チェターラと少年
18、
たぶん、一瞬の出来事であったのだろうけれど。
父親の背中から遠ざかる一瞬を、永遠のように感じた。
伸ばした手が、スローモーションで遠くなって。
景色がぐるりと回って、霧に覆われた空が目の前を横切って。
衝撃があって、視界が閉じた。
地面に背中から叩きつけられたのだと、そう気づいたのは、一瞬の後。
痛みで思わず目を閉じたのだと、そう気づいたのは、一瞬の後。
「お父様……」
痛みで、体をどこも動かせなくて。
意識を保つことも出来なかったので、ただ唇を動かして父親を呼んで。
そこで、意識が途切れた。
……たぶん、一瞬の出来事であったはずだが。
少年は、目を覚まして、身じろぎをした後、まだぼんやりとした意識で、それを見ていた。
戦車の進行方向に倒れていた少年。
兵士の姿格好をした少年。
少年の目の前で、戦車との間に、少女が落ちてきた。少女は地面に背中から落ちた後、動かなかった。
戦車の上には、緑灰色の肌の、巨躯の怪物がいた。このときは意識が朦朧としていたので、幻覚かと思った。ただ、アニメやライトノベルの挿絵に出てくるファンタジーの怪物のようだと思った。
猪のような顔の怪物は、慌てた様子で何か叫んでいた。戦車の前に落ちた少女に、呼びかけたようだ。
戦車は、怪物が乗る上部砲塔を狂ったように回転させていた。そのせいで、怪物は自分の体勢を維持するのに精一杯だったようだ。そのまま、戦車は急発進した。覆帯がアスファルトの地面を削る音が、急速に迫った。
少年のいる場所に。
そして。
小さく、何かをつぶやいた少女のいる場所に。つぶやく声は少年には聞き取れなかったが、少女は父親を呼んでいた。
少年の意識は、急速に覚醒した。
逃げなきゃ。
死ぬ。
だが、再度、目の前の少女に目がいった。
迫る戦車の進路上。少年より戦車に近い位置に倒れたままの少女。
思わず、体が動いた。地面に倒れた少女へと駆け寄り、両手で抱き上げた。
無我夢中だったので、少女の体から香る強い香水のにおいにも、気づかなかった。
少年は、年は十五。
兵士になったのは、三年前。そのさらに数年前から、少年の国は戦争の中にあった。
戦争が始まる前のことは、もう遠い記憶の中にしかない。まだ母親が生きていた頃。父親がいなかった少年が、母親と二人で暮らしていた頃。
その頃までは、少年の国は平和な国だったと記憶している。本当はその頃から戦争の火種はあったのだろうが、少なくとも、子供の目には、平和な国だった。今思い出せば、夢のように。
娯楽産業が盛んで、アニメやコミックやゲームで皆が楽しんでいた国。
楽しいファンタジーを舞台にしたライトノベルが流行していた国。
少年が兵士になる頃には生産が止まって高値で取り引きされるようになっていたそれらの娯楽品を横目に、もう閉鎖された小説投稿サイトのライトノベルをアンダーグラウンドな端末で掘り起こして読んで、思った。
なぜ、そのまま、楽しいファンタジーのような平和な国のままでいられなかったのだろう。
だが。
それはもう過去だ。
少年の今は、少年が銃を持つような世界だった。無人の戦車、人間狩猟機が、かつては栄えていた街を闊歩し、人々は、それにあらがって辛うじて生き残っている。
いったい今、どこの国と戦争していて、人を襲う無人の戦車はどこの国のものなのか。それすらも、もう分からなくなっていた。
それが、少年の今だった。
少年が、死んだはずの今だった。
一瞬の後。
轟音がして。
戦車は、少女を抱えた少年のすぐ横を間一髪通り過ぎ、その先の建物の残骸にぶつかって、止まった。
……誰かに、抱えられた感触。
父親以外の誰かに抱えられている感触があって、チェターラは意識を取り戻した。
意識を失う前に感じていた痛みは、体のあちこちにまだあった。でも、それは我慢できた。
わたくしは、お父様の娘ですから。泣きたいぐらい痛いですけど、泣かずに目を開けましょう。大丈夫です。開けられます。
すると。
え?
目の前には、少年の顔。
やせた少年。
頼もしいお父様と比べると、まるで、ひ弱な子犬のよう。と、チェターラは思った。
けれど。
この少年が。
この、一見、頼りなさそうな少年が。
わたくしを、身を呈して助けてくれたと、そういうことなのでしょうか?
そう思うと、胸がドキドキした。
じっと見ていると、少年の目が、こちらを向いた。
綺麗な瞳。土と煤で汚れた顔の中で、それでも黒く輝く宝石のような。
ああ、わたくしは、今。
未来の恋人を見つけたのではないでしょうか。
夢見るように陶酔しながら、そう思った。
の、だが。
見つめ合っていると、少年の鼻が、むずむず、ひくひくと、動いた。
?
えっと?
その、今は、わたくしとあなたが見つめ合っている素敵な瞬間で、ちょっと、その動きはよく分からないのですけど!?
内心でそう思ったチェターラの前で、少年は何かをこらえるように、顔をしかめた。慌てた様子で、慌ただしくチェターラを地面に降ろしながら、横を向いた。
直後。
「ブァ、ブァ……ブァックシュ! グシュッ、クシュッ、ハッ、ハッ、ハックシュ! グシュッ! ハックション! ……」
え?
少年は、くしゃみが止まらない様子だった。くしゃみで体を折り曲げながら、急いでチェターラから離れた。
チェターラは、思わず駆け寄ろうした。すると少年は涙目で、鼻水でぐしゅぐしゅになった鼻を片手で抑えながら、慌てた様子で、もう片方の手で、近づかないようにチェターラを制止した。
「▽□×◇◇……!」
少年の言葉はよく分からなかったが、直感的に、分かった。
においがダメだと、言っている。
わたくしの、においが。
え。
ええええええ!?
先ほどまでの恋の高鳴りから一転して、愕然として。
思わず、涙が出てきた。