稲妻のような
26、
乳母のあの言葉は、どんな意味だったのだろう。
花。チェターラの母親の墓に咲いていた花。
触れてはいけない。
汚れ。
単語の意味は何一つ難しくないのに、乳母の真意は読みとれなかった。きっと、何か思うところがあったのだと思うのだけれど。
ただ何年も前から父親と乳母とが交わす会話がぎくしゃくしているのには気づいていて、そこには既に亡くなったチェターラの母親への感情が関係していることにも子供ながらに気づいていたので、結局、あのときは何も聞けなかった。多分、これから先も聞くことはないだろう。
……わたくしは、いつも一緒にいてくれた乳母に愛着を感じていましたけれど。
……でも、お母様の話が出る度に乳母の態度は冷たくなって、お父様も乳母の前ではその話題はなるべく避けるようになっていて。
大好きな父親と愛着のある乳母との間の亀裂を掘り起こしてしまうのが悲しかったから、あの頃のチェターラはその類の話に深入りするのを避けていたし、今でも、乳母の前では母親の話はきっとしない。
しばらくドライアドの乳母の思い出と、昨夜少しだけ一緒に過ごした女騎士リクアのことを交互に思い返していたが、チェターラは首を振り、横を歩くレイヤ少年と手元の辞書にまた意識を戻した。
たどたどしい会話。
辞書のページをめくり、単語を探し、頭の中で並べて、話したい内容に足りない単語が無いか確かめてから、レイヤ少年に声をかける。返答を聞いたら、その内容を覚え、一つ一つの単語に分解し、忘れないうちに辞書のページをめくり、単語の意味を一つずつ探す。
「(どんな)(人)(あなたの)(母親は)(ですか?)」
「(優しい)(母親)(だった)」
レイヤ少年はチェターラが辞書をめくる時間を待って、なるべくゆっくりと話してくれていた。
だがそれでも、
「(学者)(だった)。(家には)(ほとんど)(いなかった)、(だけど)、(まれに)(※稲妻?/お菓子の一種?)(を)(持ってきて)……ア(※おそらく意味のない場つなぎの発音)、(※稲妻?/お菓子の一種?)(は)、(細長い)△◇◇×◎(で)……(いや)、△◇◇×◎(を)(先に)(説明すると)……」
文章が長くなると分からない単語もよく出てきたし、それに気を取られてその後の単語を聞き取り損ねたり、あるいはその場では聞き取れたはずなのに文章全体を聞き終わる頃には頭の中でごちゃごちゃになったりして、よく穴あきみたいな状態になった。そうなると、一気に文章全体が分からなくなることもよくあった。
最初は単語を並べて会話が出来ただけで嬉しかったのに、いつの間にか前よりよく分からなくなってきたような気さえした。
……えっと、お父様の辞書には同じ単語に「稲妻」と「お菓子の一種」の両方の意味が書いてあるのですけど、この場合はどちらなのでしょう?
……そもそも、なぜその二つが同じ単語なのでしょうか? 稲妻みたいなお菓子があるのでしょうか。想像できませんけど。お菓子でガラガラピシャーン?
辞書とにらめっこしながら頭をひねっていると、ずっとチェターラの肩の上で鳥の足を休めながら二人の会話を見守っていたアパリアスが口を挟んだ。
「おぼこちゃん。おぼこちゃんはさ、意識して新しい言葉を覚えるのは初めてかい?」
「? ええ、はい」
普段使っている自国語も、それから主に乳母と話すのに使っていた異人族の言葉も、チェターラの感覚では物心つく頃にはいつの間にか使いこなしていた。なので確かに、意識して新しい言葉を覚えるのは初めての体験だった。
……相手の使っている言葉が分からないって、こんなにももどかしいことなのですね。
アパリアスは頷いた。
「そうさね、そんな感じだ。
まあ、最初ぁ辞書に引っ張られるのは仕方ないさね。単語の意味を知るのは大前提だし、全然間違っちゃあいない。
でも一つ、あたしなりのアドバイスをあげようか。
会話を自然なものにするコツは、単語の一つ一つの意味をその場じゃ訳さないことだよ」
「?」
単語の意味を確かめないまま進んだら、文章全体なんてもっとあやふやになってしまうような?
「おぼこちゃんはさ、もうあたしらの言葉と人間の言葉を両方使ってるんだし、コツはつかみやすいんじゃないかと思うよ。
考えてみてごらんな。片方の言葉を使うとき、もう片方の言葉でいちいち単語の意味を一つ一つ訳して考えているかい?」
「それは……」
深く考えたことはなかったけれど、そんなことは多分していない、はず。
もう片方の言葉で意味を聞かれたり説明してほしいと言われたりしたら考えるだろうけれど。
人間の言葉を使うときはそのまま頭の中も人間の言葉で考えていたし、異人族の言葉を使うときはそのまま頭の中も異人族の言葉で考えていた。いつの間にか自然に切り替えて使っていた。他の人がどんな風にしているかは分からないが、チェターラはそう。
それなら、新しい言葉を使うときもそんな風に頭の中を切り替えてしまえばいい、ということでしょうか?
……でも、だからといって単語の意味も分からない言葉にすぐ切り替えて考えるのは難しいですけれど。
……うーん。稲妻みたいなお菓子を食べたら頭の中もパッと閃めいて解決するでしょうか。どんな味なのでしょう、『えくれあ』。
チェターラが難しい顔をしていると、アパリアスが笑った。
「あはは。まあ、典型的な『言うは易し、行うは難し』ってやつさね。
だけどさ、実際そういうもんなんだよ。単語を考えてしゃべってるうちは、相手から見りゃどうしてもたどたどしく聞こえちまうもんなのさ。どうしたって、自分と相手は本当は違う言葉を使ってるって感づいちまうのさ。
そうなると、どうしてもそこには垣根が出来ちまうんだよね」
「言葉とはそういうものなのだろう」
と、横を歩いていたオークのアレック・ガルムがおもむろに言葉を挟んだ。
「仲間内で通じるためのものであり、ひいてはその言葉を違わず使うことこそが仲間であることの確認にもなる。
仲間内の共通認識になっていなければ、言わば声はただの音であり、文字はただの線か図形だ」
チェターラがアレック・ガルムを見ると、その目は通り過ぎたばかりの横の樹木に向けられていたようだった。
何気なくそちらを見ると、その木の低い位置には何かが引っかいたような小さい傷が一本走っていた。獣だろうか、とその時は思った。動物の中にはそんな風に縄張りを示すものもいるのだと、前に森を旅したときに聞いたような。
でも、獣の爪痕や歯痕にしては、なんだか妙な気もした。人工的というか、直線的というか?
チェターラがもう少しよく見るために立ち止まろうとすると、それを遮るようにしてアレック・ガルムが前進を促した。
「少しペースを早めよう。
日が暮れる前に、野宿に良い場所を探して落ちつきたい」
短い休憩を挟みつつ、森の中を歩いた。
どのくらい歩いたのか。木々の合間から射す陽光がだいぶ傾いた頃。
ひときわ大きな巨木のある場所に出た。数人で囲んでもまだ手が届かないような太さで、その根もたくましく、盛り上がってうねりながら四方八方から根本へと集合していた。そのために、根と根の間にはチェターラがかがめばそのまま隠れられるぐらいの空間が出来ていた。
アレック・ガルムは立ち止まり、何か吟味するような目を数秒向けていた後、やや大きめの声で言った。
「ここで休もう。
ここで夜を明かす」
てっきり単純に巨木の根と根の間が腰を落ち着けて休みやすいからだとチェターラは思ったが、チェターラとレイヤ少年をそこに落ち着かせた後、オークのアレック・ガルムはチェターラの肩の上のアパリアスに言った。
「私が声をかけたら、木の上まで飛べ。
矢に気をつけろ」
アパリアスの目が、何かを了解したように険しく細まった。
会話の内容に追いつけずチェターラが質問してみようかどうか迷っている間に、アレック・ガルムは根と根の間に座ったチェターラとレイヤ少年を背にする形で森へと向き直り、大音声で呼ばわった。
「お前たち、姿を見せろ!」
同時にチェターラの両肩に軽い衝撃が走り、さっきまでそこで鳥の足を休めていたハービーのアパリアスが騒がしい羽音をたてて、バサッと一気に垂直に飛び去った。
直後。
周囲の森の一方から。
鋭く何かが飛来する音がした。
それが矢音だったと理解したのは、そのすぐ後。実際に突き刺さった矢を見た後のこと。




