第10話 結界の外で
屋敷の鍵を、テーブルの上に置いた。
小さな金属の音がした。それだけのことだ。鍵を置く。十二年間の終わり。
朝の光が寝室に差し込んでいた。結界のない朝。空気が少し冷たくて、少しだけ土の匂いがする。結界があった頃は冬星草の甘い匂いに覆われていたから、この匂いは十二年ぶりだ。
荷物は小さな旅行鞄ひとつに収まった。嫁入り道具の中から必要最低限のもの。替えのドレス二着。母の形見の真珠のブローチ。引き継ぎ資料の控え。銀のペンは迷って、持つことにした。もう結界を書くためではない。でも手放せなかった。十二年間の相棒だ。
鏡を見た。墨色のリネンドレス。革の手袋。三十四歳の公爵夫人。いや、もう公爵夫人ではない。離縁は昨日付で正式に成立した。王宮調査団の報告により、「配偶者に対する著しい義務不履行」が認定され、離縁手続きは異例の速さで通った。
鏡の中の私は、十二年前より歳を取って、十二年前より痩せて、十二年前より目の下に隈がある。
けれど、背筋が伸びている気がした。背筋だけではない。目が違う。十二年前の私は「差し出すもの」を探す目をしていた。持参金の代わりに何を差し出せるか。結界の技術を差し出せば、この家にいられる。そういう目。
今は違う。何かを差し出すためではなく、何かを取り戻すために出ていく。そういう目をしている。
◇◇◇
エルザの部屋を訪ねた。
エルザは既に荷造りを終えていた。私より荷物が多い。繕い物の道具一式が入っているのだろう。
「お別れの挨拶に参りましたわ」
「奥様——いえ。セレスティーネ様」
もう「奥様」ではない。エルザの言い直しが、少しだけ胸に刺さった。
「エルザ。十二年間——」
「ありがとうございました」
先に言われた。
エルザは微笑んでいた。泣いていない。あの夜、最初に告白した夜と同じだ。震えながらも、泣かない。
「再就職先は——」
「王都クロンシュタットの仕立て屋です。三年前からお話をいただいておりました。縫製の腕を見込まれて」
三年前から。本当に準備のいい人だ。
「奥様に負けていられませんもの」
エルザが笑った。私も笑った。十二年間で一番自然な笑い方だったかもしれない。
「エルザ」
「はい」
「……手紙を書きます。必ず」
「はい。お待ちしております」
抱き合ったりはしなかった。握手もしなかった。お互いに頷いて、それで終わりだった。
十二年間の別れとしては、あっけないくらいだった。それがちょうどよかった。私たちの間には、言葉にする必要のないものが十分にある。
◇◇◇
一階の廊下を歩いていると、使用人たちの話し声が聞こえた。
「——公爵様、昨日から書斎に籠もりきりで……」
「マリアンヌ様が宥めてらっしゃるけど、公爵様、『お前に何がわかる』って……」
「結界の費用、白金貨百枚ですって? まさか奥様がそんな……」
「奥様じゃなくてもうセレスティーネ様よ。離縁されたんだから」
「——正直、奥様がいなくなって困るのは公爵様のほうよね」
使用人たちは私に気づいていない。気づかれないうちに通り過ぎた。
ヴァルターとマリアンヌの今後には、興味がなかった。ヴァルターは政治力で一時しのぎをするだろう。派閥工作と弁舌には長けている。だが「妻を追い出した愚か者」の烙印は、王宮の公式記録に残っている。消せない。新しい結界の構築費用は白金貨百枚。政治的資産を切り崩しながら、長い長い冬を過ごすことになるだろう。
マリアンヌは公爵夫人の座を得るが、七百ページの引き継ぎ資料を読める人間ではない。社交界で「何もできない夫人」と呼ばれる日は遠くない。
もう、私の問題ではない。
◇◇◇
正面玄関を出た。
門の前に、黒い馬車が止まっていた。王宮の紋章。ジル殿だ。
馬車の横に立っていた。黒い外套。短く刈り込んだ髪。硬い表情のはずが、少しだけ柔らかくなっている。ほんの少しだけ。
「王宮結界術師団に——あなたのための椅子がある」
第一声がそれだった。挨拶も前置きもなく。この人はいつもそうだ。大事なことを唐突に言う。
「……椅子」
「術式の研究と、制度化のための技術顧問。報酬は——白金貨で年間二十枚。住居も用意する」
白金貨二十枚。十二年間の報酬がゼロだった身には、夢のような数字だ。
「師匠が目指していたことを——あなたと一緒に実現したい」
ジル殿は手袋を外していた。両手とも。術式痕が秋の朝日に照らされて、銀色に光っている。
「一緒に——術式を研究しないか」
研究。
この人の語彙で「研究」と言えば、それは多分、それ以上の意味を含んでいる。けれどそれを「好きだ」とか「一緒にいたい」とか直接的に言えないのがこの人なのだ。だから「研究」で包む。報告書のような言葉で。
不器用だ。ひどく。
私は旅行鞄を地面に置いた。手袋を——外した。
十二年間、人前で外したことのない手袋を。
術式痕が朝日に晒された。銀色の線。消えない模様。十二年分の傷。
ジル殿の手が差し出された。私の手が——応えた。
術式痕同士が触れ合った。
同じ冷たさだった。同じ硬さだった。同じ傷だった。十二年と十年。血で書き続けた者だけが持つ手。
——温かかった。
ジル殿の指が、少しだけ震えていた。私の指も。二人分の震えが重なって、打ち消し合うように収まった。
「……行きましょう」
声が出た。思ったより明るい声だった。
屋敷を振り返らなかった。
代わりに——懐に手を入れた。冬星草の種が三粒、小さな布袋に入っている。エルザが昨夜、黙って渡してくれたものだ。温室から取ってきたのだろう。
結界の中でしか咲かない花。
でも種はまだ生きている。新しい場所に植えれば、芽が出るかもしれない。結界がなくても。土と水と、誰かの手があれば。
門を出た。風が吹いた。結界のない風。土と秋草と、遠くの森の匂いがする。
十二年間、忘れていた匂いだった。
ジル殿が隣を歩いている。手袋をしていない。私も、していない。二人の手が並んで揺れている。同じ痕を持つ手が。
馬車に乗り込む前に、空を見上げた。
ひび割れのない空だった。結界の光もない。ただの空。ただの秋の空が、高く、青く、どこまでも広かった。冬星草の匂いはもうしない。代わりに、枯れ葉と土の匂いがした。
——十二年分の夜は、返ってこない。
けれど。
これからの朝は、私のものだ。




