第36話「初の知略戦、開始」
「よし!」
私の何気ない一言が引き起こした熱狂の渦の中で、最初に動いたのはお父様だった。
彼は机をドンと叩いて立ち上がる。
その声はもはやいつもの娘を溺愛する父親のものではない。
幾多の戦場を潜り抜け領地を治める有能な君主、アルベルト・フォン・ローゼンシュタイン公爵の顔だった。
「早速手分けして動くぞ!」
その号令一つで部屋の空気がぴんと張り詰める。
先ほどまでの絶望はどこへやら。
今そこを支配しているのは”反撃”という二文字が放つ熱い熱気だった。
「アルフレッド君!」
「は、はいぃっ!」
呼ばれたアルフレッド君は背筋を伸ばして直立不動の姿勢をとる。
「君はすぐに研究室へ戻り、その”魔力分光分析機”とやらを準備してくれたまえ! 最高の精度で分析できるよう調整を怠るな!」
「王城にいるクラウス様には私から最速の伝令を送る! 彼に王家から証拠品である指示書を借り受けてもらうよう手配しよう!」
「御意! このアルフレッド、女神様のご神託を実現するためこの身命に懸けて!」
アルフレッド君はもはやただの引きこもり天才ではなかった。
その瞳には女神の潔白を証明するという聖なる使命感に燃える聖騎士の光が宿っていた。
彼は深々と一礼すると、まるで戦場へと向かう兵士のように風のような速さで部屋を飛び出していく。
「フェリックス!」
「はっ!」
次に呼ばれたフェリックスがその場で片膝をつく。
「君は君の情報網を使ってグリム家が雇ったというならず者どもの足取りを徹底的に洗い出してくれ!」
「指示書を書いた”偽造屋”が必ずいるはずだ。どんな些細な情報でもいい。そいつを探し出し身柄を確保するのだ!」
「かしこまりました! このフェリックス、エリーゼ様より賜りし女神の御名において!」
フェリックスもまたただの従者の少年ではなかった。
主君の危機に馳せ参じる若き騎士の顔つきで、音もなく影のように部屋から姿を消した。
(……すごいわ。みんなテキパキと動いている)
私はソファの上でただ呆然とその光景を眺めていた。
まるで出来のいい映画でも見ているかのようだ。
そしてその映画の脚本と監督はどうやらこのわたくしということになっているらしい。
何この地獄。
(嫌よそんなの!)
「リリアーナ嬢」
お父様が今度は優しい声でリリアーナ様に向き直った。
「君の勇気ある行動には心から感謝する。だがここから先は我らローゼンシュタイン家の戦いだ。危険が伴う。君はもう屋敷に……」
「いいえ!」
しかしお父様の言葉を遮ったのは、リリアーナ様の凛とした声だった。
彼女はきっぱりとした口調で首を横に振った。
「わたくしはエリーゼ様のおそばにおりますわ」
「わたくしにはアルフレッド様のような素晴らしい知識も、フェリックス様のような影から支える力もありません。ですが……」
彼女は私の手をそっと両手で握りしめた。
その手は温かく、そして少しも震えてはいなかった。
そのアメジストの瞳には揺るぎない決意の光が灯っている。
「エリーゼ様の潔白を信じる心なら誰にも負けませんわ。ですからどうかそばにいさせてください。わたくしも一緒に戦わせてくださいませ」
(……うっ)
そのあまりにも純粋でまっすぐな瞳に、私の腹黒い心がちくりと痛んだ。
ごめんなさいリリアーナ様。
わたくし本当は潔白とかどうでもいいの。
ただ追放されてのんびり暮らしたいだけなの。
なんて口が裂けても言えやしない。
こうして”エリーゼ様を救う会”のメンバーたちはそれぞれの戦場へと散っていった。
部屋には私とリリアーナ様、そしてお父様だけが残された。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。
「……それにしてもエリーゼ」
お父様が改めて感心したように私を見た。
その瞳はもはやただの親バカのそれではない。
未知の才能を目の当たりにした畏敬の念すら含まれていた。
「よくぞあの一瞬で”インク”に気づいたものだ」
「父さんは全く思いつきもしなかったぞ。お前は本当に我らの光だ」
(いやだからあれはただの独り言で……)
「全てはエリーゼ様のお導きですわ」
リリアーナ様がうっとりとした表情で呟く。
「きっと天におわす女神様がエリーゼ様のお口を借りて、私たちにヒントを与えてくださったのですわね」
(女神様ってどこの誰よ!? いい加減にしてちょうだい!)
もうダメだ。
この勘違いの連鎖はもはや誰にも止められない。
巨大な雪玉のようにどんどん大きくなって、私の手に負えない場所へと転がり落ちていく。
巨大な悪意によって仕組まれた完璧な罠。
その分厚い壁に今私の何気ない一言によって、小さなしかし確実な亀裂が入り始めていた。
私の輝かしい破滅フラグを粉々に打ち砕くための、忌々しい亀裂が。
(……ああ神様。もしいるのなら教えてくださいな)
(わたくしはいったいどうすれば、”悪役”になれるのですか?)
私の心の悲痛な叫びはもちろん、誰の耳にも届くことはなかった。




