第十五話 少女と少年は若干すれ違う(前編)
カリュブディスとの戦いから数日経ち、春休みに入った豊はバイトをしつつ、ケイアと穏やかな日々を過ごしていた。
人魚のエコーはと言うと、これまで通り海の近くの借家で独りで暮らす事を選んだ。
戦いを終えた豊達は豊の部屋で暮らさないかとエコーに申し出たが、彼女は拒んだのだった。
何故か問うと、エコーは微笑みながら言った。
「私は王女よ。いつでも海のそばにいたいの」
豊はケイアとの暮らしにもすっかり慣れてきて、家事の大半を交代でするようになった。
当初は食材や調理器具の違いに戸惑っていたケイアも豊のように味噌汁を作るようになり、豊もケイアの好みの味付けをした肉料理や魚料理を覚えてきた。
今日も豊が皿を洗っていると、電子音のメロディーが鳴った。
「ユタカ、携帯が鳴いているぞ」
「はーい」
何気なく携帯を取ると、発信者の表示は「慧」だった。
豊の姉の慧は、地方の放送局で働いており、常に多忙である。
両親を亡くした豊にとっては唯一の家族であり、慧も豊の保護者として優しく、時にかなり厳しく豊を見守っていた。
そんなことから、携帯を持つ豊の手は少し震えていた。
「姉ちゃん?」
「豊、最近全然電話出来なくてごめんねー、調子はどう?」
「元気にしてるよ」
「良かったー。それでね、出張の代休が取れたから、明後日豊の家に行こうと思うんだけど」
豊が恐れていた事態がとうとう起こってしまった。
頭の固い姉に、高校生の豊とケイアとの同居をどう説明しても分かって貰える訳がない。
「明後日は友達と旅行に行く予定になってて……ごめんね」
「そっか……じゃあまた今度行くから。体に気をつけるのよ」
「うん、ありがと」
通話を終えると、ケイアが尋ねてきた。
「ユタカ、旅行に行く予定があったのか?」
「いや、ないけど。姉ちゃんがここに来るって言うから、嘘ついたんだ」
「嘘、か」
ケイアは慧と同じ位道徳を重んじている。案の定嘘をついた理由を問いてくる。
「姉上殿に来て欲しくない理由は何なんだ?」
「それは……色々と面倒臭いから」
「何が面倒臭い?」
「その……ケイアと一緒に住んでることを説明するのがさ」
ケイアの表情が強張るのを見て、豊はしまったと思った。
慌てて少しおどけた口調で説明を試みる。
「姉ちゃんにしてみれば俺はまだ子供だから、ケイアみたいな女の子と一緒に暮らすのにはまだ早いと思ってるんだよ!反対されてケイアが追い出されちゃうかも知れないじゃん?」
ふむ、とケイアは少し考えているようだった。
「確かに、我らドラゴンも適齢期にない仔に言い寄る者がいたら、親はそやつを許さないだろうな。姉上殿に我がそのような不埒な者ではないと説明するのが難しいと言うことか」
「そう、その通りだよ」
意図を酌んで貰えて豊は安堵する。だが、ケイアは普段見せたことのない難しい表情をしていた。
二人で同じ布団に入るのにもすっかり慣れた。
バイトで疲れた豊が早くもうつらうつらし始めた時、いつもなら豊より先に静かに寝息を立て始めるはずのケイアが横を向いて話しかけてきた。
「ユタカ」
「どうしたの?」
「我の所為で姉上殿に会えなくて、すまないな」
「そんなことないよ、姉ちゃんならいつでも会えるし、気にしないで」
「そうか……」
豊はケイアにそれ以上何も言わないまま眠りに落ちていった。
目を覚ますと、豊は独りで布団の中にいた。既に傍らのケイアの温もりも残っていない。
ベランダで日光を浴びているのだろうと外を見やると、そこにもケイアの姿はなかった。
時計を見るといつもケイアに叩き起こされる時間を大分過ぎている。朝食を取る時間はなさそうだ。
バイトの仕度をして、出立しようとする。
「ケイアー、行ってきます」
いつもなら明るい返事が返ってくるところだが、応える声がしない。
「ケイア?」
狭い部屋の中をざっと見ても、ケイアの姿は何処にもない。
(何処か行ってるのかな)
独りで出かける時は必ず言ってくるケイアにしては珍しいなと思いながら、豊は扉を閉めて出発した。
豊のアパートから二駅離れた所にある水族館は、今日も盛況である。
これも父の友人の紹介で、長期休みにはここでチケットもぎりのアルバイトをしている。
開園時の混雑を少し過ぎた頃、ふと熱帯魚の泳ぐ巨大水槽を眺めるカップルに目が留まった。
豊とそう変わらないような年頃の少年と少女だ。
少女の腰まで届きそうな綺麗な長髪が揺れている。
でもケイアの方が美人だよな、などと思っていると背後から年配の夫婦から券売機について尋ねられ、豊の思考は仕事に切り替わった。
豊はすっかり疲れ果てて帰宅した。
ただいまぁと言いながら靴を脱ぎ捨て部屋に入ると、鎧姿のケイアが正座をしていた。
初めて出会った時と同じ服装で神妙な顔をしている。
「ど、どしたの?」
「ユタカ、我はいつまでもここに世話になっていてはいけないと思う」
「ふぇっ?」
突然の事に豊は狼狽した。
「え、昨日の姉ちゃんのことなら気にしないでって言ったでしょ?ここにいれば良いじゃん」
「そういう訳にもいかぬ!」
ケイアの語気の強さに豊はたじろいだ。
「ユタカと我は契約しているとは言え、これ以上ユタカに迷惑はかけられぬ。エコーのように独立して暮らしていこうと決めたのだ」
「め、迷惑なんかじゃないよ!」
「服を買いに行った時も、アキノと会うまでは困っていただろう?」
「でも……」
「ユタカには随分良くして貰った。だが我はもう、充分この地で生きていける……さらばだ」
そう言うと、ケイアは扉を開けて豊の部屋を出て行った。
「待って、待ってよケイア!」
暫し唖然としていた豊は慌ててケイアの後を追い、その腕を掴んだ。
振り返ったケイアの下半身がすらりとした少女の脚からドラゴンの逞しい四肢に変わり、豊を見下ろす高さになる。豊の腕は自然と振り解かれた。
「すまないな、『我が光』よ。だが、危機の時には必ず駆けつける」
ケイアは少し困ったように笑うと、走り去った。
豊は必死で走った。しかしドラゴンの力強い脚の速さには到底追い着けず、二人の距離は瞬く間に離れていった。
後姿さえ見えなくなった時、豊は膝から崩れ落ちた。