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春の軽やかな空気を感じながら、その正反対に私の心は重く沈んでいた。座標軸、x、y。そんな受験のためだけに身に付けた知識はここでは役に立たない。わずか三日で暇を出されたイタリアンレストランの厨房。潰れてしまえ。三日分の給料の入った封筒を握りしめながら思う。ああもう、いやだ。何もかもが嫌だ。それなのに正体不明の焦燥感だけはいつでもどこでも私に迫ってくる。ああもう、いやだ。逃げ出したい。帰りたい。どこに?
大学受験に失敗して一浪した私は、今年こそ無事にこの小さな港町にやってきた。地方、田舎、公立大学。宅浪と称して予備校にも行かずに、昨年よりも下がった偏差値でもぎとった結果としては順当だろう。入学して早々、失敗したとは思ったけれども。
文学部の講義は全く面白くなかった。くずし字なんて、そんなものに興味は持てそうにない。何のために文学部に入ったのか。本を読むのが好きだからだ。ただそれだけでは、論文なんて書けやしない。卒業できる気がしない。絶望だ。かつて田舎の進学校で、そこそこの成績は保っていたのに、大学の講義に着いていけない日が来るとは想定の範囲外というやつです。先生の声は耳を通り抜けていく。動詞の不規則変化になんざ、興味はない。唯一好きなのはフランス語の講義くらいである。
さらに昼休みなんて最悪である。やたらめったら女子の多い学部であるが、みんなで教室移動にみんなでトイレにみんなでお昼ご飯。お昼ご飯の話題なんて講義以上に耳に入ってこない。一人じゃないだけましなのかもしれないが、これは一人の方がましなのではないだろうか。
そんな雑音にさらされた生活であるがゆえ、世界を広げようと人生初のアルバイトに挑むも三日で解雇という惨敗っぷりだ。ああもう、いやだ。気分が悪い。吐きそう。歩道にしゃがみこむ。ベージュを基調とした綺麗な歩道。ここに私の吐瀉物が散らかされるのか。ああ、辛い。この灰色のダッフルコートはお気に入りなので汚れないことを祈ろう。
「大丈夫?」
若い男の声がする。かすれた、ざらざらした声である。
「大丈夫じゃないです」
隣に男がしゃがみこむ気配がした。
「うっわ、ほんとうに顔色悪い」
金髪の整った顔をした男だった。しかし、眉のいじり具合と服装から察するにホストである。なぜこんな田舎にホストがいるのか。
「おいで」
彼は私の腕をそっと引き、絶妙な力加減で立たせてくれた。
「ありがとう、ございます」
「ええよええよ」
そして連れていかれた先は、病院でもなく怪しげな店でもなく、交番だった。なぜ、交番なのか。
「おまわりさーん、この子、気分悪いんやてー」
「は?で?救急車も呼ばんと俺のとこに来る意味が分からんわ」
スパーンと小気味のいい音を立てながら彼のワックスで固められた頭が叩かれる。それから警察官は私の顔を見て心配そうに尋ねる。
「気分悪いんやね。どう?救急車呼ぶ?」
「いえ、大丈夫です。吐き気がするだけですから」
「よくあんの?」
「はい、たまに」
じゃあちょっとこっちで横になってなさいと警察官は奥を指差す。いえ、大丈夫ですと言葉にする前にホスト風の男に手を引かれて奥に連れていかれて、気が付いたら私はベッドで横になっていた。枕元には洗面器まで用意されている。
「俺、ここおるけえ、だいじょうぶやよ」
そう言って、彼は私の手を握ると笑った。私はなぜだか突然安心してそのまま眠りについた。