刑事さんもいらっしゃるから安心して』って言ってたから間違いないよ」
凪咲は式の当初から新婦にべったり貼り付いていた川瀬が気に入らなかった。調布の独身時代の悪事も既に耳に入っており、この状態が続けば不倫もあり得ると踏んでいた。兄が傷付く前に別れさせることも考えていたが、それから一年もしないうちに川瀬と不倫し離婚に至った。自身が労せずして離婚したことには安堵したが、東京に戻って元政治家の愛人になっても、未練がましく実家を訪ねては小野坂との復縁を狙ってくる態度にいい加減辟易していた。
「お兄ちゃん、もう未練に絆されないでね」
「は? 何だよ急に」
凪咲は普段とはとは違う低めのトーンで言った。小野坂は引き付けられるように改めて妹を見る。
「取り敢えずそれだけ約束してくれる?」
「分かった」
凪咲の意図を読み取れた訳ではなかったが、もう二度と同じ過ちを繰り返したくないという思いはあったのでその誓いの意味も込めて頷いてみせた。




