第9話 十二年分の夜を
王宮の紋章がついた馬車が三台、公爵家の門前に並んだ朝のことだった。
数日が経っていた。ジル殿が王宮に報告書を提出してから、驚くほど早く調査団が派遣された。結界術師団の副団長レオンという男が指揮を執り、術師五名と記録官二名が公爵領に入った。
レオンは赤毛の大柄な男で、到着するなり「おお、これが噂の結界か。跡だけでも見事だな」と声を上げ、ジル殿に「団長、あんたが十年追いかけてた術式ってこれだろ。そりゃ惚れるわ」と言って小突かれていた。陽気でお節介で、声が大きい。ジル殿とは正反対だ。
広間に集められたのは、私、ヴァルター、マリアンヌ、そしてジル殿。調査団が正面に並んでいる。
ヴァルターは平静を装っていた。政治家の顔だ。だが目が落ち着かない。視線が調査団と私の間を行ったり来たりしている。何が起きようとしているのか、読めていないのだろう。この人は政治的な駆け引きには強いが、自分の足元が崩れるような事態には慣れていない。
マリアンヌは怯えていた。広間の隅で、小さくなっている。社交の場では堂々としているのに、公的な権力の前では小さくなる。出自の不安が出るのだろう。
レオン副団長が口を開いた。
「エーデルシュタイン公爵領の結界に関する正式調査の結果を報告します」
分厚い報告書が開かれた。
「本領の結界は、過去十二年間にわたり、セレスティーネ・エーデルシュタイン公爵夫人個人によって維持されてきたことが確認されました」
広間が静まった。
「夫人の術式は古代結界術の独自再構築であり、現代術式との互換性はありません。術式の複雑性・規模・持続性において——」
レオンが一度言葉を切った。報告書を確認するように目を落として、それから顔を上げた。
「——国宝級です」
レオンはそう宣言した後、報告書から目を上げて、私をまっすぐ見た。さっきまでの陽気さは消えていた。
「夫人。あなたの術式を分析した術師全員が、同じ言葉を使いました。『信じられない』と。一人でこれを十二年——率直に言って、敬意を表します」
国宝級。
私は固まった。
思考が停止した。また。褒められると止まる悪い癖だ。国宝級。私の術式が。十二年間、地下室で一人で書いてきた術式が。七百ページの引き継ぎ資料が。
……実家の蔵にある割れた壺を思い出した。母が「いつか価値が出るわよ」と言っていたあの壺。あれはただの割れた壺だったが、私の術式は、本当に「価値が出た」のか。
場違いなことを考えている。やめろ。
「セレスティーネ殿」
隣からジル殿の声が聞こえた。低い声で。
「……平気か」
平気ではない。まったく平気ではない。耳が熱い。顔も熱いかもしれない。
「ええ、平気です。続けてください」
声が上ずっていた。恥ずかしい。
◇◇◇
レオンは続けた。
「結界の恩恵一覧をまとめました。公爵閣下、お目通しを」
一枚の書類がヴァルターの前に差し出された。
農作物の安定生産——結界の温室効果による。年間の恩恵を白金貨に換算すると推定三十枚。
魔獣防壁——騎士団の防衛費用の削減分、白金貨で推定十五枚。
疫病防護——領民の医療費削減分、白金貨で推定八枚。
通商路の安全確保——商人の通行増加による税収増分、白金貨で推定十二枚。
合計、年間白金貨六十五枚相当。
「十二年間の累計では、白金貨七百八十枚。公爵家の年間収入の約三倍に相当します」
ヴァルターの顔から色が消えた。
三倍。公爵家の年間収入の三倍を、私が無料で提供していた。十二年間。
「なお、公爵家は王宮に対し『結界を自前で管理している』と報告しておりましたが、実態は公爵夫人個人への全面的な依存であり、適切な報酬も待遇も提供されていなかったことが判明しています」
レオンはさらに一枚の書類を取り出した。
「加えて、屋敷内から違法な魔道具『贄石』が発見されました。紅玉の首飾りに偽装されており、結界のエネルギーを吸い上げて蓄積する寄生術式が仕込まれていました」
マリアンヌの顔から血の気が引いた。紅玉の首飾り。あの首飾りだ。
「この贄石の出所を追跡したところ、ケーニヒ男爵家の縁者が営む闇商に行き着きました。故意か過失かは現在調査中ですが、この贄石が結界の負担を約三割増加させていたことは確定しています」
三割。ジル殿が分析した数値と一致する。
私が最後の三年間、特に苦しかった理由。毎夜の更新で血を絞り出すたびに、その三割がこの首飾りに吸い取られていた。マリアンヌがこの屋敷に来てから。
故意か過失か。マリアンヌ本人が知っていたかどうかはわからない。けれど、あの首飾りを贈ったのはヴァルターだ。出所を確認もせずに、闇市場の品を妻の愛人に贈った。
「王宮への虚偽報告、および違法魔道具の所持についても、別途」
「待ってくれ」
ヴァルターが立ち上がった。政治家の顔が崩れている。
「虚偽報告ではない。管理は——自前で——」
「自前の中身が公爵夫人一人であったことを、閣下は王宮にご報告されましたか?」
ヴァルターは答えなかった。答えられない。
私は立ち上がった。静かに。
「ヴァルター様」
夫の名前を呼んだ。十二年間の礼儀として、最後に一度だけ。
「十二年分の夜を、返してもらえますか」
広間が凍りついた。
金額ではない。地位でもない。名誉でもない。私が求めているのは、返してもらえるはずのない、十二年分の夜だ。毎晩血を流した夜。誰にも知られなかった夜。痛みを感じなくなるまで繰り返した夜。
返せないことはわかっている。だから聞いたのだ。返せないということを、この人の口から聞きたかった。
ヴァルターは何も言わなかった。口を開きかけて、閉じた。もう一度開いて、また閉じた。政治家の弁舌が、ここで初めて沈黙した。
マリアンヌが小さく「あの……」と声を出した。場を取り繕おうとしたのだろう。だが調査団の視線を受けて、すぐに口をつぐんだ。善い人のふりが通用しない場所があることを、この人は今知ったのだろう。
沈黙が、答えだった。
レオン副団長が記録官に何か指示した。紙にペンが走る音が広間に響いた。公的記録。私の十二年間が、文字になって残る。消されない形で。
◇◇◇
調査団が退出した後、広間にはジル殿と私だけが残った。
ヴァルターは書斎に引きこもった。マリアンヌが追いかけていった。あの二人がどんな会話をするのか。興味はなかった。
「ジル殿」
「……何だ」
「なぜ、ここまでしてくれるのですか」
聞いてしまった。聞くつもりはなかった。国宝級と言われて感情が揺れて、十二年分の夜を返してと言って感情が揺れて、もう一つくらい揺れてもいいと思ってしまった。
ジル殿は私を見た。手袋をしていない手が、膝の上にある。術式痕が光っている。
「業務だ」
やはり。
「——だが、個人的にも」
え。
ジル殿は目を逸らした。顎を引いて、少しだけ、ほんの少しだけ耳が赤くなっていた。
「個人的にも——あなたの術式を、十年追いかけた。あなたの術式の中に、孤独の痕跡がある。術式分析の中で——ずっと見えていた。十二年間、一人で書き続けた人の——」
言葉が途切れた。
「……すまない。業務の範囲を逸脱している」
逸脱している。そうだろう。報告書のような言葉で好意を語って、逸脱していると言って自分を戻そうとする。不器用だ。ひどく不器用だ。
でも。
「逸脱していていいですよ」
自分の声が少し上ずっていた。
ジル殿が驚いたように顔を上げた。私を見た。
顎が動いた。言葉を探しているようだった。
「……昨日の件だが」
「はい」
「あの茶が——ローズヒップが——あなたが好きだという情報は、業務上の事前調査で——」
「ジル殿」
「何だ」
「ありがとうございます」
それだけ言った。それ以上は、まだ言わなくていい。
広間の窓から、秋の光が差し込んでいた。結界のない光だ。それでも、温かかった。




