第54話「シナリオの反撃、第二波」
ミラの村に”女神のクッキー”が配られ始めてから、丸一日が経過した。
前線指揮所は依然として緊張感に包まれていたが、そこには昨日までとは明らかに違う種類の空気が流れ始めていた。
それは絶望ではなく、かすかな、しかし確かな”希望”だった。
「……報告します!」
隔離施設から戻ってきた一人の若い医師が、震える声で叫んだ。
「昨日クッキーを口にした患者たちの容態が、明らかに好転しております!」
「高熱が下がり始め、体から浮かび上がっていた黒い痣も薄くなっているとのこと!」
「魔力の回復速度も、緩やかではありますが、上昇を確認いたしました!」
「おお……! おお、なんと……!」
その報告を聞いた瞬間、指揮所は割れんばかりの歓声に包まれた。
誰もが抱き合い、涙を流し、そして一斉に、玉座に座る私に向かってひざまずいた。
「聖女様!」「エリーゼ様!」「女神様!」
彼らの熱狂的な感謝の声が、波のように押し寄せてくる。
その中心で、私はただ曖昧に微笑むことしかできなかった。
(……よかった)
正直に言って、ほっとした。
もしこれで何の効果もなかったら、どうしようかと、内心気が気ではなかったのだ。
前世の知識とゲームの記憶。
それが、この世界でも通用した。
その事実が、私に小さな自信を与えてくれた。
「……エリーゼ」
隣でノエルが静かに呟いた。
「……やったね」
「ええ」
私も小さく頷き返す。
私たちの最初の”反逆”は、成功したのだ。
”管理者”が望んだ悲劇のシナリオを、私たちは自分たちの手で書き換えた。
「さすがは我が娘だ!」
お父様が感極まったように私を抱きしめる。
「お前は、やはりこの領地の、いや、この国の救世主だ!」
「全てはエリーゼ様のお導きのおかげですわ!」
リリアーナ様も、涙ぐみながら私の手を握りしめた。
そうだ。
このままいけば、この疫病は完全に終息するだろう。
そしてまた、私の不本意な聖女伝説が、一つ増えるだけ。
それもまあ、仕方がない。
人の命には代えられないのだから。
そう、私が少しだけ安堵の息をついた、その時だった。
「も、申し上げます!」
指揮所の入り口から一人の騎士が、文字通り転がり込むように入ってきた。
その鎧は泥だらけで、顔は疲労と恐怖で真っ青だった。
王都から馬を飛ばし続けてきた伝令兵だ。
「ど、どうした! 何事だ!」
お父様が厳しい声で尋ねる。
そのただならぬ雰囲気に、指揮所の歓声が、ぴたりと止んだ。
伝令兵は震える声で叫んだ。
その一言は、私たちのささやかな勝利の喜びを一瞬で吹き飛ばす、新たな絶望の知らせだった。
「隣国のジークフリート王国が!」
「我が国で発生した『謎の疫病』の拡大を口実に、国境に軍を集結させ始めたとの報せが!」
「すでにその数、三万! 今にも国境を越えんとする勢いとのことです!」
「な……なんだと……!?」
お父様の顔から血の気が引いていく。
周りの騎士たちも息を呑む。
ジークフリート王国。
好戦的で知られる、北の軍事大国。
彼らが動いた?
疫病を口実に?
馬鹿な!
ミラの村は国境から遥か南だ。
彼らに脅威が及ぶはずがない。
これは明らかに、侵略のための口実……!
誰もが混乱し、怒りに震える中。
ただ二人だけが、その言葉の本当の意味を理解していた。
「……エリーゼ」
ノエルが私の手をぎゅっと握った。
その手は、氷のように冷たかった。
「……第二波だ」
「ええ……」
そうだ。
これは、ただの国際問題ではない。
”シナリオの反撃”、第二波。
(……そういうことなのね)
疫病のイベントが、私たちの手によって阻止された。
だから、”管理者”は次の手を打ってきたのだ。
物語をよりドラマチックに、そして悲劇的にするための、新たな舞台装置。
”戦争”という、最悪のカードを。
乙女ゲームのシナリオにありがちだ。
悲劇的な戦争の中で、ヒーローとヒロインの絆が深まるという展開。
そのために今、多くの兵士たちが、死の淵へと追いやられようとしている。
(……ふざけないで)
私の心の奥底から、静かな、しかし燃えるような怒りがこみ上げてきた。
人の命を、何だと思っているの。
あなたのくだらない物語のために、これ以上、誰かを犠牲にさせて、たまるものですか。
「……お父様」
私は静かに立ち上がった。
その声は、自分でも驚くほど冷たく、そして澄んでいた。
「……その戦、わたくしが止めますわ」
「な、エリーゼ!? お前、何を言って……!」
周りの大人たちが何を言っていても、もう私の耳には入らなかった。
私の目には、ただ目の前に立ちはだかる巨大な”敵”の姿だけが見えていた。
疫病だけではない。
戦争。
この世界そのものを、人質に取られたのだ。
私が戦うべき相手は、もはや”破滅フラグ”などという、ちっぽけなものではなかった。
この世界の”神”そのものだった。




