第1話 血の術式と、最後の夜
銀のペン先が手のひらを裂く時、もう痛みはなかった。
十二年も同じことを繰り返せば、身体が慣れる。皮膚が裂ける感触も、血が滲む温度も、ペン先に吸い上げられていく命の重さも——全部。
蝋燭が一本だけ灯る地下室。石壁には湿気が染みて、冬でなくても底冷えがする。黒曜石のインク壺には私の血が半分ほど溜まっていて、これを銀製のペンに含ませ、羊皮紙に術式を書く。
それが十二年間、毎晩欠かさず続けてきた私の仕事だった。
ペン先が羊皮紙の上を走る。術式の線は規則正しく、けれど一本たりとも同じではない。母が編んでくれたレースに似ている、と思うことがある。規則正しい繰り返しの中に、ほんの少しだけ揺らぎがあって、その揺らぎが全体の強度を決める。
母のレースは温かかった。
私の術式は——どうだろう。温かいかどうか、自分ではわからない。内側にいると、わからないものだ。
◇◇◇
十二年前の夜のことを、時々思い出す。
結婚して最初の夜。花嫁衣装を脱いで、誰にも告げずにこの地下室に降りた。二十二歳だった。
「この結界は私が維持します」
そう宣言した相手は夫ではなかった。この地下室の壁に向かって、自分に言い聞かせるように。
エーデルシュタイン公爵家に嫁ぐ条件として、私が差し出したのは持参金でも美貌でもなく、この手で結界を張る技術だった。没落伯爵家ヴァイルの娘には、それしかなかった。父は借金を残して亡くなり、母が一人で小さな領地を守っている。持参金を出す余裕などない。
代わりに——血で結界を書く、古代の術式。独学で再構築した、この国でもう誰も使えない技術。
公爵家には広大な領地がある。北方の穀倉地帯を守る結界は、本来なら術師団を雇って維持するものだ。術師を五人雇えば年間で白金貨が何枚飛ぶか。けれど夫——ヴァルターは王宮に「自前で管理している」と報告した。
自前。まあ、嘘ではない。妻は「自前」の範囲内だろう。
銀貨にして年間どれほどの経費を浮かせていたのか、計算したことは一度だけある。途中で馬鹿らしくなってやめた。数字にしたところで、夫が私に礼を言うわけでもない。
◇◇◇
今日の昼のことだ。
夫が書斎に私を呼んだ。珍しいことだった。この三年ほど、夫が私に直接用があることなどほとんどない。廊下ですれ違っても会釈だけ。食事も別。夫婦というより、同じ屋敷に住む他人だった。
書斎の扉を開けると、窓から差し込む午後の光がヴァルターの横顔を照らしていた。三十八歳。政治家としての貫禄がついて、社交界では「弁舌の公爵」と呼ばれている。三つの法案を通した実績がある。部下を動かす話術に長け、王宮内の派閥工作では右に出る者がいない。
有能な男だ。見えるものに関しては。
「マリアンヌを正妻にする」
こちらを見もしなかった。窓の外に視線を向けたまま、まるで天気の話でもするように。
「ついては、離縁の手続きを——」
「ええ」
遮ったのは私のほうだった。
ヴァルターが少し驚いた顔をしたのが可笑しかった。何を期待していたのだろう。泣くとでも? 縋るとでも? 十二年、一度も泣いたことのない妻が、今さら涙を見せるとでも?
「結構ですわ。三日いただけますか。引き継ぎがありますので」
「……引き継ぎ?」
「結界の」
夫の目が一瞬だけ泳いだ。結界。その単語が何を意味するのか、この人は正確に理解していないのだろう。十二年間、毎晩血を流して維持してきたものの正体を、この人は一度も聞こうとしなかった。
「ああ……そう、結界か。三日で足りるのか?」
「十分です」
足りるわけがない。十二年分の術式を三日で引き継げるものか。でも、そんなことはどうでもよかった。
マリアンヌ・フォン・ケーニヒ。二十二歳の男爵令嬢。可憐で、涙もろく、「守ってあげたい」と男に思わせる才能がある。才能、と言ったのは皮肉ではない。あれは本物の技術だ。使用人の中に味方を作り、情報を操り、「無自覚な善意」を装って同情を集める手腕は、正直に言って侮れない。
「奥様は毎晩、地下室で怪しい儀式をなさっているそうですわ」
三年前に流された噂。怪しい儀式。まあ、血を使って羊皮紙に文様を描いている姿は、知らない者が見れば儀式に見えるだろう。否定はしなかった。否定したところで、信じてもらえる相手がいない。
◇◇◇
ペンが止まった。
最後の一画を書き終えた。羊皮紙の上で術式が淡く光り、光は地下室の壁を伝って——屋敷全体に、そして領地全体に、見えない膜のように広がっていく。
温かい光だ。冬星草の色に似ている。結界の内側だけに咲く、白い小さな花。
この光を、夫は見たことがない。マリアンヌも、使用人たちも。見えるのは術者である私と——十二年間、毎夜この地下室の前で待っていてくれた侍女のエルザだけ。
術式が完成した。今夜の結界は更新された。
これで——あと三日。
結界術の原理として、血を触媒にした古代結界は、術者が更新をやめてからおよそ三日で消失する。逆に言えば、更新を止めさえすれば、三日もすれば跡形もなく消える。
私は銀のペンを黒曜石のインク壺の隣に置いた。
ペンの冷たさが指先に残っている。真冬の井戸水のような冷たさ。十二年間、毎晩この冷たさを握っていた。夏も冬も、体調を崩した日も、夫がマリアンヌの部屋から戻ってくる足音が聞こえた夜も。
ふと、指が震えていることに気づいた。
痛みではない。寒さでもない。
十二年間、一度も休まなかった手が、「もう握らなくていい」と知って震えているのだ。
蝋燭の炎が揺れた。石壁に映る自分の影が、少しだけ小さく見えた。
三日後、この結界は消える。
三日で——引き継ぎを終え、痕跡を消し、この屋敷を出る。
手のひらを開いた。術式痕。十二年分の傷が、消えない模様のように刻まれている。どんな薬を塗っても消えない。結界術師の職業病のようなもの。
でも、消す気はなかった。
これは私の十二年間そのものだ。奪われたものも、差し出したものも、全部この手に刻まれている。
地下室の階段を上がる。扉の前にエルザが立っていた。白い寝間着姿。いつものように、温めた山羊乳を盆に載せて。
「お疲れさまでございました」
「ええ。——これが最後よ、エルザ」
エルザの手が、ほんの少しだけ震えた。盆の上の山羊乳の水面が揺れる。
でも彼女は泣かなかった。私も泣かなかった。
代わりに、いつものように山羊乳を受け取った。蜂蜜が少し多い。エルザなりの、精一杯。
温かかった。
——三日後。私はこの屋敷を出る。




