授かり契約を結んだ相手は人違いでした──予定になかった略奪溺愛
「うちの妻はとてもいい妻でね」
高級酒場で、夫は愛人を抱き寄せていた。
「都合がいいんだ、本当に!」
弾けたような下品な爆笑。
その『都合のいい妻』であるミモザは離れた席の一角で身を縮こまらせ、スカートを握りしめた。
夫ディックが愛人のために高級酒を頼んだ声が突き刺さり、場を盛り上げるための唱和が耳から入って頭の中でこだまする。
ここまでミモザを呼びつけた手紙の差出人、それが夫の愛人の名であることを知ってしまった。
愛人のお腹に、ディックとの子どもがいることまで──。
❦
三日後。
ミモザは決意に口を引き結び、とある貴族の庭園を訪れた。
薔薇園の迷路の奥、生垣に分断されたティーテーブルに座っている。
生垣には、郵便手配の受付のような手元だけ見える程度の大きさの窓がついていた。お茶を振る舞ってくれた人物の姿はまだ知らない。
ミモザは、ティーカップの取っ手に指をかけ、話を切り出す。
「わたし、あなたに子を授けていただきたいんです!」
単刀直入な申し出に、低く紳士的な声が返ってきた。
「参ったな、ここは子宝祈願の廟ではないのですが」
「わたしは神頼みしにきたのではありません。ですからここで──あなたでいいはずですわ『子授け男爵』。わたしはあなたに子種をいただきたいのです」
「これはこれは……思い切って、いや、思い詰めてますね、奥方」
「思い詰めもしますわ」
ミモザがテーブルを打ち、茶器がシャン、と音を立てた。
「このままでは夫は殺されてしまいます。なるべく早く、わたしは子を宿さなければならないのです!」
しばしの沈黙のあと、思慮深げな声が問いかけてきた。
「殺されるとは物騒だ……あなたの事情をお聞かせ願っても?」
「ええ、ええ。聞いてくださいな。わたしも抱えていたものを、吐きたくて仕方ないんですもの」
「では、まずは……いったい、誰があなたの旦那様を殺すというのですか?」
「わたしの父です」
生垣の向こうで息を呑む気配がした。
「は……失礼、あなたのお父様が?」
「ええ、わたしの実の父が。夫は我が家の入り婿なのです」
ミモザは一度息を整えると、ティーカップの柄の白蓮を指で撫でた。
立ち昇る紅茶の香りが、速くなった鼓動を落ち着かせる。
「レバテイン商店をご存じでしょうか?」
「存じておりますよ。この街で三本の指に入る羽振りの良い大店だ」
「父はあの店を一代で立ち上げました。自分が有能であることを誇りに思っている。ずっと息子に店を継がせたいと語ってきて、ついに娘しか持てなかった父ですから……」
ミモザは唾を飲んで乾いた喉を誤魔化す。
「男孫を欲しがっているんです。わたしに「一日も早く」と、それは執拗で。それで、わたしは父が勧めてきた子爵家の令息と……」
「結婚した?」
「はい」
ミモザは恥じるように目を伏せる。
「そのような始まりだからでしょう。夫が愛するのは……わたしではなく、お金と我が家の便宜でして」
生垣の向こう側のティーカップが動いた。いただけない、という雰囲気を紛らわすようだった。
「わたしと夫は白い結婚状態なのです。彼は今では外につくった愛人と我が家のお金で遊んでばかり。これでは子どもができようはずもなく……」
「それではお父上にとって本末転倒ではないですか。このことは……?」
「父はまだ知りません。……相談もできません。知れば──すぐにでも夫を殺しますわ」
冷えた風が流れ、紅茶の湯気を散らす。
「いくら娘婿の出来が悪くとも、手を血で染めるとは限らないでしょう?」
「いえ! いいえ。父はあこぎなことにも経験があり、後ろ暗い方とのお付き合いも……あります。夫の所業が父の知るところとなれば──だから、わたしは子を宿そうと決めたのです」
ミモザはまっすぐ生垣へ向かい言い放つ。
「父が望むのはわたしの子です。相手が夫である必要はありません」
「ほう……」
「そこで、あなたなのです。社交界でまことしやかに囁かれていました。この庭園でお茶をなさる男爵は子を授かれない夫人方の……力になっている、と」
ククク、と潜めない笑い声が響く。
「……噂を頼りに『子授け男爵』の元へ?」
「はい……二つ名を口にして失礼しました。ですが、わたしにとっては射した光明だったのです。これで夫が殺されるのを防げる……と」
生垣窓の向こうで、端正な指先がテーブルをコツコツ叩いた。
「あなたをぞんざいに扱っているご主人なのに?」
声は穏やかながら、ミモザの夫への怒気が見え隠れしていた。
「世のご夫人では、そのような夫を八つ裂きにできるなら山ほどの金貨を払う方のほうが大半でしょうに」
「父に人を殺させたくない……! それに、あんな夫でも殺されるのは寝覚めが悪いです。彼への愛情は一切ありませんから、父に殺されさえしなければ、もう愛人と遊んでくださっても結構なので」
「お優しいのですね……面白い」
「……はい?」
「いいえ。わかりました。あなたのご依頼、このウィンソイスが承りましょう」
「あ、ありがとうございます」
礼を述べたミモザであるが、手が小刻みに震え、ティーカップに不快な連続音を出させた。
意思の元に収まらない挙動にミモザは狼狽する。
契約相手であるウィンソイスに、意気地のないところを晒すなど──
「大丈夫」
窓から伸ばされた手が、ミモザの震える手を包み込んだ。
大きくて男性的、それでいてほっそり長い指をした機能的で美しい手だった。
伝わる手触りと仄かな体温。
それらが、ミモザではどうにもならなかった震えを止めてくれた。
(──この人が相手で、よかったかも)
紳士的なウィンソイスにミモザは平静を取り戻し──心臓だけがトクトクと、鳩の羽ばたきのように忙しなくなっていた。
「後日お手紙を送ります。私との落ち合い方はそれでわかるはず。そうですね……次の新月に、会いましょう」
ざあっと風が吹いて盛りの薔薇が強く香る。
ミモザが芳香に気を取られているうちに、生垣の向こうから人の気配は消えていた。
❦
庭園での出来事は真だったのか。数日が経つうちに現実感が薄れてきた。
ぼんやり自室で窓を眺め、本当に報せが来るのかため息を吐く。
「ミモザや、いい衣が入ったからお前にやろう。来なさい」
階下からの父に呼びつけにミモザは父の部屋へ入った。
「どうだ? ドイン産の絹だ出来がいいぞ。染めの発色も申し分ない」
「ええ……立派な布ね。お父様のお店でも一級の品じゃない」
「これをお前にやるから、ドレスを頼め」
「え……ありがとう」
「着飾ってディックを誘惑しろ。さっさと子どもをつくってこい」
「……お父様」
軽やかなはずの布がミモザの手の上でねっとりと重くなった。
なにも言えず、言わず、ミモザは父の部屋を出て階段を上がる。
二階ではディックが腕組みして立っていた。
「おい、ミモザ」
「なんでしょう、あなた」
「今夜出るから、財布に金を補充しておいてくれ」
「今月はもうわたしが出せる分は……」
「いいから、大事な用なんだよ。ああ、いい布じゃないか。それを売ればいい」
「これは、お父様がくれたもので……」
言葉に詰まった。
ディックを誘惑するための布──だが、この夫がミモザを抱くことはない。
「おい? ミモザ」
「はい……なにか」
「金、足しとけよ」
「ちょっと……あなた」
振り向きもせず、ディックはスタスタと階段を降りていってしまった。
拒否はないということだ。
出るまでに財布が薄いままだと、彼はミモザを殴る。
なんとか布を換金できる先を思い浮かべていれば、今度は使用人が上がってきた。
「すみません。お嬢様宛てに来たのですが、差出人が書いてないんです」
「かして」
封筒をひったくるようにして、ミモザは自室に戻った。
開けば中から真鍮のコインが一枚転がり出る。手紙はない。
コインには『星冠座』という劇場の名前と、大きく31の数字が刻印されていた。
劇場のボックス席へ入るための招待トークン。
(新月に……ここへ?)
ミモザはコインをしっかり握りしめた。
満月色の金属に、ミモザの体温が移っていく。
❦
星冠座。王立歌劇場ほどの格式はないが、設備は新しく、斬新な演目で知られる劇場だ。
最近では貴族の社交場として、こちらのほうが人気を集めている。
友人とオペラ鑑賞というのは、ミモザにとっていい外出の口実になった。
ここを指定してきただけでウィンソイスの手際のよさがうかがえるというものだ。
「張り切りすぎたかしら?」
ミモザはスカートを摘み上げた。そうすると純白の生地に刺繍された草花が揺れる。
肌の露出が少ないクラシカルなドレスだが、亡き母譲りの特別な一着だった。
(先日の、あの人にこの姿を見せる……)
大きな花の刺繍の下で鼓動を速め、ミモザは星冠座の入り口でコインを見せ、場内に通された。
コインに刻印された数字のボックスへ滑るように足を運ぶ。
耳元で鳴っているのではないかというくらいうるさい鼓動をこれ以上気に留めないようにして、ミモザは扉を押し開けた。
(まだ……来ていない)
振り絞った勇気がしなだれる。
あとから来るのだと解釈して、ミモザはベルベットの張られた座席に腰を下ろした。
最上階のボックスからは、劇場の全てが見渡せる。逆に下からはこちらはなにも伺えないだろう。
こんな絶妙な差配をできる男が、なぜ社交界で失敬な二つ名を許しているのだろう。
(いけない。わたしはそのお世話になるというのに、詮索は失敬だわ)
携えたバッグを握る。ここにはミモザの隠し貯めたお金から詰めた金貨の袋が入っていた。
報酬はこれで足りるか、自分の事情に付き合わせる男への対価になるか?
舞台に役者が登場し、歌声を披露し始める。
知った演目だ。そして内容の皮肉に、ミモザは苦笑した。
失態から命を危うくする男を、貞節を捨ててでも守るか問われる女の物語。
(わたしの結末は、悲劇にならなければいいのだけど)
緊迫の楽の音が落ち着いて、神聖さを帯びた旋律が広がっていく。
ミモザがリラックスしはじめたその時、音の流れに紛れるように扉が開き、長身の影が差し込んだ。
(このお方──?)
「良い夜ですね。お待たせしました」
夜に溶けるような、艶のあるバリトン。
声の主は、それだけでなく目を引く容姿をしていた。
涼やかなアイスブルーの瞳が、ミモザをまっすぐ捉えわずかに瞬く。
それが様になる鋭利で麗しい顔立ち。それを縁どる濃いブロンドの長髪。
口元をゆるめれば途端に甘さが香った。下で歌う舞台役者も霞む蠱惑的な佇まいだ。
髪をまとめるリボンを指先で弾きながら、彼は席へと進み出た。
「あの、あなたが……ほんとうに?」
ミモザより年長と感じるが、若く紳士的で活力に溢れた美男子だ。それがミモザの「子を授けてくれ」という要請に従ったなど……ミモザはにわかに信憑性を怪しむ。
「ええ。私はウィンソイス、あなたの待ち人で間違いないですよミモザ様」
あの庭で、依頼を承ると言った名に相違ない。
ミモザは観念するように息を大きく吸い、ウィンソイスの視線を真っ向から受け取った。
「失礼いたしました。あなたですわね。で、このあとどうされますの? オペラ鑑賞から始めますの?」
「いいえ。ここの演目はいい音ですが、聞きながらあなたの依頼をこなすわけにはいきません。あなたは立派な淑女なのですから」
ウィンソイスは手を差し出して、ミモザの離席を促した。
「あ……」
立ったミモザの腰に、ウィンソイスの腕が回される。
「ほど近くに部屋を用意してあります。終わりにはここへ戻してあげますので、私と参りましょう」
舞台では迫真の劇が続いていたが、シナリオを把握している歌劇はもう、ミモザを引き止めることができなかった。
❦
ウィンソイスにエスコートされたのは高級な宿屋の一室だった。
雲のようにふかふかとした絨毯に、飴色になるまで磨かれた柱に天蓋を支えられたベッドがある。
カウチを横目にミモザは天蓋ベッドへ導かれた。
(時間は限られているもの。はやく……子を授けてもらうのだから)
すぐにでも裸になり、ここへ寝そべるべきだろう。
(う……)
ミモザは一歩引いてしまう。
察したウィンソイスは、ミモザの腰から手を離し、外套と上着をカウチに投げると驚きの行動に出た。
「あの……! ウィンソイス様!? 」
彼はシャツに手をかけ、素早く脱ぎ去った。
引き締まった筋肉に恵まれた上半身にミモザは目を見開く。
しかも、固まるミモザの前で、彼はさらにベルトを解く音を立て、身体を折り曲げて下着ごとトラウザーズを下ろしてしまった。
再び背を伸ばした彼は、一切を隠すことなく堂々と立つ。
「ご婦人を脱がせて恥ずかしい思いをさせるわけにはいきませんから。まずは私からです。どうでしょうか、あなたと子を成す契約をした男です、とくとご確認を」
「確認なんて……じゅうぶんっ、ですわ……」
頬から額にかけ、火掻き棒を当てたように熱い。手で顔を覆うミモザに、ウィンソイスは苦笑した。
壁にあったスイッチに手を伸ばし、照明を落とす。
そうすると、部屋の明かりはベッドの脇のランプのみになり、視界は闇とまろやかな明かりのみになった。
ものの輪郭は、ずっと曖昧になる。
ウィンソイスは、そっと顔を近づけてきた。
視界がウィンソイスの美麗な顔だけになって、胸の高鳴りでミモザは目が回りそうだ。裸を直視してしまった照れは落ち着き、力みは解けた。
滑り込むように、ウィンソイスは唇でミモザのそれに合わせた。
ふっくら柔らかく、焼きたてのパンに触れるよう。
(これがキス……)
「キスは初めて、ですか?」
「はい」
「これは、光栄だな……ではそこから教えさせていただきますね」
幾度か、唇を触れさせて振る舞い方は概ね理解できた。
頬の熱さに顔を背ける。ベッドの上に垂れるスカートに視線がいった。ウィンソイスは皺になるのを避けてミモザに口付けているのだろうか。
ウィンソイスがくすりと笑った。
「気になりますか?」
そう言うと彼はミモザの腰に手を回し、リボンの結び目に指にかけた。
「いえ、いいえ! だめ」
白の絹が滑り落ち、拘束がゆるめられる。
ミモザは身体を強張らせた。これ以上、肌を晒せない。
「どうか、服はこのままではだめですか」
まただ。手がぷるぷると痙攣する。それを庭の時と同じように包みながら、ウィンソイスはミモザにそっと語りかける。
「おうちの方に気づかれる要因は少ない方がいいでしょう?」
「ですが……」
「なにか懸念があるのですか? 私でしたら、そんなものは頓着いたしませんよ」
「だって、お目汚しになるから……」
ミモザの悲痛な声を振り切り、ウィンソイスはビスチェを下げた。
「これは……」
服を着ていれば見えないところに鬱血痕がある。
薄暗い中でも肌の明暗はありありとわかる。ウィンソイスは、ミモザの身に起こっていることを察したことだろう。
夫に逆らう強さもなく、姉たちのように家ごと父を棄てることもできない。
これはミモザの優柔な弱さを象徴するものだ。
痕ごと、いっしょにその醜さと愚かさを見られて、ミモザは声もなく喉を震わせた。
「あなたに落ち度はまったくない」
ウィンソイスは黒く沈んだその部分に口付けた。
(責めないんだ……この人は)
相談を持ち込めば「逃げればいいものを」「逆らえばいいものを」と言われるだろう。
それができれば苦労しない。
姉たちは父を当たり前に捨てて行った。だがその後の父の反応を残って見続けたミモザは想像できてしまったのだ。最後まで残った娘が思う通りにならなかった父の姿が。
行動に移せなかったし、情けないと他人に言われるのが嫌で、誰にも明かせなかった。
そんな、ミモザが溜め込み、傷むしかなかった部分。
それに彼は唇で優しく撫ぜるのだ。
(これなら、この人になら──わたしは任せられる。なにもかも)
❦
ミモザは星冠座の煌めきをボックス席から眺めていた。
瞳に映っているというのにオペラの内容がを頭に入ってこない。
ため息と共にすぐぼんやりと思い返す出来事は、夢幻だったのかもしれない。
それほどに、家族に疲れた心身に甘い時間だった。
──子ができていなかったら、お会いした庭園の木に水色のリボンで鈴をくくりつけてください。もし、子ができて契約満了なら白いリボンで。
ミモザの渡した金貨の入った革袋を受け取って、彼はそう言った。
(また、会えるの? 契約への責任感がある、のかしら……?)
紅のとれた唇を、ミモザはゆっくりと指でなぞった。
❦
二回目の逢瀬では宿に着いてすぐ、熱く口付けを交わし身体を繋げた。
限られたひとときが貴重で、ミモザはウィンソイスという潤いを一滴たりと逃すものかと、彼へしがみついた。
それでも妊娠には至らず、三回目の密会を申し込んだ。
「もっと……強く抱きしめて」
「ええ、おおせのままに。愛しいミモザ」
二度目からウィンソイスはミモザのことを「愛い」「愛おしい」と囁くようになった。
リップサービスを利かせてくれていると分かっていたが、その言葉は地割れていたミモザによく沁み込んだ。
これまでの二回では契約行為のあと、すぐ星冠座に戻った。
けれど、三回目の今夜は違う。
ミモザは流しの馬車を捕まえ帰るから、と家の馬車を返した。
時間の限りがない夜。
日付が変わっても終わることなく抱きしめられながら甘さに揺蕩う。
「……離したくない」
耳の縁をたどる息。
ウィンソイスの腕に入った力が思った以上に強くて、それ以上に胸に甘いものが忍び込んできて、ミモザは身体を硬くした。
「すみません。痛みましたか?」
首を横に振って、ミモザはウィンソイスの身体に腕を回す。
「……わたしも、離れたくないです」
「ミモザ──」
「ウィンソイス様には、契約だというのにとてもよくしていただいております。勘違いしそうなほど」
「あ……ああ、そうですか」
「わたし、はやく子を宿さなければ。どうも父が怪しみはじめたようで」
「……愛はないと言いながら、あなたの行動も犠牲も全て『他の男』のため……」
ため息まじり小さな呟きをミモザは聞き漏らした。
「あの?」
「なんでもありませんよ」
「……もう、服を着ます」
ぎゅっと一度ウィンソイスの腕の締め付けが強くなって、口付けられた。
一瞬きりで解けると、彼はミモザにドレスを着せ付けて淑女の姿に戻すのだった。
「では、また」
「ええ、また次のお約束で」
「はやく子を宿したい」などと言いながらミモザはどこかで、この行為が妊娠につながると信じきれていなかった。
まだまだウィンソイスに抱かれる必要がある。契約は続くとこの朝は疑わなかった。
しかし──
「妊娠……ですか」
続いた吐き気と貧血を診てもらった医師は笑って頷く。
「おめでとうございます。これでお父上もご安心でしょうな」
「ええ……喜んでくれるでしょう」
医師の診断はミモザが心から望んだ結果だった。見知らぬ男に身を預けてまで、この結果を求めていた。
だが、お腹にそっと手を当てるミモザの唇は震えていた。
(子どもができた。もう会えない、もう──)
彼の庭園を訪れて、薔薇の木に白のリボンで鈴を結える。
涼やかな風の音に涙を誘われた。
(終わってしまったんだわ。ウィンソイス様に会う理由が、ない)
立ち尽くしていたせいで、下腹がかすかに重い。うずくまってしまいたかった。
が、そこでミモザはお腹を撫でた。
(ううん。ウィンソイス様がここに大切なものを残してくださった。わたしには……子どもがいる)
自分には新しく責任を持つ存在ができた。
父に妊娠を話して、ディックと見せかけの夫婦を続け、子どもを産み育てる。
ミモザは足先に力を入れ庭を出た。
❦
新月の夜、ミモザは一人の男児を出産した。
ウィルニーと名付けたその子は、金の髪とアイスブルーの瞳を持ち、赤子というのに肌は白く美しい。
ディックはミモザの妊娠からほとんど口を利かなくなり、ウィルニーに対しても侮蔑の目しか向けていない。
しかしミモザの父が上機嫌で、店でディックをしょっちゅう褒め、小金を渡すようになったため家庭は平和になった。
もちろん、裏ではディックと愛人の家庭が並行しているのだろう。
だがそれに動く心をもはやミモザは持たなかった。
(酷い死に様を晒さなければ、どうでもいいわ。この人)
ぐっと歯を噛み締める。愛し子に残る色が、面影が、ミモザにウィンソイスを思い出させる。
(契約が終わったから、もうわたしのことは関係ないとお思いかしら)
妊娠期間中、なんの音沙汰もなかった。
体調の乱高下で余裕がなく、それだけの情のない関係だったと思うしかなかった。
(わたしとあなたのひと時は──ひとりの人間になった……)
乳を吸うウィルニーの細い金髪を撫で、ミモザは目を潤ませた。
もしかしたらと期待があったせいか。
「お嬢様、贈り物が届いています。……贈り主が不明なのですが」
「持ってきて」
「カードと、お祝い金にしてはおかしな包み方、革袋三つに分けてなんて……」
ミモザは手を伸ばし、見覚えのある革袋を手にした。
重みは記憶にあるそのまま。次に、淡い水色に白蓮の入ったカードを取る。
『おめでとう』
流麗な筆致に、ミモザは贈り主を確信した。
「午後……ウィルニーを任せられない? 行かなきゃ……!」
「お嬢様!? 大丈夫ですけど……」
ミモザは三つの革袋を物入れにしっかりと入れて、あの庭園へ馬車を向かわせた。
夏草の香りが上がる庭園で、ミモザは生垣を見て目を眇めた。
(懐かしいわね。あの生垣越しに……ウィンソイス様と初めて話を)
そこで思考はぶつ切れた。ティーテーブルに知らない女性がついている。
(次はその方に愛を囁き抱くの?)
ミモザのなかでウィンソイスの肌も、声も、『愛してる』の語りかけも色褪せないのに。
彼はもう契約で次にいけるのか、いけてしまうのか?
油を垂らしたように、わっと燃え上がった炎のままミモザはテーブルに突撃した。
生垣窓に向かって革袋を投げつける。
「お返しします。それはあなたの報酬だから。……やっぱり、契約だったのですね。ありがとうございました。これきりで……」
一息に言い切ったミモザに、生垣の向こうから訝しむ返答が滑る。
「なんのことかな?」
テノールの声はミモザの違和感を焚き付ける。
(──誰!?)
「返すと言っても、僕はこんなもの覚えもない」
「それは……子授け男爵への種付け料で……」
ミモザが押しのけていた女性が扇越しに笑う。
「あらまあ! あなたそんなことをなさっていたの?」
「……いいや。その二つ名は確かに僕のことだ、噂も承知している。が、僕はそんな仕事はしないよ」
「男爵は……あなた?」
「そうだ。ふむ……ふーん。気丈な野兎のようなご婦人、あなたは人違いをしているね」
「そんな……そんなっ」
「あっ、待ちたまえ、ご婦人──」
ショックと恥ずかしさから、ミモザはティーテーブルから走り去った。
子授け男爵はウィンソイスではない?
ではなぜ彼はミモザと契約をして、抱き合った?
彼は何者で、なにを想っていたというのだ。それに……
(会えないの? ウィンソイス様につながる糸がなくなった。今度こそ、どう連絡を取ればいいかわからない。それにわたしはウィンソイス様を──)
彼のことを考えると、薄紅の薔薇がほころぶよう……でありながら会えない事実が花をギュッと握りつぶす。
この、喜びと苦しみ。
(オペラで観てきたわ。人を愚かにも慈悲深くも変える、恐ろしい心。これが……)
上下に激しく動く胸を我が身ごと抱き込んで、ミモザは自嘲する。
(初恋。わたし、好きな人の子を産んだんだわ。気づくのが、遅かった)
❦
(わたしはなにもわかっていなかった)
子授け男爵の正体もそうであるが、相手があって子を産むということがどういうことかも。
ウィルニーのぷっくりと関節にできた肉のくびれをつつく。
ごくわずかの期間で、赤子は肉付き、よく手足を動かすようになった。
(ウィンソイス様……)
その一挙一動に、父親の面影を見つけては会いたい気持ちが膨らむことになるなどと、考えてもいなかった。
子を通じて生涯繋がり続けるということか。
むずがり出したウィルニーに指を握らせてあやす。
「ごめんなさいね。あなたに重ねてしまう人がいる、なんて……」
子守唄を口ずさみながら、窓を開ける。
階下がドタドタと騒がしい。
(なに?)
「お嬢様!」
「なあに。ウィルニーが驚くでしょう」
「でも! お嬢様にお客様が。『子どもの父親だ』とおっしゃる方が……!」
心臓がひっくり返りそうだったのに、全身からは血の気が引いていくようだった。
「どのような……方が?」
「それがその、金髪の美丈夫で……たしかにウィルニーぼっちゃまに似ている……」
「会わせて!」
「もう大旦那様と応接におります」
落ちないように気遣うのがやっとの速さで、ミモザは階段を降り応接室に入った。
窓から差し込む陽光を受け、金髪のその人が振り返る。
「ミモザ、会いたかった」
あんなに思い描いていた人なのに。詰まったように声が出ない。
しゃくりあげるように顎を上げるミモザを、ウィンソイスは慈しむ瞳で見て、次に抱いているウィルニーに移す。
「子どもにも」
ウィンソイスがウィルニーに微笑みを向けたことが、ミモザの強張った部分をやわらかにする。
「ミモザのお父様。お分かりいただけたでしょう。ミモザの子は私との子です」
「お、おお……」
否定できる材料がない。髪と瞳の色も、造作の美しさも、ウィンソイスとウィルニーは共通していた。
「私はミモザを心より愛しております。なので、手に入れに参りました」
「ウィンソイス様……まって、それでは」
「なにも心配いらないよ、ミモザ」
父を背にしたウィンソイスは、そっと口元に人差し指を持っていく。ミモザにだけへの合図だった。
「ディックを呼んでこい! どういうことだこれは!!」
父の怒声で使用人がディックを連れてきた。
「ディック! この役立たずめ! お前が体たらくだからミモザはこんなどこの馬の骨かもわからん男と子どもを──」
これだ。ミモザの恐れていた展開は、これではディックは父の怒りでどうなるかわからない。
「まあまあ、お怒りを鎮めてください。彼にも事情があったのです」
「ん!? なんだね、君は……」
ウィンソイスは慣れている風でミモザの父を宥め、ディックを取りなそうとする。
(でも、それくらいで収まる父ではないのよ……!)
「ディック君ですが、やむにやまない事情があったのです。な? お父様に証明したまえ」
「……」
「すこし見苦しいものを晒すことになる、けれど、これしかないんだ。早く」
ディックは躊躇いながらベルトに手をかけ──一気にズボンを下ろした。
「ひっ! おおおおおおお」
ミモザからは位置の関係上わからないが、父はディックの股間を目にして後退りした。
「これこのように! ディック君は病で男性器が腐り落ちていたのです」
「なんと……」
「お父様に婿にどうかと目をかけていただき言い出せず、ミモザと結婚したことでずるずると……まったく、哀れではありませんか。これではミモザに子を授けられないのはもちろん、悩んだ彼女が私と関係を持ったのも仕方ない」
ミモザは開いた口が塞がらない。
つい一年前に愛人を妊娠させていたのだから、そんな事情はあるはずもない。
しかし父を生半可で誤魔化せるはずもない。
ディックの股間は……紛れもなく無惨なことになっているのだろう。
想像を越えた『事情』をウィンソイスに説かれ、父からはすっかり毒気が抜けていた。
「ま、まあ……孫は無事生まれたわけだしな。して……ウィンソイス、だったか。君は一体……?」
ウィンソイスはにこやかに頷いて、名刺を差し出す。
「申し遅れました。私、ホワイトロータス商会の取りまとめをしております、ウィンソイス・クリノクロアでございます。」
「あ、ああ! 最近、ミンディア鉄道の利権をとった、あそこか」
「はい。ディックを離縁した暁には即座にミモザと再婚して息子となりますので、よろしくお願いいたします」
❦
「では、きっちりディックの離縁準備を進めてください」と二人を応接から追い出して、ウィンソイスはミモザに近づいた。
「迎えにくるのが遅くなって、すみませんでした。あなたの父親に対抗できるくらい、商会を大きくしてからと……大きい案件をとりにいったばかりに、こんな時間が」
ミモザの腕の子どもごと、彼はミモザを抱きしめる。
「迎えって……あの、再婚っていうのも……」
「これから、あなたと法的にも結ばれて、子どもの正式な父親として認めてもらう。それこそが正しい流れでしょう?」
「正しい……かしら、だってあなたは契約でわたしに子を授けたわけで」
「まだそんなことを言う。私はあなたを離したくなかったです。あなたが私に身体を許したあの日から、私はあなたのひたむきさに心奪われた」
「まって、まっ……あ」
ウィンソイスはミモザの顔に口付けを落とす。
「二度目の逢瀬から告げ続けたことに嘘偽りありません」
ウィンソイスの眼差しの底無しさに、ぞくりと背が震えた。
重く甘い、ミモザを掻き乱すもの。一秒ごとに、体に波紋をつくって広がっていく。
「サービスで耳に聞こえのいいことをいっているのだと……ばかり」
「あなたに触れた手を思い出して……契約だけでできるとお思いですか?」
「でも……!」
ウィンソイスは苦いものを噛むように食いしばる。
「あなたが身をかけてまであのクズを救おうとするたび、グチャグチャに嫉妬していました」
「あなた……が?」
そんなに自分にこだわるか、戸惑うミモザにウィンソイスはふんわり言う。
「ミモザは私にとっての特別です。こんな……なにに飛び込むかもわからない女性、放っておけない」
「放っておけないって……契約を終了してからずっと音沙汰なかったし、お庭に行っても居たのは別人で! 会えないって、わたしがどれだけ──」
拳でも叩きつけられれば良かったが、ウィルニーを抱えてできないミモザは、ウィンソイスの胸に頭をぶつけて代わりにした。
「すみません。説明はおいおい……ですが、ずっと、あなたを迎えにいく支度をしてきたのです。ここから先は、私のもの。あなたを絶対に離さない……たとえば、他の男と子をつくろうとしたって」
「し……しません! その必要はなくなりました」
「そうですね。そんなにもあなたから気にかけてもらえたというだけで、ディックには人生から退場いただきたかったくらいですが……よしとしましょう。あなたのために」
ウィンソイスはミモザの髪に手を差し入れて、垂れた栗毛を掻き上げた。
当たり前のような触れ合いに、ミモザは目を伏せる。
「でも……でも」
「あなたは、大胆なくせに土壇場で引いてしまうのですね。──もう結構」
「──ん」
急接近したウィンソイスの笑顔に、ミモザの反論は塞がれたのだった。
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「先日は失礼をしました」
薔薇の生垣の内側にあるサンルームで、ミモザはテノールの声を持つ見目麗しい男性に頭を下げた。
彼はウィンソイスと似通った顔立ちで爆笑し、ミモザの謝罪を吹き飛ばした。
「義妹なんだから、遠慮なく」
子授け男爵の視線は揶揄うようにウィンソイスに当てられている。
「お前の良縁に化けるとは。僕の浮き名も役に立ったな」
「それで笑っていないでください。浮気相手を数々孕ませた、ただの悪評です」
「懸念だったお前の結婚を運んでくれたんだ、僕は感謝しているよ。お前も感謝しろ」
「まっぴらです。ミモザとの奇縁は愛しいですが、兄さんに勘違いされての始まりだったことだけは悔いです」
ウィンソイスはミモザの手の甲に唇を乗せる。
「もっと、ロマンティックな場所で出会ってあげたかった」
「ウィ、ウィンソイス様……」
「なーにが、ロマンティックな場所だ。お前はそういうところには顔を出さなかったんだ。ここでしか。子授け男爵目当てでしかミモザさんと出会う機会はなかったさ」
ミモザにとろけるような微笑みを向けていたウィンソイスであるが、一瞬、仏頂面になった。
「いちいち茶々を入れないでください」
「お前が、僕の目も憚らずにイチャつくからだろう。そういうのは新婚家庭でやってくれ」
言葉こそ剣呑であるが、ミモザは雰囲気の温かさからこの兄弟の気の置けなさを察していた。
「あーあ、僕も人恋しくなった。相手をしてくれる夫人のところにでも行ってくるか」
さっと離席し、真の子授け男爵は片手を振って行ってしまった。
「まったく、ああやってすぐフラフラ出かけてもしまうんだから。あの庭園にあんな席を設けておいて無責任だ」
「あなたが対応してくれた、あれは運が良かったのね?」
「ええ。『今日は空振りです』とお伝えするためにお茶を出したのに……あなたの気迫に引き込まれてしまって。不覚でしたが、こんなのはあれ一度きりですよ」
ミモザの髪に指を差し入れて、ウィンソイスは愛し気に流した。
「どうですか? あなたがその行動で勝ち取ったものは」
「最高よ」
即答するミモザに、ウィンソイスは笑みを曇らせる。
「この後も、そう言ってくれますかね……」
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レバテイン商店はかつてないほどの活気に満ちていた。
ウィンソイスは自身の持つ商会と掛け持ちで婚家の下働きを志願し、あっという間に才覚が認められ商会との相乗効果でレバテイン商店はさらなる発展を遂げたのだ。
そして、その果てに──あらたな一歩を踏み出すことになった。
「天塩にかけて育てた店を人に任せるのは寂しくもあるが……」
ミモザが見守る中、父が目尻をこすると店員たちが応じる。
「ウィンソイスさんがいますから、大丈夫ですよ」
「そうです。大旦那がいなくても、もっと繁盛させますから」
「おお……そうか。そうか」
ウィンソイスも、にこやかに父へ頷いた。
「お父様、こちらのことはお任せください。お父様は新製品の研究開発に行ってもらって大丈夫なんですよ。念願だったのでしょう?」
「そうだ。我が店のオリジナル布……。野望に乗り出せるとは思わなかった。これもここ最近の店の発展あってこそだ。君にはいくら礼を言っても足りん」
「そんな。あちらの立ち上げに苦労があるかもしれません。しかしお父様なら、必ず大願を果たされることでしょう」
「おうとも。新規の得意も開拓してきてやろう」
明朗な笑い声が立つ。
その父に、ヘコヘコと頭を下げるのはディックだった。ミモザとの離縁ののち、下半身事情から妻を満足させられなくなった用無しと捨てられた彼は、困窮し父に下働きの丁稚でならと雇われたのだ。
二人して馬車に乗り込み北へと向かっていった。
新産の絹糸があり、事業のチャンスがあると話のある辺境へ。
「あー、やっとあの店長から解放された」
「これからはウィンソイス様が取り仕切ってくれるなんて夢のよう」
「頑張らないとな。あの狸ジジイが売上悪いからって帰ってきたら大変だ」
見送りに出ていた店員たちは馬車がまだ見えるうちから思いを口々に店内へと戻っていく。
父の新たな門出。しかしその実態といえば──。
「体のいい乗っ取りだ。と非難しますか?」
優しい夫の顔で、ウィンソイスはミモザに訊ねる。
「父を……残しておく選択はあなたになかったのね。ディックのことだってそうよ。彼は愛人を妊娠させていた。なのに、あなたとの対面の場ではもう……、なにか、したのね?」
「した、ほどではないですね。ちょっと招待して男性器を腐らせる薬を渡した上で、選ばせました。『死ぬのと、どっちがいい?』と。だからあれは彼の選択です」
「そこまでして……」
「……あなたを解き放ちたかった」
「それは本音?」
「いいえ」
誰もいなくなった店外で、ウィンソイスはミモザの顎をとる。
「あなたがクズ夫はもちろん、父親に家族愛を向けるのすら、許せなかった。あなたのその美しい愛情は、私と我が子にだけ向ければ良い」
ゾクっとくるほどの、独占。執着。
背中から、イバラのように胸へと向けて絡むような。
「軽蔑しましたか?」
「いいえ」
声はミモザが思っていた以上に力強く響いた。
いつの間に、自分はこんな堂々としていられるようになったのだったか。
「わたしも共犯よ」
押し殺していたものを、彼が代わりに実行しただけ。
「わたしとあなたは運命共同体ね」
「結構なことです」
淡々と答えながら、彼の人差し指が浮き浮きとリズムをとっていた。
ミモザはそれがかわいくて、くいっとウィンソイスの腕をとって組む。
睦まじい新婚夫婦は、彼らの城となった店内に迎え入れられるのだった。
ウィンソイスは……怖い感じがしますが、ちゃんと子どもとミモザには全身全霊をつくすので
良いパパになると思います。
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