第47話「世界の”物語”」
「……あなたこそ、一体何者なの……?」
私の震える声が激しい雨音にかき消されそうになった。
もはや虚勢を張る気力もなかった。
目の前のこの少年は私の秘密を知っている。
いやそれ以上の何かを知っている。
その静かな黒い瞳がそう物語っていた。
ノエルはゆっくりと私に向き直った。
その黒い瞳の奥に初めて憐憫でも好奇心でもない、何か別の色が浮かんでいた。
それはまるで長い長い旅の果てに、ようやく同じ言葉を話せる相手と出会えたかのようなそんな色だった。
「……君こそ誰なんだい?」
彼はぽつりとそう問い返してきた。
「”エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン”の中にいる君は」
(…………っ!)
そのあまりにも的確な問いに、私の呼吸が止まった。
そうだ。
この子は分かっている。
私がこの世界の人間ではないことを。
「……面白いことを言うのね」
私はかろうじてそう言い返した。
これは探り合いだ。
彼が何をどこまで知っているのかを見極めなければ。
「あなたにはわたくしが、他の誰かにでも見えるというのかしら?」
「見えるよ」
ノエルは淡々と答えた。
「君はこの”物語”の登場人物じゃない」
(……物語!)
その言葉。
私がこの世界に来てからずっと心の中で使い続けてきたその言葉を、この少年が口にした。
私の心臓が大きく脈打つ。
「……何のことですの?」
私は必死に平静を装った。
「ここは現実ですわ。お話の中なんかじゃありません」
「そうかい?」
ノエルは静かに首を傾げた。
「じゃあなぜ君は”悪役令嬢”の役を演じているんだい?」
「なぜ君は”断罪”されることを望んでいる?」
(…………!)
だめだ。
この子には何も隠せない。
私の心の奥底まで全て見透かされている。
「……あなたも”転生者”なの?」
私は震える声で尋ねた。
それは私がずっと誰かに聞いてみたかった言葉だったのかもしれない。
かすかな、本当に、かすかな希望を込めて。
「似たようなものだよ」
ノエルは少しだけ遠い目をした。
その瞳はまるで何百年も先の未来を見ているかのようだった。
「僕は、この物語が始まるずっと前からここにいる。そしてこの物語が何度も何度も繰り返されているのを、ただ見てきた」
「……繰り返されている?」
その言葉は私の知らない情報だった。
「そう。まるで壊れたレコードのようにね。少しずつ登場人物が入れ替わったり、細かい筋書きが変わったりはするけれど、大筋はいつも同じ」
「”ヒロイン”が現れ、”ヒーロー”と恋に落ち、そして”悪役令嬢”が断罪される物語」
(……やっぱり)
私の背筋を冷たい何かが走り抜けた。
この世界はやはりあの乙女ゲーム『煌めきのソネット』の世界なのだ。
そして私はその中で”悪役令嬢”という役割を与えられたただの駒。
何度繰り返しても最後には必ず破滅する運命。
「でも君が現れたことで全てが変わった」
ノエルは私をまっすぐに見つめた。
その瞳には初めて確かな熱が宿っていた。
「君は初めて脚本に逆らった役者だ。だから物語がどんどんおかしくなっている」
「これはチャンスなんだよ」
「……チャンス?」
「そう。この退屈で終わりのない物語を終わらせるチャンスだ」
その黒い瞳に初めて強い光が宿る。
「そのためにはこの物語を書いている”誰か”……脚本を管理している”管理者”を見つけ出さなければならない」
(……管理者)
その言葉の響きに私はゴクリと息を呑んだ。
そうだ。
この世界の外にいる何者か。
私たちを人形のように操っている存在。
私に”悪役令嬢”という役割を押し付けた全ての元凶。
「どうすればいいの……?」
私の口から自然と言葉がこぼれた。
それは助けを求める言葉だった。
この世界に来て初めて誰かに本当の意味で助けを求めた瞬間だった。
ノエルは初めてほんの少しだけ笑ったような気がした。
それはようやく仲間を見つけた子供のような、不器用な、そしてどこか安堵したような笑みだった。
「まずは”シナリオの綻び”を探すんだ」
「……綻び?」
「そう。どんなに完璧な物語でも必ずどこかに矛盾や設定の食い違いがあるはずだ」
「特に君が脚本をめちゃくちゃに書き換えてしまった今ならなおさらね」
「例えばこの国の歴史書とか。古い記録とか。そういう場所に”管理者”の手がかりが隠されているかもしれない」
歴史書。
古い記録。
そうだわ。
ローゼンシュタイン家の書庫にはそれこそ国宝級の古文書が、山のように眠っている。
そこになら何かヒントが……!
「……分かったわ」
私はゆっくりと頷いた。
心の中にあった重い鉛のような恐怖はいつの間にか消え去っていた。
その代わりにそこには今まで感じたことのない、小さな、しかし確かな”希望”の炎が灯っていた。
初めて見つけた同類。
初めて出会った理解者。
私はもう一人じゃない。
私はそっとノエルに手を差し出した。
小さな五歳の子供の手。
しかしその手には今、この世界の運命を変えるという、とてつもなく大きな決意が込められていた。
「……わたくしはエリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン」
私は改めて名乗った。
それはもはや悪役令嬢としての偽りの名前ではなかった。
この世界で戦うことを決めた一人の人間としての名前だった。
「これからよろしくね。……協力者さん」
ノエルは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そしてすぐにふっと息を吐くと私の手をそっと握り返した。
彼の手は少し冷たくそして固かった。
それはずっと一人で戦ってきた者の手だった。
「……ああ。よろしく、エリーゼ」
その瞬間だった。
「エリーゼ様! どちらにいらっしゃいますかー!」
遠くからマリーの心配そうな声が聞こえてきた。
はっとして私たちは同時に手を離す。
まるで悪いことをしていた子供のように。
「……来たみたいだね」
「……ええ」
私たちは顔を見合わせそして小さく頷いた。
言葉はいらなかった。
今日この日この場所で、この世界で最も孤独な二人の秘密の同盟が結ばれた。
私の孤独な戦いは今終わりを告げた。
そしてここから本当の”物語”を始めるための戦いが、始まろうとしていた。




