試験の試験6
本日二話目
第一日目なのだ。せめて最後の一人だけでも借金を回収しておかないと、小影に合わせる顔が無い。と、決意を新たにやって来たのは、清水さんの家だった。
小影の言葉ではここを通り抜けなければ野中さんのいる洋館には辿りつけないらしい。
そしてここ以外を通って野中さんの洋館に向ってはいけないのだ。
庭を通る許可は得ているので、フロシュエルは敷地内に入り庭側へと回る。
曲がり角を曲がった瞬間、そいつと目が合った。
「け、健太……さん?」
そいつは獰猛な瞳で睨みつけていた。
そいつは鋭い牙で威嚇していた。
そいつは棘の付いた首輪をつけていた。
寝そべっていた大きな身体を起こし、やってきた憐れな闖入者に対峙する。
「ケルベロス形態でないのは幸いですが……」
清水さん宅で飼われている愛犬、健太君だ。ケルベロスであるが、今は普通の犬のように振る舞まっているらしい。
ドーベルマンという犬種で、番犬として優秀な犬種である。
「えーっと、あのー、そのー。通して……くれませんか?」
当然ながら、犬語の喋れないフロシュエルの言葉は、彼には届かなかった。
グルルルルと唸りを上げて、フロシュエル目掛け飛びかかる。
「ひぃっ!?」
とっさに身を縮みこませて身を守るが、健太がフロシュエルに危害を及ぼすことは無かった。
犬の首輪はしっかりとした鎖に繋がれ、鎖は楔によって地面に固定されていた。
ビィンと張った鎖のおかげで、健太がフロシュエルの元へと届くことは無く、十分に庭を通り抜けるスペースが存在していた。
「よ、よかったーーーー」
心底安堵したようにフロシュエルは犬の射程範囲外を通って向かいの壁へと移動する。
どうやらここでは度胸を試めされるらしい。
小影の用意した試練の意味がようやくわかって来たような気がするフロシュエルだった。
犬が吠える。大きな声に届かないとはわかっていながらも身を竦ませるフロシュエル。
ここには留まりたく無いと、壁に手をかけ自分の体を持ち上げる。
片足を塀の上に乗せ、ようやく身の半分を乗りだした時だった。
先程まで聞こえていた吠え声が聞こえなくなっていることに気付き、なんとはなしに健太に視線を向ける。
楔を引き抜いたばかりの健太と目が合った。
「い、いやあぁぁぁぁぁぁっ!?」
慌てて身体を塀の反対側に落とす。が、一瞬早く健太が噛みついた。
靴に噛みついた健太が離れることは無く、フローシュは片足が塀に引っかかった状態でプランプランと揺れていた。
「は、離して下さ――――痛っ!?」
手を伸ばしてなんとか健太を引き離そうとしたフロシュエルだったが、それより先に靴が脱げた。
支えを失ったフロシュエルはそのまま塀の外に落ち、片方の靴だけが清水さんの庭に残ってしまった。それでも、窮地を脱した事だけは確かだ。
「た、助かった……」
確かに助かった。しかし、受肉の際、先輩天使に貰った大切な靴を置いて来てしまったのだ。
取りに行くにも犬がいるのではどうにもならない。
残念な思いに駆られながらも、明日取りにくれば大丈夫と自分に言い聞かせ、フロシュエルは最後の関門、小高い丘の上に立つ洋館へと向かうのだった。
「こんにちわー」
洋館に辿りつくと、玄関横に一人のおじさんが立っていた。
フロシュエルは一先ず挨拶をしてみる。
おじさんはやぁと手を上げると、フロシュエルに自分から近寄って来た。
「話は聞いてるよ。小影さんの代理だね」
「はい。フロシュエル……フローシュです」
「さっそく借りた金を返したいんだけど……」
と、曇った顔をした。
今までの経験からまた返すのを渋られるのかと覚悟したフロシュエルだったが、どうやらこの人は返すつもりはあるらしい。しかし、口ぶりからするとまた厄介なことがありそうだ。
と、フロシュエルは身構える。
「実はこの家が欲しくてお金を借りてね。返す当ても出来たんだけど、二十万入りの財布をこの家の中に置いて来てしまったんだよ」
「……はぁ」
「お金自体はちゃんと揃ってるから勝手に持って行ってくれていいよ」
「え? いいんですか?」
「ああ。辿りつけたらね」
「わかりました。じゃあ、入らせていただきますね」
なんとなく野中さんの言葉に含みを感じたフロシュエルだったが、彼の言葉を信じ洋館の中へと入っていった。
洋館の扉はとても大きく、取っ手には獅子の顔のブロンズがあり、それにブロンズの輪っかが付いていた。これを引きながら洋館の中を覗くと光の全く差し込んでいない薄暗い館内が現れる。
あまり入りたくないなと思いながらも、フロシュエルは意を決して扉をくぐる。
入口から光の差し込んだ室内は大きなロビーだった。
目の前には赤いじゅうたんが敷かれ、中央の大きな階段を越えて二階に向かっている。
両側の壁には青銅の鎧が二体づつ設置され、蝋燭用の燭台が鎧の少し上の辺りについていた。
「はぁー、すごい家ですね」
思わず感嘆を漏らしたフロシュエルの視界が、なぜか少しずつ狭まっていた。
あれ? っと思う間もなく後ろの扉が音を立てて閉まる。
「え? え? 何? 何なの!?」
突然塞がれた視界に、困惑するフロシュエル。
さらに周囲から謎の怪音が聞こえ出す。
まるで金属の擦れるような音が左右から聞こえ、近づいて来ていた。
「あ、う……嫌、もう嫌っ、出して、出して下さいっ」
恐怖に負けて、フロシュエルは閉まった扉を力いっぱい叩く。叩き続ける。
しかし、扉が開く気配も野中さんがやってくる気配もなかった。
どんどん近付く金属音に、もはやパニックを起こしたフロシュエルは、泣きながらドアを叩き続ける。
何も見えない場所で、謎の音だけがゆっくりと近づいてくる恐怖に、フロシュエルはもう、何も考えることがきでなかった。
そのうち、冷たい何かが肩に置かれた……
「にぎゃあああああああああああああああああっ!?」
もう、限界だった。背後の何かを振り切りとにかく走り出す。
周囲は全く見えないが、もう何の考えも無くフロシュエルは走りまわる。
走って走って走って……ガコンと聞こえた瞬間、足元の感覚が消えた。
浮遊から一転、まるでジェットコースターに乗ったように身体が急激に加速して落ちていく。途中で背中に壁が当り、そこから先は壁に沿って滑っているようだった。
混迷するフロシュエルの進行方向に、光が生まれる。
あっと思った瞬間、光の穴に飛び込んでいた。
外だ。っと認識した時にはもう、床も壁もなくなっていて、真下の貯水池にザブンと飛び込んでいた後だった。
「ぶはっ!?」
必死にもがいて岸にたどり着く。
池から脱出してようやく一息ついた。
助かった。生還したのだ。あの恐ろしい洋館から、自分は生きて帰ることができた。そのことが嬉しくて、言われた試験の一つもこなせないことが切なくて、涙がこぼれた。
自分の実力を思い知らされたようで、世界の凶悪さを見せられたようで、悔しくて、切なくて、こんな辛い思いしてまで天使に自分はなりたいのかと、後悔だけが押し寄せて……
それでも、消滅だけは嫌だと動きだす。
「あーあー、ずぶ濡れになっちゃったね」
不意に、視界の前に足が現れた。
誰かと思って見上げると、目の前に小影がいた。
「あ……」
小影はフロシュエルが顔を上げると、手を差し出してくる。
「ほら、帰ろっかフローシュ」
「う……うぅ……こがげさぁんっ」
「ちょ、まっ……」
小影の手を掴んだフロシュエルは、そのまま立ち上がる勢いで小影に飛び付き泣きだした。
困った顔の小影は、差し出していた手をフロシュエルの頭に持っていき、泣きやむまで撫でることにした。
こうして、フロシュエルの試験の試験、一日目は散々な終りを遂げたのだった。