第40話「復讐の誓い」
その日、グリム家の壮麗な屋敷は死んだ。
主を失った巨大な伽藍洞。
あれほど昼も夜も人の往来が絶えることのなかった大理石の長い廊下は、今や墓所のように静まり返り、使用人たちのひそやかな足音だけが虚しく響いている。
誰もが顔を伏せ、決して互いに視線を合わせようとはしない。
言葉を交わすこともない。
まるでこの屋敷そのものが巨大な棺桶となってしまったかのようだった。
ヴィクトール・フォン・グリム伯爵の失脚。
その衝撃的なニュースは瞬く間に王都を駆け巡り、人々は口々にこう噂した。
正義は為されたと。
国を救った聖女の輝かしい勝利だと。
誰もがローゼンシュタイン家の栄光を称え、グリム家のあまりにも無様な没落を嘲笑った。
しかしその死んだ屋敷の一室で。
ただ一人。
そのあまりにも陳腐な結末を、冷ややかに見つめている女がいた。
「…………」
イザベラ・フォン・グリムは一人、薄暗い自室の鏡の前に座っていた。
その恐ろしいほど美しい顔には何の感情も浮かんでいない。
悲しみも怒りも絶望も。
まるで精巧に作られたビスクドールのように、ただ静かに鏡の中の自分を見つめているだけだった。
窓の外から聞こえてくる遠い街の喧騒が、今はひどく耳障りだった。
(……本当に愚かな人)
彼女は内心で冷たく吐き捨てた。
夫だった男のことを思う。
玉座の間で見苦しく命乞いをし、最後には子供のような呪詛の言葉を吐きながら引きずられていったという、あの無様な男。
あれが自分の夫だったとは、もはや思い出したくもなかった。
(だからあれほど申し上げたではありませんか)
(あの小娘はただの子供ではない。あれは”怪物”なのだと)
小細工など通用しない。
正面から挑んで勝てる相手ではない。
そうあれほど忠告したというのに。
あの人は結局己のちっぽけなプライドと短絡的な怒りに身を任せ、全てを失った。
自業自得。
哀れむ価値すらない。
彼女の脳裏に浮かぶのは、あの銀色の髪の幼い少女の姿。
エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン。
あの少女だけがこの茶番劇の中で唯一、自分と同じ種類の人間だった。
”怪物”。
ただ自分よりも遥かに狡猾で、そして遥かに”上手”な役者。
(インクの成分分析……おとり捜査……)
イザベラは報告書に書かれていた言葉を反芻する。
あれが本当に五歳の子供の発想だというのか。
信じられるはずもない。
あれは全て計算され尽くした筋書き。
自分たちの罠を逆手に取り、そして完膚なきまでに叩き潰すための完璧なシナリオ。
あの少女は全て分かっていたのだ。
自分たちがどう動くのかを。
そしてどうすれば自分たちが最も惨めな形で破滅するのかを。
(……ええ、ええ。ええ、そうよ)
イザベラの唇がゆっくりと三日月のように歪んだ。
それはぞっとするほど美しく、そしてどこまでも残酷な笑みだった。
鏡の中の自分と目が合う。
その瞳の奥で暗く冷たい復讐の炎が、静かに、しかし決して消えることなく燃え上がっていた。
(あなたの勝ちよ、エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン)
(ええ、”今回は”、ね)
夫は失った。
家の名誉も地に落ちた。
しかしイザベラ自身は罪に問われてはいない。
ヴィクトールが全ての罪を一人で被る形で幕引きとなったのだ。
あの愚かな男が最後に果たした唯一にして最大の役目だった。
そう。
何も終わってはいない。
むしろここからが”始まり”なのだ。
盤上の邪魔な駒は全て片付いた。
今度こそ自分自身のやり方で、このゲームを始められる。
(見てなさいな、聖女様)
イザベラはゆっくりと立ち上がると、部屋の隅にある小さな黒檀の宝石箱を開けた。
その中にはきらびやかな宝飾品ではなくただ一つ。
黒曜石で作られた二匹の蛇が互いに絡みつく意匠の指輪が、静かに納められていた。
それは彼女がグリム家に嫁ぐずっと以前から、彼女の実家”夜の侯爵家”と裏社会で呼ばれた一族に代々伝わる当主の印。
(あなたが築き上げたその輝かしい伝説)
(あなたが手に入れたその偽りの名声)
(あなたが信じるそのくだらない絆とやら)
彼女はそのひやりと冷たい指輪を、そっと自分の白い指にはめた。
まるでずっと失っていた自分の一部を取り戻したかのように、その指にしっくりと馴染んだ。
(その全てをこのわたくしが自らの手で粉々に砕いて差し上げますわ)
(本当の絶望とは何かを、その小さな体に骨の髄まで教えてあげる)
コン、コン。
控えめなノックの音がして、影のような執事が音もなく部屋に入ってきた。
彼はイザベラのその指にはめられた指輪を一瞥するとわずかに目を見開き、そしてより深く頭を垂れた。
「奥様。……いえ、”我が君”。全ての準備が整いました」
「そう」
イザベラはゆっくりと振り返った。
その顔にはもはや何の迷いもない。
あるのは復讐というただ一つの目的のためだけに生きることを決めた、女の鋼の覚悟だけだった。
「では参りましょうか」
彼女は静かに言った。
「次の舞台の幕開けですわ」
ヴィクトールの失脚は終わりではなかった。
それは真の悪意がそのベールを脱ぎ捨て、エリーゼの前に姿を現すためのほんの序曲に過ぎなかったのだ。
物語は今、第一部を終え、より深く暗い第二部へとその血塗られた幕を開けようとしていた。




