第46話「雨宿りの告白」
あれから数日が過ぎた。
私の心は一日として休まることがなかった。
夜ベッドに入ってもすぐに眠ることはできず、ただ天井の闇を見つめながら同じ問いを繰り返すだけ。
『あなたは本当は、子供じゃないんでしょう?』
あの静かな声が耳の奥にこびりついて離れない。
ノエル。
あの少年は一体何者なのか。
その得体の知れない恐怖がまるで重い鉛のように、私の胸にのしかかっていた。
そんなある日の午後。
私の部屋の扉が控えめにノックされた。
「……失礼いたします、エリーゼ様」
音もなく現れたのは影の従者フェリックスだった。
「先日ご命令いただいた件について、ご報告に上がりました」
(……来た!)
私の心臓がどくんと大きく跳ねた。
私は侍女たちを全て部屋から下がらせると、フェリックスを手招きした。
「……それで? 分かったかしら?」
私の声が自分でも分かるほど上ずっている。
「はっ」
フェリックスは恭しく一礼すると、淡々と報告を始めた。
しかしその内容は私の期待とは大きくかけ離れたものだった。
「……ノエル、八歳。両親不明。出身地も不明」
「……は?」
「彼があの孤児院に現れたのは今からおよそ一年前。嵐の降る夜にただ一人で門の前に立っていたとのことです」
「院長がどこから来たのか尋ねても、何も答えなかったと」
「それ以前の記録は一切ございません。まるでその日にこの世に生まれてきたかのようです」
(……記録がない?)
私の背筋を冷たい汗がつうと伝っていく。
どういうこと?
そんなことありえるはずがない。
「普段の生活は?」
「他の子供たちと積極的に関わることはなく、いつも一人で本を読んでいるか空を眺めているか。ただ時折まるで未来でも予知したかのように、他の子供の怪我を未然に防いだり院の備品が壊れることを言い当てたりすることがあるとか」
「院長は『少し変わった子ですが、賢くて手のかからない子です』と」
(……変わった子ですって?)
違う。
断じて違う。
それは”変わっている”などという生易しいレベルの話ではない。
この少年は異常だ。
あまりにも異質すぎる。
私の混乱をよそにフェリックスは、どこか誇らしげに報告を締めくくった。
「……以上が現時点で判明した全てです」
「やはりエリーゼ様のお見立て通り、あの少年ただ者ではございませんな」
「まさにダイヤの原石。今のうちに保護し英才教育を施すべきかと!」
(だから違うのよ!)
私の心の悲鳴も虚しく、この忠実すぎる従者は完全に勘違いのレールの上を爆走していた。
もう何を言っても無駄だった。
「……ご苦労様。下がっていいわ」
「はっ!」
フェリックスが去った後。
私は一人部屋で腕を組んだ。
謎は深まるばかり。
こうなったらもう腹を括るしかない。
(……もう一度会うしかないわね)
逃げていては埒が明かない。
直接本人に会って探りを入れる。
彼が何をどこまで知っているのかを。
そしてもし本当に私の秘密を知っているのなら……。
(……その時はその時よ)
私は覚悟を決めた。
翌日、私はお父様にこう申し出た。
「先日わたくし孤児院で少々失礼な態度をとってしまいましたわ」
「ローゼンシュタイン家の人間としてこのままでは示しがつきません。もう一度慰問に伺い、子供たちと”交流”してまいります」
その言葉をお父様が、「なんと殊勝な心がけだ!」と涙ながらに感動していたことは言うまでもない。
◇
再び訪れた孤児院。
しかし私が探している少年の姿はどこにもなかった。
院長先生に尋ねると、彼はよく裏庭の大きな樫の木の下で本を読んでいるという。
私はお父様たちの監視の目を盗んで、一人裏庭へと向かった。
古い石畳の小道を進むと、果たしてその少年はいた。
大きな樫の木の根元にもたれかかり、静かに分厚い本を読んでいた。
その姿はまるで一枚の絵画のように静かで、そしてどこか寂しげだった。
私が近づいていく足音に気づいたのか、ノエルはゆっくりと顔を上げた。
その黒い瞳がまっすぐに私を捉える。
何の驚きもない。
まるで私がここに来ることが、最初から分かっていたかのようだった。
先に口を開いたのは彼の方だった。
「……答えを探しに来たのかい?」
その声はどこまでも平坦で、何の感情も含んでいなかった。
(……やっぱりこの子、普通じゃない)
普通の子供なら公爵令嬢が自分を訪ねてきたというだけで、大騒ぎするはずだ。
しかし彼はまるで旧知の友人と再会したかのように、ごく自然に私を受け入れている。
「……何のことですの?」
私は努めて冷静に尋ねた。
ここで動揺を見せてはいけない。
「とぼけなくてもいいよ」
ノエルは静かに本を閉じると、ゆっくりと立ち上がった。
「君は僕が何者なのか知りたい。そして僕がなぜあんなことを言ったのか、その理由が知りたい。違うかい?」
(……完全に見透かされている)
私の心の中をまるで本でも読むかのように、正確に言い当ててくる。
私はごくりと喉を鳴らした。
「……ええ、そうよ」
もはや隠しても無駄だと悟った。
「あなた、一体何者なの? なぜわたくしが”子供ではない”なんて思ったのかしら?」
私が核心に迫ろうとしたその瞬間だった。
ざあと。
突然強い風が吹き抜け、空がみるみるうちに暗い雲に覆われていく。
そしてぽつりぽつりと大粒の雨が降り始めた。
「きゃっ!」
雨は一瞬で激しい土砂降りへと変わった。
孤児院の建物まで戻るには少し距離がある。このままではずぶ濡れになってしまう。
「……こっちだ」
ノエルは静かに庭の隅にある古い東屋を指差した。
私は選択の余地なく彼と二人きりで雨宿りをすることになった。
それもこんな狭い空間で。
最悪だった。
ざあざあと激しい雨の音だけが響く。
奇妙な沈黙。
それを破ったのはノエルの方だった。
「……君は大変そうだね」
「……え?」
「いつも何かを演じている。本当の自分を隠して、別の誰かとして生きているみたいだ」
「周りのみんなは君が演じているその”役”を信じて疑わない。でも君だけが知っている。それが全部嘘だってことを」
(…………っ!?)
私の呼吸が止まった。
役?
嘘?
この少年は何を言って……。
「君は、まるで違う脚本を読んでいるみたいだ」
「だから他の登場人物たちと会話が噛み合わない」
ざあと。
激しい雨音が遠ざかっていく。
私の世界から音が消えていく。
この少年は。
このたった八歳の少年は。
知っている。
この世界の”秘密”を。
そして私の”孤独”の正体を。
わたくしが”転生者”であるという、その事実を。
「……あなたは」
震える声で私は尋ねた。
もはや虚勢を張る気力もなかった。
「あなたこそ、一体何者なの……?」
ノエルはゆっくりと私に向き直った。
その黒い瞳の奥に初めて憐憫でも好奇心でもない、何か別の色が浮かんでいた。
それは同類を見つけた者の色だった。




