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第53話「女神のクッキー」

(……わたくし、本当に、何をやっているのかしら)


 前線指揮所は、今や甘い香りに満ちていた。

 バターと小麦粉が焼ける香ばしい匂い。

 そして、ほのかに香る薬草の爽やかな香り。

 疫病が蔓延する地獄のようなこの場所には、あまりにも不釣り合いな、平和で幸せな匂いだった。


 私の”ご神託”……もとい、クッキー大量生産命令は、驚くべき速さで実行に移されていた。

 お父様の号令一下、領都中のパン屋と菓子屋が総動員され、この前線指揮所の一角に、巨大な野戦パン工房ならぬ野戦クッキー工房が設営されたのだ。

 屈強な騎士たちが汗だくで小麦粉をこね、メイドたちが慣れた手つきで生地を成形していく。

 その光景は、あまりにもシュールで、現実感がなかった。


「エリーゼ様!」


 その喧騒の中で、一台の馬車が猛スピードで到着した。

 息を切らしながら馬車から降りてきたのは、この作戦のキーパーソン。

 リリアーナ様だった。


「お呼びとお聞きしましたわ! わたくしに何かできることがあるのでしょうか!?」

 彼女は私の前に駆け寄ると、そのアメジストの瞳を期待に輝かせた。

 その手には、いつも大切そうに抱えている古い薬草の本が握られている。


(……来たわね)


「ええ、リリアーナ様」

 私は努めて冷静に、そして指揮官らしい威厳を込めて尋ねた。

「あなたのご実家のある地方にしか自生しない特別な薬草があると、お聞きしましたわ」

「”月雫草つきしずくそう”という名前の」


「まあ!」

 リリアーナ様は驚いたように目を見開いた。

「月雫草をご存知なのですか!? ええ、ございますわ! わたくしの故郷では、滋養強壮のお茶として、古くから飲まれている薬草です!」


(……ビンゴ!)


 ゲームの記憶は正しかった。

 私は続ける。


「その薬草には、微量ながら魔力を活性化させる効果があるとも」

「……っ! そ、そのことまでご存知だなんて……! さすがはエリーゼ様ですわ!」


 リリアーナ様は、もはや感動のあまり言葉もないというように、私を見つめている。

 その瞳には、絶対的な尊敬の光が宿っていた。


「その月雫草が、今、必要なのですわ」

「はい! もちろんですわ! 幸い、いくつか乾燥させたものを持ち合わせております!」


 リリアーナ様はそう言うと、すぐに従者に命じて、自分の荷物の中から小さな布袋を持ってこさせた。

 袋の中には、月の光を浴びて青白く輝く、不思議な薬草が入っていた。


「素晴らしいわ、リリアーナ様。あなたは、この領地の救世主ですわ」

「そ、そんな! わたくしなど、エリーゼ様のお力になれるのなら、それだけで……!」


 謙遜する彼女に、私はきっぱりと告げた。

「いいえ。これは、あなたにしかできないことですの」

「この薬草をすり潰し、クッキーの生地に混ぜ込むのです。その調合は、あなたに一任いたしますわ」


「は、はい! 承知いたしました!」


 こうして、リリアーナ様は、”女神のご神託を実現するための聖女”という新たな役職を得て、クッキー工房の責任者に就任した。

 彼女は、水を得た魚のように、生き生きとメイドたちに指示を飛ばし始めた。

その姿は、もはやただの気弱な令嬢ではなかった。

 人々を救うという使命感に燃える、本物の”ヒロイン”の姿だった。


 そんな喧騒を、少し離れた場所から、私とノエルは静かに眺めていた。


「……すごいね、君は」

 ノエルが、ぽつりと呟いた。

「シナリオの主役であるヒロインまで、自分の筋書きに巻き込んでしまうなんて」


「……皮肉かしら?」

「まさか。最高の褒め言葉だよ」

 ノエルは静かに首を横に振った。

「君は、”管理者”が用意した舞台装置を逆手に取って、全く違う物語を作ろうとしている。これは、これまで誰もやらなかったことだ」


 その言葉に、私の胸が少しだけ熱くなった。

 そうだ。

 これは、私の戦いなのだ。

 悪役令嬢として破滅するという、ちっぽけな目標ではない。

 この不条理な世界そのものへの反逆。


「……見てなさいな」

 私は誰に言うでもなく、呟いた。

「わたくしは、絶対にあなたの思い通りにはならないわよ、”管理者”さん」


 やがて、最初のクッキーが焼きあがった。

 こんがりときつね色に焼かれた、素朴な形のクッキー。

 しかし、その中には、私たちの”反逆”の意志が込められている。


「……エリーゼ様」

 リリアーナ様が、焼きあがったばかりのクッキーを一枚、私の元へと持ってきた。

「……味見をお願いできますでしょうか」


 私は、その温かいクッキーを受け取ると、一口かじった。

 サクサクとした食感。

 優しいバターの風味。

そして、後からふわりと香る、月雫草の爽やかな香り。

 それは、今まで食べたどんな豪華なお菓子よりも、美味しく感じられた。


「……ええ。素晴らしい出来栄えですわ」

 私は、にっこりと微笑んだ。

「これなら、きっと大丈夫」


 その言葉を合図に、焼きあがったクッキーは次々と籠に詰められ、兵士たちの手によって、村の人々へと配られていく。

 病に苦しむ者へも、まだ健康な者へも、平等に。


 ”シナリオ”が望んだ悲劇。

 それに対する私たちの答え。

 それは、ご都合主義的な奇跡のアイテムなんかじゃない。

 みんなで知恵を出し合い、力を合わせ、そして祈りを込めて焼き上げた、温かくて甘いクッキー。


 その小さな一枚が、本当に奇跡を起こすのか。

 それとも、全ては無駄な足掻きに終わるのか。

 答えは、まだ誰にも分からなかった。

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