父の辞書と母の日記
7、
少年。
やせた、見ようによっては陰気な印象の、黒髪の少年。
もっとも、チェターラにとっては昨日助けてもらったことによるプラスの印象補正が強くあるので、悪い印象とは感じなかった。
わたくしが思うに、陰気なのではなくて、ほっておけない魅力的な影がある、と言うべきなのです!
と、そんな感じ。
服装は、昨日のまま。暗緑色と暗茶色の、別世界の兵士の服。
部屋の中には新しい衣服も用意されていたが、少なくとも今日は、着慣れた服でいることを選択したらしかった。
少年は、チェターラとローリエに困惑したような顔を向けた。別世界の言葉で、何かを言った。
ローリエが言った。
「あら。そういえば、言葉が通じないのでした。
何を言っているのか、まるで分かりません」
チェターラは、父親から渡されていた辞書をポーチから取りだそうとして、手をふと止めた。
……この辞書のことはなるべく人に知られたくないのですけれど、ローリエを追い払うのも変に思われますよね。どうしましょう。
……。
「あなた、わたくしのお父様の邪魔になることはしませんよね?」
「アレック・ガルム様の、ですか? もちろんです♪ 当然です♪」
ローリエは祈るように両手を組んで、なんか恋する乙女っぽいポーズを取った。
チェターラは、げんなりしたが、続けた。
「ここに、お父様からお借りした辞書があるんです。エドマンド様が持っているのとは別の。
ただ、わたくしが持っていることは秘密にしておいて欲しいと言われていまして」
「アレック・ガルム様から?」
「ええ。なので、あなたも黙っていていただけますか? お父様のお願いですから」
「まあ♪
はい、黙っておきます。アレック・ガルム様のお願い♪ 当然です」
……多分、これで大丈夫でしょう。気分的には微妙ですけど。
チェターラは、ポーチから父親のノートを取りだした。一緒に、手前にあった母親の手帳も取り出した。母親の日記は今は見る必要はなかったので、すぐ近くにあった机の上に一旦置いた。
父親のノートを開くと、言葉を探して、言った。
「(ありがとうございます)」
少年は、きょとんとした顔をした。
チェターラはさらに言葉を探して、続けた。
「(昨日)(あなたが)(助けてくれて)」
言葉が通じているでしょうか?
チェターラがどきどきしていると、少年は意味を理解してくれたらしく、はにかんで頷いた。別世界の言葉で何か言ったのは、おそらく、どういたしましてとか、気にしないでとか、そういう意味の言葉だろう。
とにかく、言葉を伝えられました!
嬉しくなって、チェターラは微笑んだ。
少年は、少し恥ずかしそうに微笑を返してくれた。
それからチェターラは父親のノートをめくって、自己紹介のための言葉を探した。
「(わたくしの)(名前)、チェターラ」
「チェターラ?」
少年が指さして聞き返してきたので、チェターラは頷いた。
「ええ、そうです」名前を呼んでもらえたことに嬉しくなって、思わず普段使っている言葉で答えてから、また手書きの辞書を開いて、肯定の言葉を探した。「(ええ)」
少年が何か言った。名前、という単語が入っていたのと、表情から察するに、おそらく、いい名前だねとか、素敵な名前だねとか、そういうことを言ってくれたらしかった。
さらに嬉しくなって、チェターラはノートから言葉を探して答えた。
「(名前)(お父様が)(つけてくださった)。
(お父様が)(お母様と)(出会った)(森の名前)(から)」
「(父親)……」と、少年。
「(あなたも)(昨日)(会った)。
(オークの)、アレック・ガルム」
そのとき。
少し後ろで二人の会話を見守っていたローリエが、二人よりも先にそれに気づいた。
初めは、チェターラが自分の名前を名乗ったとき。
チェターラが傍の机の上に置いていた手帳が、ひとりでに、風も無いのに、開いた。
?
見ていると、その後、チェターラが言葉を探して少年と会話をする間、その単語にときどき反応するように、まるでページを探すように、手帳のページがめくれた。
そして、チェターラが父親の名前を呼んだところで、開くべきページが決まったようだった。
大きくページが開いた。
「あら。光り始めました?」
「え?」
チェターラは、ローリエの言葉に振り向いた。
手帳のページから放たれる光は、急速に、視界を白く埋めるほどに強くなった。チェターラと少年は驚いて離れようとしたが、そんな一瞬で、もう全部が光に覆われていた。
「な、なんですか、これ!?」
三人は思わず、目を閉じた。
……気がつくと。
植物の強いにおいがした。
光が収まったようなので目を開くと、そこはどう見ても、つい直前までいた来訪者の館の中ではなかった。屋内ですらなかった。
時刻も違う。
夜の、暗い森。
近くには、少し開けた場所に設営された焚き火の明かり。周囲には野営のテント。
焚き火の光が届く範囲、チェターラの向かい側に、一人の女性がいた。
彼女と目が合った。彼女からしてもこちらは急に現れたらしく、驚いた顔をしていた。
女性は、騎士の格好。
手には、ペンと、つい今し方まで文字を書いていたらしい手帳を持っていた。
その手帳は。
つい一瞬前、来訪者の館の部屋で光を発していた手帳と同じもののように見えた。
母親の、日記。




