四日目1
寝覚めは最悪だった。
昨日は夜遅くまで漫画を読んでしまったのだ。
欠伸をしながら食卓へ着く、キッチンには見知らぬ女性が立っていた。
後ろ姿なのだが、フロシュエルが見つめていると、おはよう。と声を掛けて来る。
半ば反射的におはようございますと返す。
席に着いていなさいと言われ、思わず言われた通りにすると、寝ぼけ眼の小影がやって来た。
学生服を着ているのだが、幾分着崩れている。
「かあさんおはよ~」
どうやらキッチンで作業中の女性は母親らしい。
小影は彼女のもとへ向うと、食事を受け取りフロシュエルの前に置く。
促されて食事を始めるフロシュエル。小影の母の後ろ姿以外を見ることなく、フロシュエルは食事を終えて外出した。
最初に向うのは小出さん家である。
チャイムを押して、とりあえず泣き真似をしてみる。
このくらいであれば嘘をついた罪にはならないようだ。
フロシュエルはソレを確認しながら続ける。しかし、やはり反応はないようだ。
しばらくフロシュエルを見つめていた気配は、直ぐに消え去ってしまった。
数分後、泣き疲れたフロシュエルは溜息一つ。
小出さんを何とかするにはまだ発想力が足りなさすぎる。
諦めも肝心だと次のバロックさん向けて踵を返すのだった。
バロックさん対策はインターホンを押してすぐに空へと舞い上がり屋上で待機する。
ここまでは前回と一緒だ。
今回の訪問は、とりあえず捨てることにした。
まずは今の自分の実力と相手の差を明確に知ることから始める。
バロックさんは単純に走力の差である。
フロシュエルの頑張り次第で追い付ける存在なのだ。
ただ、これから約二ヶ月しかない短期間で脚力をどれ程鍛えられるかは不明。
その不明な鍛錬方法を編み出すためにも、現状の実力差を知っておくことには意味があった。
バロックさんが今回脱出したのは勝手口だった。
空から急襲することはなく、フロシュエルは飛び降りて即座に駆け出す。
とにかく今回はひたすら走って追い付けるかを調べる。
けれど、速い。
想像を越える程の脚力に一気に離されて行くのが理解できた。
バロックさんは自力で捕まえたい。でも、やはり今の自分ではどうしようもない。
悔しかった。けど、けれども。なぜだろう?
昨日までと違う自分がいることに、フロシュエルは立ち止まり心臓に手を当てる。
受肉した身体は鼓動を高鳴らせ、走った後の息苦しさをフロシュエルに伝えている。
それが、妙に心地いい。身体が熱い。
かつてないほど身体の奥底に何かが燃えている気がしている。
勝てないけど、このままじゃ終われない。
そう叫ぶような何かが身体の奥に生まれていた。
見失ったバロックさんは今回諦め、フロシュエルは井手口さんの家へと向った。
ごくり。と息を飲んでチャイムを押す。
そして即座に敷地からでて塀に隠れて様子を窺った。
夫さんがでてくるならばそのまま返してもらえばいい。タイミングや運も実力のうちだ。
でも、無理らしい。
出て来たのは奥さんの方だった。
憤怒に彩られた顔で現れた奥さんは魔神も裸足で逃げ出しそうな顔で周囲を探る。
アレと闘うのは無理だ。
どんなにバロックさん相手に決意しても、ここに来れば完全に消火されて沈静してしまう。
フロシュエルは悪鬼の如く真っ赤になった奥さんを端から見つめ、ただ只管にドアの奥へと引っ込んで行くのを待つしかなかった。
「泥棒猫め、どこいった!?」
ダメだ。勝てる気がしない。
本当に、二ヶ月以内にアレをどうにかできるのだろうか?
いや、そうじゃない。どうにかしなきゃならないのだ。
天使になれば任務ができる。
任務で敵と闘うことだってある。
敵はただ雑魚な悪魔だけじゃない。
魔族や魔王、果ては魔神なんて存在すらも闘わねばならず、その闘いを生き抜かなければならない。
無数の敵。その中に、自分より強い相手が存在しないはずもない。
その点でいえば、フロシュエルにとって目の前の井手口さんは圧倒的強者。
彼女をどうにかしなければならない。自分の持てる力で、天使の力も使わずに。
覚悟を決めよう。目標を作ろう。今はまだ、直ぐに確実に勝たなければならないわけじゃない。
訓練なのだ。今は彼女を何とかするための技量と実力を付けることだけを考える。
ならばどうする? 自分で色々と考えてみるのもいい。
小影の言っていた協力者を探してもいい。
でも、まずは情報が必要だ。自分を強くするには何が必要で、何をすれば強くなれるのか。
今までが無頓着すぎたのだ。
「よしっ。いろいろと頑張ってみましょう。……明日から」
しかし、結局彼女の思考は楽天的。今から始めるではなく明日、晴れたら運動しよう。気が向いたら勉強しよう。その程度のモノでしかない事を、彼女自身は気付いていなかった。
そして、その甘えた感情すらも、バッサリと切り捨てられることになるなど、この時のフロシュエルは、全く思いもしていなかった。




