星空ノ永遠
“ニュースをお伝えします。三日前より特集としてお伝えしてきたフート彗星の観測可能期間が今日で最後になりました。フート彗星とは……”
無機質な蛍光灯の灯る狭いアパートの一室。木製の小さな丸いちゃぶ台に手を添え僕はテレビのニュースを眺めていた。
「へぇ、フート彗星…か。」
ここ三日間はこの彗星の話題でテレビを始めとするメディアは大騒ぎだ。詳しくはニュースなどで特集として伝えられているが特に興味も無いので真剣には聴いていない。
それでも唯一分かることと言ったら千年に一度三日間だけ観測が出来るといったところだった。
「まぁ凄いよな。」
狭い部屋の中一人呟いた。声はテレビの音と混ざり合い消え落ちる。
千年に一度、それもたったの三日間しか見ることの出来ない彗星。想像し切れない程の年月を経てやっと三日間だけ地球に現れることを許されるのだ。
考えてみると気が遠くなる感覚に襲われた。千年と言ったら人一人の生涯…否、二人も三人よりも長い年月だ。
つまり、この彗星を見られずして亡くなってゆく人も数多くいるということになる。千年の内たった三日間現れるという彗星を見るチャンスがある。見たくても見られなかった人々が大勢いたことが窺える。そう考えると急に見てみたい気分にはなってきた。強いて例えるなら宝くじに当選したのに引き換えに行かなかった感じだと思ったからだ。
外の様子を確かめようと横にある窓に目を向ける。開け放たれた硝子の扉からは深々とした密度の高い闇が広がり部屋の中にまで溢れ返りそうに見えた。全てを飲み込まんばかりの恐ろしい姿。部屋は灯りが付いているというのに何処か薄暗い。夜はそんなモノだ。
窓から視線を外し今度はテレビの上に置かれた小さな時計に目を向ける。
目の前の箱からは冴えない彩りをした明かりと共に質の悪い機械染みた人間の声が流れ出している。意識を向けてない為かそれらは遠くに在るような錯覚を起こした。只今の時刻は午後九時半。
再びテレビへと向き直る。
“さて、次は天気予報です…”
丁度特集が終わり普段通りの天気予報のコーナーへと入っていた。自分の暮らす地域の予報が気になり喰い入るように画面を見つめる。此処は今夜、明日共にどうやら晴天らしい。
すると、次に発せられたテレビの言葉が耳に届き頭の中に響き渡った。
“今夜はフート彗星の観測には絶好の天候ですね。”
フート彗星…
先程の話題を思い出す。千年に一度たった三日間しか地球に現れないという幻の星。
僕は小さな物事にでも反応し騒ぎ出す野次馬的なことが嫌いなタイプだった。だからこの彗星にも特に興味を示すこと無く過ごしていた。
だが、何となく今回の出来事には関心を抱いた。こんな自分でも時の壮大さ、彗星の貴重さに気圧されたのだろうか。
考えていた時窓から一陣の風が部屋へと吹いた。夜の冷気を纏わせたその風は夏の夜には心地良く感じた。再び時計へと目を向けた。
時刻は九時四十分を回っていた。
暇だし見に行ってみるか。
立ち上がると同時に後ろを振り返り、扉横のフックに掛けられた車の鍵へと手を伸ばし部屋を出た。
*
僕を乗せた青い軽自動車は広い国道を突き進んでいた。所々に立てられた外灯は暗鬱なオレンジ色の光を道路へと落としている。
彼処の山だったら綺麗に見えるだろうな。
少し町外れに位置するとある小さな山を想像していた。実家から近く幼い頃はよく川遊びなどを楽しんだものだった。夜は周りからの光が殆ど無い為、満天の星が輝いていた。
四年程前には彼女も連れて来たことがある。二人で星を眺め語り合った。
しかし、その彼女とは二年前に別れた。お互いの気持ちがすれ違い、結局結末を迎えることとなったのだ。あの時は僕が悪かったのだと反省している。仕事の忙しさに感けて彼女を蔑ろにしてしまったのだ。婚約した仲だったと言うのに――
嫌な事を思い出したな。
あれから五年ぶりに山を訪れる。仕事の忙しさもあったがほろ苦い恋の思い出も今まで足を運ばなかった理由の一つでもあった。
暫くの間思い出に浸っていると気が付いた時には国道を抜け、目的地の山を目前としていた。小さな道に差し掛かると外灯は無くなり車のライトだけが道を照らし出す唯一の道標となった。
山の断面は生い茂る緑に囲まれ、夜の闇にその輪郭を溶けさせていた。初めて来た人であれば近づくことを拒むであろう。此処に何度も訪れていた僕は何の躊躇いもせずに山道へと車を走らせた。
*
山の中に入ってから二十分が経過していた。
何か天候が怪しくなってきたな。
頂上の拓けた場所まで目指し車を走らせていた。道はコンクリートで整備されてはいるが老朽化が進行している為か所々に亀裂が入っている。大型車一台が辛うじて通ることの出来る幅の道路を軽自動車に乗る僕はゆとりを持って進んでいた。
だが、入って早々辺りは深い霧に包まれ進むこともままならない程視界が悪くなってしまった。
こんなに霧掛ったのは初めてじゃないのか?
何度も訪れた僕でも初めて見る山景色だった。霧の作り上げる“白い闇”に焦りを感じた。
一寸先は闇。ちょっと先の出来事も予知出来ないことの例えだという。
今の状況にまさにぴったりな言葉だ。フート彗星観測可能日は今日で最後。此処で引き返せば二度と目にすることは出来ない。
頂上まで行けば晴れているかもしれないな。
折角来たのだから見られずに帰りたくはない。小さな望みを胸に急な坂道を慎重に進んで行く。
それに後少しで頂上に辿り着く。
何となくの直感だった。
そして、この頼りない直観は見事的中する。
此処か…?
最初見た時は分からなかったが、それまで左右を覆っていた木々は無くなり四方八方只の深い霧に包まれていた。
晴れなかったか。
ハンドルから手を離し、ドアを開いた。車のライトが一直線に伸び先端が闇の中へと消えている。外へ出ると夏とは思えない冷たい空気が肌に纏わり付いた。
空を見上げてみるがやはり何も見えはしない。山の変わりやすい天候に少々苛立ちを感じた。
その刹那だった。
「何だ、あれ?」
前方、暗闇の中から突如として現れた一筋の儚い蒼い光。
誰かいるのだろうか。
そう考えたが、それにしては光が差し込む位置が高過ぎる。では、大きな灯台でも建ったのだろうか。でもこの山の頂上に建てても何ら利益があるとは思えない。
考えている内、謎の光は僕の方へと傾いてきた。舞台で煌びやかなスポットライトを浴びる感覚に似ているが、それにしては光はあまりにも弱々しかった。
迫り来る光に恐怖を覚えなかった僕は避けることなく受け入れる。蒼く温かな光。
僕を一時確認するよう照らすとふっと消えた。
訳が分からず立ち尽くしていると次の瞬間に今度は眩く美しい光が空から降り注いだ。
「なっ、何なんだ?」
強い光に耐えられず両腕で顔を隠し目を瞑った。何が起こっているのか理解出来なかった。
暫しの時が流れた。気が付き再び覆っていた両腕、閉じていた目をゆっくりと開いた。辺りは先程と同じ闇が広がっているばかりだと思った。
しかし僕の予想とは掛け離れた光景が其処には在った。
「……?」
それまで辺りを覆っていた深い霧は跡形も無く消え去っていた。弱々しい車のライトを頼りに狭い視野で世界を見ていたが、どうやらその必要は無くなったようだ。
晴れ渡った空には煌々とした細い三日月が地上へと月明かりを注いでいる。
少々遠くにある周りを取り囲む木々も薄っすらと映し出されている。現実の世界から夢の世界へと迷い込んだ気分だった。
そして、見上げた三日月の直ぐ真下。蒼く儚く光る小さな星々が集まる天体が見えた。
「これがフート彗星?」
僕の言葉に頷くように天体は瞬いた。
ふと――
「やっと逢えたね。」
突如、後ろから声を掛けられた。その声は、鈴のような高く綺麗な音色であった。
驚き即座に振り返ると身長が自分の胸元位までしかない華奢な女の子が立っていた。純白の布に身を包まれた彼女は深い蒼い瞳で僕を見つめる。黒々とした艶の良い長い髪が微風に揺れる。
人は彼女を見て“絶世の美少女”と謳うだろう。
「千年ぶりだね。ずっと待っていたんだよ?貴方が此処に来てくれるのを。」
突然現れた彼女に僕は驚きのあまり言葉を失くす。人がいる気配など全く感じられなかった。
だが、不思議と心に恐怖は生まれなかった。寧ろ遠くにいる好きな人と久しぶりに出会ったかのような愛おしさに似た感覚を覚えた。
「あー、そうだよね。吃驚しているのかな?私は貴方をずっと空から見守っていたけれど貴方は私のこと知らないよね。」
身動き一つ取らない僕に対し彼女は首を傾げてみせる。
いくら好印象を抱いたからと言って目の前で起こる出来事に安全を認識した訳ではない。突如として現れた美少女は何を話しているのかも理解出来ない。得体の知れない、特に“人でないモノ”の可能性だって十分にあるのだ。
宇宙人や幽霊はどちらかと言われれば僕は信じている方だった。もしかしたら殺されたり何処か遠くへ連れ攫われたりするかもしれない。
警戒しつつ勘付かれないよう変な行動を起こさないか僕は彼女を見張る。
「なのに貴方は一時期他の女の子を好きになっちゃって……凄くショックだったんだよ?」
彼女はそんな僕に気付いていないのか話を続ける。俯き気味に寂しそうな表情を浮かべる。外見に似合わない子供のような口調。
普通に出会っていたら僕もこんな可愛らしい無防備に見える女の子を警戒などしない。
彼女はどうしても“人”とは思えないのだ。
「でも別れちゃったみたいだね。全部見ているんだよ、本当に。あまり言いたくはないけどちょっぴり安心しちゃった。」
遠慮がちに頬を赤らめ嬉しそうな表情を浮かべる。何かが拍子抜けした感覚に襲われた。
「それは良いとしてね――」
彼女の声質が変わる。高く凛とした響きから急激に変化し、大人びた落ち着きのある低い声が発せられた。
「貴方は“永遠”を信じる?」
「えっ?」
真剣に、何処か不安げな色の顔で尋ねる彼女。
僕は問い掛けを一瞬理解出来ず、間の抜けた声を上げた。
「……えい…えん?」
「そう。」
一体此れを僕に聞いて何の得があるというのだろう。そう考えたが彼女の面持ちにはこの質問に相当な入れ込みがあるのだと予測させた。
僕は答える。
「僕は、その、人間だから実際には感じられないけれど――信じるよ。」
この言葉以外の答えがあるだろうか。彼女は必ず“イエス”と答えて欲しいと願っているのだと思った。
僕も実際信じている。ロマンチストと思われるのは正直嫌だが本当に、勿論あるとは断言出来ないが心の奥底で信じている。
目の前の美少女は再び遠慮がちに嬉しさの表情を見せる。
「本当?私も信じているよ。だって貴方にこれからもずっと“永遠”に逢えるって……信じているから。」
彼女は愛おしそうに僕の瞳を見つめ、頬に触れた。小さくて温かく、優しくて柔らかい指先。
瞬殺だった。
僕は彼女に心を奪われたのだ。
「前も此処で同じこと言ってくれたよね。貴方は覚えていないだろうけど、私ははっきりと覚えているよ。」
僕の瞳から視線を逸らすと遠くの空を眺めた。都会から離れ此処から見る星達は自身の持つ輝きを力一杯放っていた。
「そしてその前も、その前も、ずっと……ずっと――」
今度は空を愛おしげな瞳で見つめ始める。
僕はふと、気が付いた。
彼女の瞳の色がフート彗星の持つ輝きと同じことを。
「あっ、私もう帰らないと皆に怒られちゃう。じゃあまた貴方が此処へ来てくれるように魔法を掛けないとね。」
「…魔法?」
「そう!」
無邪気な子どものように微笑む彼女の言葉に僕は疑問を投げかける。
どうやら僕は魔法を掛けられるらしい。どんな方法なのだろうか。
「目、瞑って。」
「こう?」
言われるがまま恐る恐る目を閉じた。もう警戒心など全く無くなっていた。
“愛しい人”に出逢えたのだから。
瞬間に――――
唇に温かい柔らかな感触が伝わった。
僕は瞬時に其れが何であるかが分かり、思いっきり赤面した。
「じゃあね!」
そんな僕の様子にも全く動じず彼女は笑顔で手を振り、後ろを向いた。先程の強く蒼い光が辺り一面を覆った。
「まっ、待って!」
顔を両手で隠しながら必死に叫んだ。肩を掴もうと手を伸ばした。涙が溢れ出ていた。
だが、想いは届かずに光が消え去った瞬間彼女も何処かへと姿を消した。
空を見上げる。元から弱々しい光を放っていたフート彗星は僕と目が合うとゆっくりと消えて行った。
「うっ、くっ、どうして……」
溢れ出した涙は一向に収まらなかった。その場にへたれ込む。涙は頬を流れ続け止まる気配を見せない。
もう彼女に“今は”二度と逢えないのだと悟った。
もっと話をしたかった。
もっと彼女に触れたかった。
僕はあの時…彼女から頬を撫でられた時に好きになったのではない。
きっと、そう、絶対に
“生まれる前”からずっと好きだったのだ。
何故今まで気が付かなかったのだろう?
後悔だけが残った。
その瞬間に、周りの明るさが変わった。
我に返り、空を見上げた。其処には大量の流れ星が夜空を駆け巡っていた。目の周りの皮膚を赤く腫らした僕は只々その光景を見つめ続けた。
星達は、彼女は僕を慰めているかのように思えた。
今思うと僕が彗星を見たいと思ったことは“運命”だったのかもしれない
今思うと僕が二年前、彼女と別れたことは“運命”だったのかもしれない
今思うと僕があの日あの場所へ行ったことは“運命”だったのかもしれない
何にせよ僕はこれからも彼女と“永遠”の時を歩み続けるのだろう――