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30、
血のにおい。
鉄のにおい。
汚物のにおい。
内心で嫌悪と不快を覚えながら、しかし鼻をしかめることすらしなくなってしまったのはいつからだろう。
人は慣れる生き物で、慣れてしまえば全ては無視できる情報で、心を動かすことを忘れれば感情も思考もいつしか無意識下で何の感慨もなく処理される。戦場では特にそうだ。
……昔、祖父と二人で暮らしていた頃のことを思い出す。私は祖父が何故あんな不快なにおいの中心にいて平気なのか理解できず我慢ならなかった。祖父は父の職務を汗くさい血なまぐさいと内心で嫌っていたようだったが、皮肉なことに、父と同じ騎士になって汗にも血にも慣れてしまった今の私が不快な嗅覚情報に出会うたびに思い出すのは娘夫婦を失って生気を無くした後の祖父のにおいだ。
女騎士リクアは都市フウィスの外壁の上で、一呼吸つきながらそんなことを漠然と考えた。
二日前にリクアとローリエがこの都市にたどり着いてからほとんど間を置かず、異人族たちは西の森から続々と現れて数を増やしながら断続的に都市を攻め立てていた。一方、野営地の戦いから逃げ延びた騎士たちから報告を受けて都市側も先に防備を固めていて、門を固く閉じ、騎士たちと都市の常駐戦力を併せて防衛戦を開始していた。
都市フウィスの北と南は険しい岩山で行軍が難しく、必然的に関所の役目も兼ねた都市の西側が戦いの場になっていた。都市側は高く築かれた外壁の上に兵を配置し、異人族たちはその外壁にとりついてよじ登ろうとしたり、門を集中的に攻撃したり、セントールたちによる弓矢やゴブリンたちなどによる投石で外壁の上の兵たちを狙ったり、断続的に攻め続けていた。
中でも厄介なのが空を飛ぶハーピーたちで、外壁など意に介さず上空から進入してくる彼らには常に目を向けていなければならなかった。
もし彼らが他の異人族を持ち上げて運べるほどの力があったなら、こうした外壁は意味をなくしていただろう。
あるいは矢を防げるほどの重い鎧か、あるいはその鋭い爪よりも殺傷範囲の広い武器を使いこなしながら空を飛べるほどの力があったなら、彼らの対処にはもっと苦労をさせられたことだろう。
空を見渡してハーピーたちが引き下がったことを確認し、守備隊の盾の間から外の異人族たちの様子を眺めてしばらくは攻勢も落ち着いていることを確認してから、リクアは改めて周囲に目を向けた。
血。
ところどころに飛び散った赤い血。剣から滴り落ちる血。傷を負った兵たちの体をまだらに染め上げ、地面に落ちては汚れた足跡を残す血。弓矢で射落とされたハーピーたちの死体の下に広がる血だまり。ハーピーの死体は手が空いた者たちがそのまま外壁の外へと投げ捨てるだろう。
鉄。
鉄の鎧と武具をまとい、疲弊しながらも警戒を続ける兵たち。
汚物。
忌々しいことだが、ハーピーたちが残した排泄物があたりに散らばっていた。非力なハーピーたちは嫌がらせには長けていて、鳥そのもののように飛びながら糞を戦場にばらまくのが常だった。人のものとは見かけやにおいがやや違うのがせめてもの救いだが、不快なことには違いなかった。
もっとも、戦が長引けばハーピー以外の排泄物が武器代わりに飛び交うことさえあるだろう。綺麗に行われる戦争など前線にはない。あるのは安全な場所に身を置いた者たちが頭の中で描く物語の中だけだ。
既に見慣れてしまった風景を冷静に観察してから、休める者は休めと指揮下の兵たちに伝達し、リクアは自分も他の騎士と交代して休憩に入った。
城壁から下りるその横では怪我をした兵たちが、歩ける者は自分の足で、歩けない者は運ばれて街へと下ろされていた。彼らとともに街に戻るとすぐ傍に、建物を接収して用意された医療所があった。気は進まないが、そちらに足を向けた。
医療所の中を覗くと、ベッドに横たえられた患者や今まさに運び込まれた怪我人の間を慌ただしく行き来する医療従事者たちの姿があった。その中に、やや浮いたメイド衣装のままのローリエの姿もあった。
ローリエは昨日からこの医療所で手伝いをしていた。
「簡単な応急処置ぐらいならおまかせを♪ メイドとして一通りのことは万一のため覚えておりますので♪」
医療所の手が足りていないという話をたまたま聞きつけて、そう言って彼女の側から手伝いを申し出てきたのが昨日の朝のこと。
身も蓋もない言い方をすればリクアは彼女を信用していなかったが、前線で戦う自分の立場で彼女を見張り続けることも非現実的だったので、その申し出を好都合と判断して受け入れた。怪しい自称民間人だが現時点で明確な利敵行動をする様子は見られないし、医療所のような常に人目のあるところに置いておけばそこから逸脱するような変な真似はしにくいだろう、と。
そして昨日一日を終え、念のため医療所の人間に彼女の行動が問題なかったかを聞いてみると、看護師からはこういう答えが返ってきた。
「ええ、ええ! とても助かってます!
彼女、どこかで看護の経験があるんでしょう? 大助かりです!」
どんな怪我人を見ても動じることなく、落ち着いたままで、慣れているように見えた、とその看護師は言っていた。
ただ、別の医師は何やら顔をしかめていた。あまり言いたくなさそうにしていたが、それでも無理に聞き出すとこんな話をした。
「偶然かもしれませんがね。
運ばれてきた怪我人を、私たちはまず怪我の度合いを見て大まかに数グループに分けるのです。重傷から軽傷まで、それぞれに緊急度が違いますからね。ベッドの区画も分けます。
その選別は本来は手伝いの方の仕事ではないのですが、余裕がない時間帯がありましてね。彼女がひとまず仮で手配してくれたのです。
それが不可解なほど正確でしてね。
命に別状はない者から死が近い者まで、明らかに目に見える傷だけではなく素人には分からないであろう内臓の損傷まで見て取った上で、本職の私から見ても文句のつけようのないように並んでおりましたよ」
少し間を置いて、言うべきかどうか迷う様子を見せた後、彼は言った。
「既に亡くなっている方もいますが、彼女が手配したベッドの端から順番に亡くなっています。亡くなる順番が分かってたみたいに。おそらく次に死ぬのも順番どおりでしょう」
つくづく気味が悪い女だ、とリクアは思った。
しばらく、医療所の様子を見ていた。
運ばれてくる怪我人の波が落ち着いて、対処の慌ただしさも落ち着きが見え始めた頃、ふと、視界に入れていたはずのメイド姿が見あたらなくなっていることに気づいた。
嫌な予感がして。
前方に飛び退いた。
「むぅ。もう少しでしたのに。
血のにおいには飽き飽きです。やっぱり生きている健康な人のにおいが一番ですよね! 安らぎます♪ もしくは興奮します♪」
半ば予想がついていた声がして、リクアは自分が今までいた場所の背後に警戒の目を向けた。
メイドのローリエはリクアに抱きつこうとして逃げられたばかりという様子で、両手を前に伸ばして交差し、片足を後ろに高く曲げて片足立ちの前傾姿勢でバランスを取っていたが、くるっとわざとらしく回って直立姿勢に戻して軽く礼をした。
「少し休憩をもらってきました。あなたもご休憩中ですか?」
「貴様がおかしなことをしていないか確認しに来ただけだ」
「まあ♪ ご心配ありがとうございます。でも安心してください。わたし、いつも明るく真面目なメイドですので♪」
「貴様、何者だ?」
ローリエは面白がるような顔で言った。「ただのメイドです♪」
「メイドの仕事は血と怪我を見慣れるような仕事なのか?
一目見て傷の深さを見て取るのがメイドの仕事か?」
「ああ、いえいえ。それはわたしがメイドになる前の生活の名残です。
メイドはいたって平和なお仕事です♪」
「前の生活?」
「わたし、王都の貧民街の育ちなんですよ」
平然と、特に心を動かす必要もない平凡な会話のように、慣れた様子で彼女は言った。
「とても治安が悪いところでしてね。まあもう数年もすれば王様がバッサリ手を入れて追い出して表面上は無くなると思いますが、とにかく毎日誰かが暴力沙汰を起こしているような場所でして、血を見ることも珍しくありませんでした。
誰かが死ぬことも。
それで、いつの間にか分かるようになったんですよね。
においで。
このにおいはもう助からないな、とか、このにおいは大丈夫そう、とか。まあなんとなくですが」
「においで?」
「はい。においで♪」
「……」
リクアは顔をしかめた。
……連想するのは死神か、それとも死肉をかぎつける獣か鳥か。
……この女の言うことをどれほど信じるかは考え物だが、もしも正直に語っているとして。
……ますますこの女ににおいをかがれるのが気持ち悪く思えてきたな。
そう思った時。
カーン、カーン、カーン、と。
街の東側から、伝令用の鐘が鳴った。続いてそれに応える形で、前線にあたる西側の外壁からも。
「あら、休憩の終わりのチャイムですか?」と、ローリエ。
「そんな平和なものではないが、意味的にはそうだな。動ける者は急いで集まれとの合図だ。何か動きがあったようだ。私は持ち場に戻る」
外壁の上に戻ると、味方の兵たちが明らかに活気づいていた。外壁の外を見ると、異人族たちは斥候役のハーピーから何か情報を受け取ったらしく攻勢の手を緩めて急いで陣営を再編しようとする様子が見られた。
手の空いた味方の兵たちの視線を追って都市の東側に目を向けながら、リクアは伝令兵が声高に伝える声を聞いた。
「王様のご到着! ペンダ王自ら援軍を率いてご到着!」




