第十八話 追跡する怪物の前で時は止まる
廊下を駆け出した豊の後を怪物はほぼ同じ速度で追いかけてくる。振り向くと黒い全身の上腕は鳥の翼に似ているが、それ以外はヒトに近い形をしているようだ。
豊はいつの間にか普段の数倍のスピードで走っていたが、振り切れそうにはない。
「ユタカ!」
ケイアの叫びが後ろから聞こえる。
他の教室の生徒達が騒ぎを聞きつけて廊下に出てくる声がする。
「うわ、何だよあれ!」
「何で追いかけられてんの!?」
階段を駆け下り、一階へと辿りつく。さっと見回すと、広い中庭に通じる扉が見えた。
中庭に飛び出た瞬間、ふわっと体が浮き上がり、胸が詰まるような感覚に襲われた。
豊を追って中庭に出た怪物も一瞬足を止める。
「りゃあっ!」
その隙を逃さず、ケイアが怪物の背後から飛び蹴りを食らわし、怪物はよろめいて倒れた。
「行くぞ!」
「うん!」
豊とケイアは互いに駆け寄り、左手と左手を重ね合わせた。
閃光が走り、意識が溶け合うのを感じた。
体中に疼くような熱気を感じ、豊の体は赤く輝いていた。
ただ、中庭も怪物も先程までとほぼ変わらないように見える。どうやら普通のヒトより少し背が高い程度の大きさになっているようだ。
形もヒトとほぼ同じだが、厚い筋肉に包まれた全身は鱗に覆われ、長い尻尾が生えている。
怪物は甲高く鳴くと、前肢の鉤爪を広げ、襲い掛かってきた。
豊は軽く前傾すると怪物に拳を突き上げた。怪物は殴打を食らい数メートルは吹き飛ばされたが、直ぐに立ち上がり、豊に食らいついてくる。怪物の鋭い爪の先端が硬い鱗に傷をつける。
豊が怪物を振り解こうと腕を振るうと、怪物の体は校舎の窓ガラスに向かって勢いよく投げ飛ばされた。
ガラスが砕け散る音は、聞こえなかった。
(え?)
目を凝らすと、校舎全体が半透明の糸のようなものに覆われている。糸からは鋭いトゲが生えており、イバラの茂みか有刺鉄線によく似ていた。
校舎の壁から白い炎がゆらりと抜け出たと思うと、白い一角獣の姿に変わった。
「生徒達は皆『留めた』し、校舎は防護した」
(ウラヌス!)
辺りはしんと静まり返っており、ウラヌスの声と倒れた怪物の微かな呻き以外の音は聞こえない。
つい先程まで校舎の中は大変な騒ぎになりかけていたはずだ。
窓から校舎の中を見ると、生徒達は走っている姿のまま、窓を開けようとした姿のまま、戸惑い叫ぼうと口を開けた表情のままで凍りついたように動いていない。
(時が止まってる……?)
「君達以外の生物の時間を止めたって言うか、君達の時間だけ動かしている。でもこれはちょっと、いやかなりしんどいからなるべく早く済ませて欲しい!」
苦しそうなウラヌスの声に応えて豊が怪物にとどめを刺そうとした時、ギャイギャイと耳障りな声が響いた。
豊の周囲を黒い靄が包み、新たな怪物達が次々と現れた。
先程倒した怪物と同じくヒト型をしているが、全身は黒くてらてらと光る羽毛と鱗に覆われ、頭部からは乱れた長髪に似た羽毛が生えている。
その翼とも腕ともつかない鉤爪の生えた前肢をうごめかし、鳥に似た顔を覆う羽毛の奥から黄色く光る目で豊の様子を窺っている。
その時、豊の脳裏に凛とした声が響き渡った。
『貸してあげるわよ、私の三叉の矛!』
長い金髪を頭頂でくくり、華やかなブラウスとスカートを身に纏ったエコーが中庭に駆け込んできた。
(応!)
エコーの姿がかき消えると同時に、全身を青い光が包む。
光とともに全身の鱗が深い青に染まっていき、鱗も更に硬さを増したようだ。
続いて右手に冷気にも似た凄まじいエネルギーを感じたと思うと、豊は真珠色に光り輝く三叉の矛を手にしていた。
一つの体の中で、三人はときの声を上げた。
矛を振り回し、怪物の群れを薙ぎ倒していく。時に間合いをかいくぐられ鉤爪に襲われることもあったが、青い鱗には傷一つつかない。
残り数羽の怪物を残すのみとなった時だった。
突然、頭上から矢が雨のように降り注いだ。
とっさに頭を庇った腕に、激痛が走る。
四、五本の矢が鱗を破り両腕に突き刺さっていた。
屋上を見ると、翼を生やした新たな怪物の群れが、矢をつがえていた。
黒い怪物の群れの中で、金色の髪のヒトの姿をした一つの影が目を引いた。どうやらその者が指揮をとっているようだった。
地上で豊と戦っていた怪物達は、生き残っていた者までも矢に貫かれ息絶えている。
次の矢が放たれ、豊達が身構えたその時だった。
中庭の中央から淡緑色の靄が渦を巻くようにして出現した。
屋上の怪物の一団は一瞬うろたえたが、金髪の指揮官の指示に従い矢を射かけてくる。
その瞬間、靄は豊を守るかのように包み込みつむじ風となった。
淡緑色の旋風は防護壁となり、矢の雨を吹き飛ばす。
その圧倒的な威力に、豊は息を呑んだ。
やがて矢の雨は止んでいった。
攻撃が止むと共に、淡緑色の旋風は勢いを弱め徐々に靄となり、靄は更に光り輝く何かの姿に変わっていった。
一瞬の後、豊の目の前に立っていたのは一対の巨大な虫の翅を背中に生やしたヒトだった。
その姿はほのかに淡緑色の光を放ち、翅脈は脈打つように輝いている。
ほっそりとしたその体は男とも女ともつかず、目鼻立ちもぼんやりと霞んではっきりと見えないが、緑色に輝く瞳が笑っているような気がした。