第43話「あなたは、誰?」
(…………え?)
私の心臓が大きく軋んだ。
まるで見えない手でぎゅっと鷲掴みにされたかのように。
この少年は。
このたった八歳の少年は。
私の心の奥の奥、分厚い分厚い鉄の扉の向こう側に、誰にも見せたことのない本当の姿を。
この世界に来てからずっと必死で隠し続けてきた、”ただのしがない会社員だった弱い自分”を。
見ている。
その静かな瞳で見抜いている。
「……何を、馬鹿なことを」
かろうじて私の口からこぼれ落ちたのは、そんなありきたりな否定の言葉だけだった。
声が震えていないだろうか。
顔が引きつっていないだろうか。
もはや自分でも分からなかった。
自分の身体の感覚が急速に失われていく。
「わ、わたくしがこんなことをしたくないですって? 笑わせないでくださる?」
「人の悲しむ顔を見るのが、わたくしの何よりの喜びですのに!」
必死に虚勢を張る。
練習してきた悪役令嬢としての台詞を、ただオウムのように繰り返す。
しかしその言葉はまるで乾いた砂のように、ぱらぱらと虚しく床にこぼれ落ちていくだけだった。
目の前の少年には全く響いていない。
彼のあまりにも静かな黒い瞳がそう物語っていた。
その瞳はまるでどんな嘘も見通してしまう、真実の鏡のようだった。
「こ、こら! ノエル!」
ようやく我に返った院長先生が、慌てて私とノエルの間に割って入った。
その顔はもはや恐怖で真っ青だ。
「なんて失礼な物言いを! 聖女様にお詫びなさい!」
「……いいのですわ」
私は院長先生を片手で制した。
声が自分でも驚くほど低く冷たく響いた。
ここで逃げてはダメだ。
ここでこの生意気な小僧から目を逸らしたら私の負けだ。
悪役令嬢としてのちっぽけなプライドが許さない。
いやそれ以前に。
この少年の正体を確かめなければならないという強烈な好奇心と、そして得体の知れない恐怖が私をその場に縫い付けていた。
私はゆっくりとノエルの前へと一歩近づいた。
彼と私の距離はもうほとんどない。
間近で見る彼の瞳はやはり子供のそれとは思えなかった。
まるで何十年も何百年も生きてきた老人のような、深い深い色をしていた。
「……あなた、何者ですの?」
私は囁くように尋ねた。
「なぜわたくしがこんなことをしたくないと、思ったのかしら? その根拠をお聞かせ願える?」
ノエルは少しも臆することなく私の問いに淡々と答えた。
その声もまた囁くように静かだった。
「だってあなたが、あのお人形を床に落とした時」
「あなたの顔は、誰よりも悲しそうだったから」
「……っ!」
(見られていた!)
(あの一瞬の表情を、この子に見られていたというの!?)
私の心臓が冷水を浴びせられたかのように凍りつく。
そうだ。
あの時私は確かに悲しいと思った。
前世でけして裕福ではなかった自分が、欲しくても手に入れられなかった美しい人形。
それを自らの手で壊してしまったことへの罪悪感と自己嫌悪。
ほんの一瞬、ほんのコンマ一秒にも満たない心の揺らぎ。
それをこの少年は正確に、そして完璧に読み取っていたのだ。
「……考えすぎですわ」
私はかろうじてそう言い返した。
「あなたにはそう見えたというだけのこと。子供の勘違いですわ」
「そうかな」
ノエルは小さく首を傾げた。
その仕草だけは年相応に見えたが、その瞳の光は全く子供のものではなかった。
「あなたはとても上手に嘘をつく。でもあなたの瞳は正直だ」
「あなたは、ずっと何かと戦っているように見える」
「本当の自分と、必死に戦っているみたいに」
(……もうやめて)
私の心の鎧が一枚また一枚と音を立てて剥がされていく。
この少年との会話は危険すぎる。
これ以上続ければ私の秘密が全て暴かれてしまう。
この世界で生きていくために必死で作り上げた、”悪役令嬢エリーゼ”という仮面が完全に砕け散ってしまう。
もうたくさんだった。
この忌々しい慈善事業も、この生意気な小僧との問答も。
「……もう結構ですわ」
私は冷たく言い放った。
「帰りましょう、お父様」
「え、あ、ああ……」
控えていたお父様が、このただならぬ空気に戸惑ったように頷く。
私がくるりと踵を返しその場を立ち去ろうとした、その瞬間だった。
背後からノエルの静かな、しかし私の心臓を鷲掴みにするような言葉が飛んできた。
それは問いかけの形をした、断罪の刃だった。
「……ねえ」
「君は本当は、子供じゃないんでしょう?」
ぴたりと。
私の足が床に縫い付けられたように止まった。
全身の血が急速に冷えていく感覚。
頭の中が真っ白になる。
周りの音が全て消え去り、ただ自分の心臓の音だけが大きく大きく響いていた。
今。
この少年は、なんて言った?
私はまるで錆びついたブリキの人形のように、ぎぎぎとゆっくり音を立てて振り返った。
ノエルは相変わらずの無表情で、ただじっと私を見つめていた。
その瞳はもはや子供のそれではない。
全てを知る賢者のそれだった。
私の最大の秘密が。
この世界でただ一人私が抱え続けてきた、絶望的な孤独の正体が。
今この名も知らぬ孤児の少年の前で、完全に暴かれようとしていた。




