第56話「ヒーロー、世界の”バグ”に気づく」
王都は今、目に見えない熱気に包まれていた。
北の軍事大国ジークフリート王国による、突然の軍事行動。
その一報は瞬く間に王城を駆け巡り、主戦論を叫ぶタカ派の貴族たちの声を日増しに大きくさせていた。
「ジークフリートの蛮行、断じて許すべからず!」
「今こそ、我が国の力を見せつける時!」
連日開かれる軍議の席は、勇ましい言葉で満ち溢れている。
その熱狂の中心に、クラウス・フォン・シュミットはいた。
純白の軍服に身を包み、ただ静かに地図を睨みつけながら。
(……戦)
その言葉を聞くと、彼の血が騒いだ。
剣を取り、馬に乗り、国を脅かす敵を討つ。
それこそが、騎士としての本懐。
ヒーローとしての”脚本”に刻まれた、正しい道。
早く戦場へ向かうべきだ。
そう、彼の本能が強く叫んでいた。
しかし。
彼の冷静なもう一人の自分が、その本能に待ったをかける。
脳裏に蘇るのは、あの銀色の髪の少女の姿。
エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン。
『戦わずして勝つ。それこそが真の勝利ではありませんこと?』
ローゼンシュタイン公爵から伝え聞いた、彼女の言葉。
あの少女は、この絶望的な状況下で、ただ一人、”戦”以外の道を模索しているという。
神の知恵を持つと言われる、あの少女が。
(……一体、何を考えているのだ)
クラウスの心は、二つに引き裂かれていた。
”ヒーロー”としての本能と、あの少女への”解明すべき謎”としての興味。
どちらが正しいのか、分からない。
この完璧なはずの自分の中で、初めて生じた明確な”矛盾”。
それが彼を、言い知れぬ焦燥感に駆り立てていた。
「―――クラウス卿」
国王陛下の静かな声に、彼は、はっと我に返った。
「はい、ここに」
「そなたに任がある。ローゼンシュタイン公へ、我が親書を届けてもらいたい」
「……はっ。して、その内容は」
「『王家は、ローゼンシュタイン家の判断を全面的に支持する』。そう伝えよ」
その言葉に、軍議の席がざわめいた。
タカ派の貴族たちが色めき立つ。
しかし陛下は、それを一瞥で黙らせた。
「……御意」
クラウスは深々と一礼すると、親書を受け取り、玉座の間を後にした。
◇
ローゼンシュタイン領へと向かう道中。
クラウスは馬を走らせながら、思考の海に沈んでいた。
陛下のご決断は賢明だ。
あの少女の”神算鬼謀”に賭けるというのか。
だが、もしその策が失敗すれば……。
その時だった。
馬を走らせていた彼の視界の端に、小さな村の広場の光景が映った。
何気ない日常の風景。
市場で野菜を売る女。
井戸端会議に花を咲かせる主婦たち。
そして、籠から真っ赤なリンゴを一つ落としてしまい、わっと泣き出した小さな少女。
その傍らで、退屈そうに欠伸を一つする衛兵。
本当にどこにでもある、平和な光景だった。
クラウスはその光景を一瞥すると、再び馬の速度を上げた。
数時間後。
ローゼンシュタイン家の屋敷に親書を届け、再び王都への帰路についたクラウスは、偶然、先ほどと全く同じ村を通りかかった。
(……ん?)
その時、彼は自分の目を疑った。
広場の光景。
市場で野菜を売る女。
井戸端会議に花を咲かせる主婦たち。
そして。
籠から真っ赤なリンゴが一つこぼれ落ちた。
少女がわっと泣き出した。
その傍らで、衛兵が退屈そうに欠伸を一つした。
「…………」
ぴたり、と。
クラウスは馬を止めた。
全身の血が凍りつくような感覚。
デジャヴ?
いや、違う。
これは、そんな生易しいものではない。
リンゴの転がる角度。
少女の泣き声の間。
衛兵が口を開けるタイミング。
全てが、寸分違わず先ほどと、”全く同じ”だった。
まるで壊れた人形劇を見せられているかのように。
同じ場面を、何度も何度も繰り返す、悪夢のような。
(……なんだ、これは)
彼の完璧な論理的思考が、目の前の非現実的な光景を理解することを拒絶する。
しかし、彼の騎士として鍛え上げられた超人的な観察眼は、その異常さを明確に捉えていた。
この世界の何かがおかしい。
何かが狂っている。
自分が信じてきた、この完璧な世界の法則が、今、目の前で音を立てて崩れていく。
そして、その狂いの中心にいるのは。
彼の脳裏に、再びあの少女の顔が浮かんだ。
聖女か、悪女か。
そのどちらでもない、何か。
この世界の法則から逸脱した、唯一の存在。
「……エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン」
クラウスは、誰に言うでもなく呟いた。
あの少女に会わなければならない。
そして、聞かなければならない。
君は、一体何者なのだ、と。
この狂った世界の真実を。
ヒーローは今、初めて、自らが立つ”舞台”そのものに、疑念を抱き始めていた。
それは、”管理者”にとって最大の誤算。
そして、私たちにとって、新たな希望の始まりだった。




