浅慮と聡明
17、
だが。
浅慮が結果的に物事をうまく運ばせることも、たまにはある。
早く失敗すれば、それだけ挽回の機会も増えるというものだ。自分自身では巻き返せなくとも、他人が助けてくれる機会も増える。
辞書を取られたことはチェターラからすると失敗に思えたが、そこから好転することになった。
「お願いします、お返しください!」
「手書きの辞書だな。私たちの言葉で書かれている。
……む?」
アレック・ガルムは何かに気づいたような様子で、手書きのノートをめくっていた手を止めた。
チェターラは手を伸ばしてノートを取り返そうとしたが、肩の上に乗っているアパリアスの鳥足で押さえられていて腕が上がらなかったし、そうでなくとも背の高いアレック・ガルムが手に持つ高さにはとても届かなかった。
無駄と分かりつつジャンプもしてみた。が、届かなかった。
「あの」ジャンプ。「それを返して」爪先立ちで、背伸び。ふぬぬっ。「くださいませ!」
全然、届かなかった。
「ああっと。おとなしくしてなよ、おぼこちゃん」
アパリアスが翼を広げて器用にバランスを取りながら肩の上で言った。
チェターラは、訴えかける目でアレック・ガルムを見上げた。
……こういうとき、いつものお父様なら。しゃがむか、それともわたくしを抱え上げてくれるかしてくださいますのに。いいえ、今のお父様がしてくれるはずがないのは分かっていますけれども。
アレック・ガルムはそんなチェターラの様子には気を遣う様子もなく、言った。
「この辞書は誰が書いた?」
「え? それは……」
お父様です。
と、お答えして大丈夫なのでしょうか。
チェターラは迷って口に出せずにいたが、アレック・ガルムが言った。
「お前の父親、か?」
「! は、はい」
アレック・ガルムは内心でその言葉の意味を考えている様子で、眉をひそめた。
「この字の癖には見覚えがある」
それは、そうでしょう。
お父様ご自身が書いた字ですもの。
チェターラはそう思った。
アレック・ガルムは、独り言のようにつぶやいた。
「あり得るのか? だとすれば浪漫だな」
? 浪漫?
また浪漫。
よく分かりませんが、この頃のお父様の口癖なのでしょうか。
でも、今の流れは。
もしかして。
「……お父様?」
「……」
じろりと、アレック・ガルムがチェターラを見た。だがその目は、今までのようなそもそも理解するつもりがない冷たいものではなく、チェターラの言葉が正しいのかどうか真剣に吟味しているように思えた。
これは。
お父様は、気づいてくれたのでは?
さすがに半信半疑なのでしょうけれども、わたくしがお父様の娘だと、その可能性はあると思っていただけたのでは。
さすがお父様!
チェターラは、信頼と嬉しさを込めてアレック・ガルムを見つめた。浮き沈み激しくころころ変わるチェターラの表情を、アレック・ガルムは顔をしかめて距離を置くように観察していたが、手書きの辞書を示した。
「一通り目を通したら返そう。それまで待っていろ」
「はい。分かりました」
チェターラの肩の上に乗ったまま成り行きを見守っていたアパリアスが、不思議そうに言った。
「あん? 急におとなしくなったね。どういうこったい」
アレック・ガルムは肩をすくめ、言った。
「その娘には、もう少ししっかりと話を聞く必要があるようだ。
まだ焼け落ちていないテントがあったな。場所を移す。一晩、私はそこで休む。その間、この娘から話を聞き出すとしよう」




