第57話「ヒーロー、真実を求める」
馬上のクラウス・フォン・シュミットは、まるで亡霊に追われているかのようだった。
彼の脳裏には、あの忌まわしい光景が焼き付いて離れない。
籠からこぼれ落ちる、真っ赤なリンゴ。
わっと泣き出す少女。
退屈そうに欠伸をする衛兵。
寸分違わず繰り返される、壊れた人形劇。
(……なんだ、あれは)
彼の完璧な世界が、音を立てて崩れていく。
自分が信じてきたこの世界の法則が、根底から覆されていくような、底知れない恐怖。
そして、その狂いの中心にいるのは、間違いなくあの少女だ。
エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン。
聖女か、悪女か。
そのどちらでもない、何か。
この世界の法則から逸脱した、唯一の存在。
(……彼女に会わなければ)
真実を知らなければならない。
たとえそれが、どれほど残酷なものであっても。
クラウスは馬の腹を、強く蹴った。
目的地は一つ。
ローゼンシュタイン家の前線指揮所。
あの少女がいる場所へ。
◇
その頃、指揮所では、疫病の好転の報せに、誰もが安堵の息をついていた。
しかし、それも束の間。
ジークフリート王国との開戦の危機という、新たな暗雲が、重く垂れ込めていた。
「……それで、エリーゼ」
お父様が、不安そうな顔で私に尋ねる。
「その『戦わずして勝つ』という策は、本当にあるのだな?」
(ありません!)
とはもちろん、言えるはずもなく。
私はただ、こくりと意味ありげに頷いてみせた。
その時だった。
「クラウス様がお見えになりました!」
騎士の報告とほぼ同時に、指揮所の入り口の幕が乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、泥だらけの軍服のまま息を切らした、クラウス様だった。
そのただならぬ雰囲気に、指揮所の空気が一瞬で凍りつく。
「クラウス卿! いったいどうしたというのだ!」
お父様が驚いて立ち上がる。
しかしクラウス様は、公爵であるお父様に一瞥もくれることなく、まっすぐに私だけを見つめていた。
そのアイスブルーの瞳は、これまでに見たこともないほど真剣で、そしてどこか怯えているようにすら見えた。
「……エリーゼ嬢」
彼は言った。
「少し、二人きりで話をさせていただきたい」
「なっ……! 無礼であろう!」
お父様が声を荒らげるが、クラウス様は引かなかった。
「緊急の用件です。お願いします、デューク」
そのあまりの気迫に、お父様は言葉を失ったようだった。
私は、隣にいるノエルの顔を、ちらりと見た。
ノエルは静かに、私にだけ分かるように、小さく頷いた。
「……分かりましたわ」
私は静かに立ち上がった。
「こちらへどうぞ」
◇
指揮所の片隅に設けられた、小さな個室。
そこには、私とクラウス様、そして私の”侍童見習い”として影のように控えるノエルの、三人だけがいた。
重い沈黙。
それを破ったのは、クラウス様だった。
彼は、まるで告解でもするかのように、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……道中、奇妙な村を見た」
「……奇妙な村?」
「ああ。そこでは、時間が狂っていた。いや、時間だけではない。そこにいる人間も、起きる出来事も、全てが……」
彼はそこで一度言葉を切ると、苦しげに顔を歪めた。
「……全てが、寸分違わず、”繰り返されて”いた」
(…………っ!)
私の心臓が、大きく跳ねた。
繰り返される時間?
まさか、この人……。
「籠からこぼれるリンゴ。少女の泣き声。衛兵の欠伸。数時間経った後も、全く同じ光景が目の前で繰り広げられた。まるで壊れた人形劇のように……あれは現実ではなかった。何かの幻術か、あるいはもっと恐ろしい何かだ」
そうだ。
間違いない。
彼は見てしまったのだ。
この世界の”バグ”を。
”管理者”が作り出した、偽りの世界の綻びを。
クラウス様は、震える声で続けた。
その瞳は、もはや私を試すような色ではなかった。
ただ必死に答えを求める、迷子の子供のような色をしていた。
「……この世界の何かがおかしい。そして、その狂いの中心に君がいると、私の魂が叫んでいる。君は、ただの子供ではない。聖女でも悪女でもない。もっと別の何かだ」
彼は私の両肩を掴んだ。
その手は強く、そしてわずかに震えていた。
「頼む、教えてくれ。君は一体、何者なんだ? そして、この狂った世界の真実を、どこまで知っている?」
ヒーローが”脚本”に疑問を抱き始めた。
いや、違う。
彼はもう、気づいているのだ。
自分が立つ、この”舞台”そのものが偽りであるという可能性に。
私とノエルは、顔を見合わせた。
彼の、あまりにもまっすぐな瞳。
そこに嘘はなかった。
あるのは、ただ純粋な真実への渇望だけ。
(……信じていいの?)
この物語の”ヒーロー”を。
私たちの”協力者”として引き入れても、いいのだろうか。
それは、あまりにも危険な賭け。
しかし。
「……彼も気づき始めたみたいだね」
ノエルが静かに呟いた。
「真実を知る覚悟ができた者にだけ、道は開かれる」
その言葉に、私は覚悟を決めた。
そうだ。
私たちは仲間が必要なのだ。
この巨大な”物語”と戦うための、仲間が。
「……分かりましたわ」
私はゆっくりと口を開いた。
「全てお話しいたします。この世界の”本当の姿”を」
ヒーローが目覚めようとしている。
それは、”管理者”にとって最大の誤算。
そして、私たちにとって新たな希望の始まりだった。




