辞書と兄弟
20、
まだ残る魔法陣の煙のにおいや、隣にいるエドガーのタバコのにおいや、そういったにおいが気になるのか、エドマンドはやはり鼻にハンカチを当てていた。
エドマンドが気にするにおいの中に自分のにおいも含まれているような、そんな気がして、チェターラは、なんとなく微妙に距離を引いた。
エドマンドは、チェターラのことなど気にした様子もなく。
別世界から来た少年を見て、言った。
「君。言葉は、しゃべれるか?」
少年は、何を言われたのか分からないらしく、戸惑った顔をしていた。
しばらくして、自分の言葉が待たれているということを理解したらしく、異国の言葉で何か言った。
「▽××○◇……」
すると、エドマンドの隣にいたエドガーが顔をしかめた。
「おい、どういうことだ?
今までの奴らは普通に俺らと同じ言葉をしゃべってたじゃねえか。
なんで、こいつは俺らに分からねえ言葉をしゃべってる?
それに……」
エドガーは、じろじろと少年の格好を見た。特に、少年が拾って持ってきていた銃に、注意深く目を向けた。
「服も着てるし、物を持ってきてんな。
素っ裸で何も無しに召喚されていたこれまでとは違う」
「今までの召喚の儀式とは違う、ということだろう。
自分は報告を受けて駆けつけただけだからよくは知らないが、儀式を邪魔したというゴブリンが何かしたのかもしれないな」
エドマンドはそう言うと、懐から、一冊の書物を取り出した。
うさんくさそうに、エドガーがそれを見た。
「おい、てめえ。そいつはなんだ」
「来訪者のアオイ殿から個人的に譲り受けていたものだよ。
辞書だ」
「辞書?」
「そう。
考えてみれば、別世界の人間が自分たちと同じ言葉をしゃべっていたことのほうが不思議だったと思わないか?
本来は、彼ら独自の言葉をしゃべるほうが自然であると、そう思わないか?」
「……確かに、アオイ殿とそのような話をしたことがあります」
と、エドガーの後ろに控えていた魔術師クレテックが言った。
「それも、召喚の儀式の仕組みに関係することなのですが。
これまでの召喚では、死んだ人間の体がそのままこちらの世界に来ているのではないという結論に達しておりました。元の世界で死んだ際、その体は元の世界に残しており、こちらの世界に召喚された後の体は、あくまで元の肉体情報をこちらの物質で再構成した仮の体だと。
そして、頭蓋の中にある脳まで再構成されるその際に。
どうやら本来の言語ではなくこちらの世界の言語をしゃべるように変換されているようだと。……これもあるいは、わしの父が召喚の儀式を構築した際に、はっきりと意図して仕込んだ仕組みかもしれませぬが」
「ちぇっ、ややこしい仕組みの話なんざ、今はどうでもいいぜ。
要はあれか、この召喚じゃ、その頭ん中の変換とやらは働かなかったってわけか。
服も持ち物もそのまんま持ってきた代わりに、頭ん中もそのままだと」と、エドガー。
「そう。
そして、そのようなときのため、念のために。本来は忘れられていたはずの元の世界の言葉をアオイ殿に思い出してもらって記録したのが、この辞書だ」
エドマンドが辞書を開いて少年に言葉をかけると、少年は、警戒する様子を見せながらも確かに言葉を返した。
辞書を見て単語を調べながら少し会話をした後、エドマンドは会話を一時中断し、エドガーと周囲に向けて言った。
「やはり、この少年は元の世界の言語をそのまましゃべっているようだ。
この辞書があれば、会話が可能だ」
エドガーはうさんくさそうに弟を見ていたが、言った。
「で。何が言いてえんだ? わざわざそんな辞書を準備良く持ってこの場に現れた我が弟エドマンド」
「何が、とはなんだい? 疑り深い顔をした我が兄エドガー」
「うるせえ。さっさと言いたいことを言え」
「簡単なことだよ。
少年の言葉が分かるのは、この辞書をアオイ殿から譲り受けた自分だけだ。だから、今まで行っていた来訪者の知識を聞き出して記す仕事は、これからは自分の管轄下で行おう。少年の身柄も自分の管理下に置く。
……ああ、言っておくが、今ある辞書は自分が手に持っているこの一つだけだ。
アオイ殿は、ついさっきいなくなったと報告が来ている。
だから、新しい辞書を作るにはこの辞書を写すしかない。別世界の知識を知るための鍵となる重要書類だから、みだりに写本を作る予定はないが」
ついさっき、いなくなった。
チェターラは、午前中に話したばかりのアオイのことを思い出した。来訪者は一年ほどでこの世界からいなくなると、彼女は言っていた。
そして、自分はそろそろだと。
そのときがちょうど、ついさっきだった、ということだろう。
そしてもう一つ、チェターラは気になった。
エドマンド王子は、少年の言葉が分かるのは辞書を持っている自分だけだと思っているようだ。
だが。
チェターラの父親のアレック・ガルムは、先ほど、少年と会話していた。
アレック・ガルムは別世界からの来訪者と個人的にいろいろ話す機会もあったようだから、貪欲な知識欲に任せて、その間に学んだのだろうか。そういうことだろう。そして、エドマンド王子はそれには気づいていないようだ。
チェターラが父親を見ると、アレック・ガルムは組んでいた腕の先、エドマンドには見えない位置で指を一本立てて見せた。黙っておくようにという指示だと分かったので、チェターラは黙っておくことにした。
「……ちぇっ」
と、くわえタバコのエドガーが舌打ちした。
「確かに、俺にはそのガキの言葉を知る手段がねえ。お手上げだ。
力づくで辞書をぶんどるようなタイミングでもねえしな。
まあいいさ。ここは負けにしておいてやる。譲ってやるさ」
「何を言っているか分からないね。勝ち負けなど、ここにはないはずだ」
「ちぇっ、言ってろ。
……聞き出した別世界の情報は、ちゃんと俺にも回してくれるんだろうな? もっとも、てめえが教えたくねえ情報は簡単には回ってこないだろうが」
「我が兄に秘密にするような情報がそう多いとは思わないが、そういうこともあるかもしれないね」
エドガーは肩をすくめた。
エドマンドもこれ見よがしに肩をすくめて返すと、連れてきていた兵士に言った。
「この来訪者の少年を、来訪者の館に連れて行く」
それから少年に、おそらくは「ついてこい」といったような言葉を伝え、兵士と少年を連れて外に出て行った。
チェターラたちは、それを見送った。
少年が最後にこちらを振り返ってくれたりはしないでしょうか、と、チェターラは思ったが、少年は新しい場所に来てあまり余裕もないらしく、チェターラのほうを見ることもなく、不安そうに、連れられていった。
これが、チェターラが最初に城に来た日の出来事。
冒険や騒動に連続して巻き込まれることになる数日の、最初の日の出来事。




