第35話「逆転の糸口」
(……もうわたくしの人生じゃないわ)
お父様の執務室は今や完全に”エリーゼ様を救う会”の作戦司令室と化していた。
そしてその中心に祭り上げられているわたくし本人はと言えば。
ソファの上で魂の抜け殻のようにぐったりとしているだけだった。
「問題はやはりグリム家が王家に提出したという”指示書”ですな」
お父様が難しい顔で腕を組む。
その視線の先ではアルフレッド君が何やら複雑な設計図を床に広げていた。
「ええ。筆跡鑑定まで済んでいるというのが厄介です」
フェリックスが悔しそうに唇を噛む。
「僕がどれだけエリーゼ様はそんなことをなさる方ではないと証言しても、物的な証拠の前では無力……!」
「そんな……!」
リリアーナ様が悲痛な声を上げた。
「ではエリーゼ様はこのまま罪人として……!」
部屋の空気がずしりと重くなる。
そうよ、そうなのよ!
このままわたくしは罪人として断罪されるの!
だからもうあなたたちは何もしないで、放っておいてちょうだい!
(お願いだから、もう諦めて……!)
私の心の悲鳴も虚しく、天才魔道具師は諦めていなかった。
「いえ、手はあります!」
アルフレッド君がばっと顔を上げた。
「僕が開発した”神の目”……通信逆探知装置を使えば、これまでの嫌がらせ通信がどこから発信されていたかは特定できます!」
「おそらくグリム家の屋敷のどこかでしょう。そこを押さえれば……!」
「しかしアルフレッド君」
お父様が静かに首を横に振る。
「それでは”指示書”が偽物であるという直接の証明にはならんのだ」
「『通信の犯人は別にいる。しかしその計画を立てたのはエリーゼ嬢だ』と言われてしまえばそれまで……」
「ぐっ……!」
アルフレッド君が言葉に詰まる。
そうその通りよ!
もう詰んでるの!
だからもういいでしょう!?
ああ、もう退屈だわ。
この人たちが、ああでもないこうでもないと議論を戦わせている間、私はただぼーっと天井を見つめていた。
前世で会社の不毛な会議に付き合わされていた時のことを思い出す。
そういえばあの時もよく議題とは全く関係のないことを考えて、時間を潰していたわね。
筆跡、ねえ。
前世で見た刑事ドラマか何かで言っていたわね。
インクの成分を分析していつ頃書かれたものか調べるとか、なんとか。
(……まあこの世界にそんな科学捜査、あるわけないか)
私はふあと小さなあくびを噛み殺しながら、ぽつりと誰に言うでもなく呟いた。
「……インクなんて、どれも同じですものねえ」
そう。
ただの独り言だった。
この不毛な会議への当てつけのような、本当に何の意味もないただの独り言。
そのはずだった。
「…………え?」
私のその一言を聞いた瞬間。
それまで難しい顔で設計図を睨みつけていたアルフレッド君が、まるで雷にでも打たれたかのように顔を跳ね上げたのだ。
「……い、インク……?」
彼の血走った瞳がまっすぐに私を射抜く。
そのあまりの気迫に私はびくりと肩を震わせた。
(な、なによその顔……)
「そ、そうです! そうです女神様!」
アルフレッド君は突然床に両手をつくと、わなわなと震える声で叫んだ。
「インクは! 同じではありません!」
「……は?」
「同じ黒インクに見えてもその製造元、製造時期によって含まれる鉱物や植物の成分は微妙に異なるのです!」
「そしてその成分の違いは僕の開発した魔力分光分析機を使えば一目瞭然!」
彼はがばりと顔を上げると、狂喜の表情で続けた。
「つまり! グリム家が捏造した”指示書”に使われたインクと! これまで女神様がお使いになっていたインクの成分を比較すれば!」
「もしそこに違いがあれば! それはあの指示書が”偽物”であるという動かぬ証拠になるのです!」
しんと。
部屋が静まり返る。
お父様もフェリックスもリリアーナ様も、ただ呆然とアルフレッド君と私を交互に見ている。
そして数秒後。
「……おお!」
お父様が全てを理解したというように、ポンと手を打った。
「そうか! その手があったか!」
「すごい……! さすがはアルフレッドさんです!」
フェリックスが興奮したように声を上げる。
「まあ……! エリーゼ様、すごい……!」
リリアーナ様がキラキラした尊敬の眼差しで私を見つめている。
そしてアルフレッド君はと言えば。
再び私の前にひれ伏すと、涙ながらに言ったのだ。
「ああ、女神様……! なんという天啓……!」
「我々凡人が泥沼の中で足掻いている時に、貴女様はただ一言で天の高みから正解への道筋を示してくださるとは……!」
「このアルフレッド、感動で胸が張り裂けそうです……!」
(…………)
私はただ一人。
その感動と興奮の輪の中心で、完全に思考を停止していた。
(……え? なんで? なんでこうなったの?)
私はただ退屈で適当なことを呟いただけなのに。
それがなぜかこの事件を解決するための、決定的なヒントになってしまった。
私の輝かしい破滅フラグは。
私自身の何気ない一言によって今、またしても粉々に打ち砕かれようとしていた。
それもこれまでで最も皮肉で、そして最も残酷な形で。




