第38話「罠、発動」
(……もうわたくし知りませんから)
固く固く閉ざした唇。
それは私の悲壮な決意の表れだった。
あの忌々しい「神の一手」事件以来、私は一切の発言を禁じることにしたのだ。
お父様が何かを尋ねてきてもこくりと頷くか、ふるふると首を横に振るだけ。
リリアーナ様が「エリーゼ様、新しくハーブクッキーが焼きあがりましたわ。気分転換にいかがです?」と持ってきてくれても、にっこり(無理やり口角を限界まで引き上げて)微笑んで受け取るだけ。
これ以上余計なことを言って墓穴を掘るものですか。
私のこの鉄の意志の前に、もはやどんな勘違いも生まれるはずがない。
そう信じていた。
心のシャッターをガラガラと下ろして、外界との接触を断つのだ。
「……さすがはエリーゼ様ですわ」
隣でリリアーナ様がうっとりとしたため息をついた。
「どっしりと構えていらっしゃる。まるでこの戦の全てを見通しているかのよう……。少しも動じないそのお姿、本当に頼もしいですわ」
(違います! ただ喋らないように全神経を集中させているだけです!)
「うむ」
お父様も満足げに頷く。
その瞳にはもはや親バカの色はない。
ただ畏敬の念だけが浮かんでいる。
「大将たるもの多くを語るべからずか。戦の前に心を静め、ただ静かに天命を待つ。エリーゼよ、お前はいつの間にそのような将の器まで持っていたのだな……」
(持ってません! 断じて! わたくしはただ現実逃避しているだけです!)
だめだ。
喋らなくてもダメだった。
私の沈黙すらこの超絶ポジティブ解釈の世界では、「全てを見通す将軍の風格」に変換されてしまうらしい。
もう私に打つ手は残されていなかった。
私はもはやただの置物。
この作戦司令室に鎮座する幸運の女神(という名の絶望の象徴)。
そんな地獄のような時間がどれくらい続いただろうか。
作戦司令室と化した執務室の重厚な扉が、静かに、しかし素早く開かれた。
入ってきたのは影のように気配を消したフェリックスだった。
そのいつもは真面目なだけの顔に、今は抑えきれない興奮と極度の緊張の色が浮かんでいる。
彼の息遣いだけが部屋の張り詰めた静寂の中で、やけに大きく聞こえた。
「……閣下」
フェリックスはお父様の耳元で何かを囁いた。
それを聞いたお父様の顔つきが一瞬で変わる。
親バカの顔から百戦錬磨の将軍の顔へ。
その瞳がカッと見開かれた。
「……来たか」
その短い一言で部屋の空気がぴんと張り詰めた。
私もリリアーナ様も息を呑んで二人を見つめる。
エリーゼ様の「神の一手」……もといおとり捜査作戦は、着々と進行していた。
フェリックスの部下たちが「偽造屋を捕らえた」という偽の情報を、街の酒場や市場でそれとなく流す。
その噂は必ずグリム家の密偵の耳にも入るはず。
問題は敵がそのあまりにもあからさまな餌に食いつくかどうか。
「……食いつきました」
フェリックスが静かに、しかしはっきりと告げた。
その声は興奮でわずかに震えている。
「先ほど”偽の偽造屋”を拘束している街外れの隠れ家に、正体不明の賊が三人侵入」
「我らが騎士団と交戦の末、全員無傷で捕縛いたしました」
「おお!」
お父様が思わずといったように声を上げる。
その拳が強く握りしめられた。
「賊の所持品からこれを」
フェリックスは懐から布に包まれた何かを取り出すと、机の上に置いた。
広げられた布の上には一本の美しい、しかしどこか禍々しい装飾が施された短剣があった。
その柄には見間違えようもないグリム家の紋章が刻まれている。
「さらに捕らえた賊の一人が口を割りました」
フェリックスはそこで一度言葉を切ると、勝利を確信した声で続けた。
「『グリム家の執事より、偽造屋の口を封じよと命令された』と」
決まった。
決定的だった。
それはグリム家がこの一連の事件の黒幕であるという、動かぬ証拠。
言い逃れは絶対にできない。
「よくやった、フェリックス!」
お父様がフェリックスの肩を力強く叩く。
「まあ……! よかったですわエリーゼ様!」
リリアーナ様が安堵と喜びで涙ぐみながら、私の手をぎゅっと握りしめた。
部屋は歓喜に包まれた。
長かった悪夢のような戦いがついに終わったのだ。
私の潔白は証明され悪は裁かれる。
めでたしめでたし。
(…………)
……じゃないのよおおおおおおおおおおおおっ!
私の心の中はもちろん絶叫の嵐だった。
終わってしまった。
私の輝かしい破滅への道が。
私の穏やかで平和な断罪エンドへの夢が。
またしてもこの優秀すぎる仲間たちの手によって、粉々に打ち砕かれてしまった。
それも元を辿れば全部わたくしのせいじゃないの!
「全てはエリーゼ様のお考え通りに進みましたな」
お父様が感極まったように私を見つめる。
その瞳にはもはや尊敬と畏怖の念しかない。
「『犯人を作る』……あの一言が全てを決めるとは。父さんはお前が誇らしいぞ」
(違うの! あれは本当にただの邪悪な悪巧みだったのよ!)
「ええ、本当に素晴らしいご慧眼ですわ」
リリアーナ様もうっとりと私を見つめている。
「悪を滅ぼすためには時に悪の思考を知ることも必要なのですね。本当に勉強になりますわ」
(だからわたくしはただの悪なの! 善の皮を被った悪じゃないのよ!)
もう何を言っても無駄だった。
私の最後の悪あがきは「神の一手」として、ローゼンシュタイン家の歴史に燦然と刻まれてしまったらしい。
こうして私の人生初の知略戦(?)。
その幕は私の完全敗北によって閉じられたのだった。
それも私が最も望まない”大勝利”という、最悪の形で。




