第31話「黒い噂」
(……終わった)
私の輝かしい破滅への道は今、完全に終わった。
目の前で忠誠を誓う青い髪のヒーロー様によって、木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。
(なんで……どうしてこうなるのよぉ……)
私の頭の中は真っ白だった。
ただぐるぐると同じ疑問だけが回り続けている。
ヒーローが悪役令嬢を守る?
そんなシナリオ、ゲームのどこにもなかった。
これはもうバグとかそういうレベルの話じゃない。
世界の法則が根底から覆ってしまったとしか思えない。
「クラウス様……! そこまでエリーゼのことを……!」
お父様が感極まった声で、クラウス様の肩を叩いている。
「ああ、エリーゼ様……! クラウス様……!」
マリーはもはや尊さの許容量を超えたらしく、白目を剥いて気絶している。
部屋を満たす感動的な空気。
その中でただ一人。
私だけが絶望のどん底にいた。
(これからどうすればいいのよ……)
私の最大の切り札だった”ヒーローによる断罪”というイベントが消滅してしまった。
それどころかそのヒーロー様が、私の”盾”になるなどと言い出してしまったのだ。
これではまるでラスボスが勇者のパーティーに加入するようなもの。
ゲームバランス崩壊もいいところだ。
私の穏やかで平和な断罪エンドは遥か彼方へと霞んでいく。
もう私には何も残されてはいなかった。
◇
その頃、王都の社交界では。
ある一つの”噂”が、まるで燎原の火のように瞬く間に広まっていた。
「ねえ、お聞きになって?」
「ローゼンシュタイン家の例の事件のことですわよね?」
煌びやかなシャンデリアが輝く、とある侯爵家のサロン。
扇子で口元を隠しながら、貴婦人たちがひそひそと囁き合っている。
「なんでもあの魔導通信機を悪用した一連の騒動」
「あれは全てローゼンシュタイン家の”自作自演”だという話ですわ」
「まあ、なんですって!?」
驚きの声が上がる。
しかしその瞳には驚きよりも、むしろ下世話な好奇の色が濃く浮かんでいた。
「ご自分たちの発明品がどれほど危険なものかを自ら示し」
「そしてそれを解決することで、自分たちの手腕を誇示するおつもりだったとか」
「全てはあの幼い”聖女様”の筋書き通り……ですって」
「なんて恐ろしい……!」
「あんな小さな子供が、そこまで計算高いなんて」
「聖女などと呼ばれておりますけれど、その腹の中は真っ黒ですのね」
悪意に満ちた言葉が毒の華のように咲き乱れる。
つい数日前までエリーゼを”女神”と崇め称賛していたその同じ口が、今は手のひらを返したように彼女を貶めている。
その醜悪な会話の輪から少し離れた場所で。
一人の貴婦人が優雅に紅茶を口に運びながら、その様子を静かに眺めていた。
イザベラ・フォン・グリム。
その美しい微笑みの裏に氷のような冷酷さを隠した女。
「……ふふ」
小さく漏れた笑い声は、誰の耳にも届かない。
彼女がほんの少し蒔いただけの”毒の種”。
それは愚かな貴族たちの嫉妬と憶測を養分にして、見事に芽吹き育っていた。
(さあ、もっと大きくなさいな)
イザベラはそっとティーカップを置いた。
(あの忌々しい小娘が築き上げた偽りの名声など、この黒い噂の泥濘に沈めてしまえばいいのですわ)
彼女の瞳の奥で復讐の暗い炎が静かに揺らめいていた。
◇
その黒い噂は数日も経たないうちに、ローゼンシュタイン家の領地にも届いた。
「……自作自演、だと……?」
報告書を読んだお父様の低い声が、執務室に響き渡る。
その声は怒りのあまり震えていた。
「ふざけるな……! あの子をなんだと心得る!」
「あの子の純粋な善意を……! 我が家の誇りをここまで愚弄するとは!」
机を叩きつける大きな音に私の小さな体が、びくりと跳ねる。
私はお父様の向かいのソファで、ただ小さくなってその様子を見ていることしかできなかった。
(……自作自演)
その言葉の意味を理解した瞬間。
私の心の中に一筋の光が差した。
(……え? もしかしてこれって……)
わたくしが事件を起こして、自分で解決したって思われてるの?
それってつまり。
(わたくしの評判が落ちるってことじゃないのーーーっ!?)
やった!
やったわ!
なんて素晴らしい展開なの!
ヒーロー様に”盾”になるなんて言われてもう絶望の淵にいたけれど、まだ希望は残っていたのね!
私の心は一瞬で晴れ渡った。
そうだわ! このまま噂がどんどん広がればいい!
”腹黒い偽聖女”!
いいじゃないのその称号!
悪役令嬢として最高の肩書きだわ!
「……許せん」
その時、私の隣に静かに立っていたクラウス様が、氷のように冷たい声で呟いた。
「この噂の出所は王都。それもかなり身分の高い者たちの間から広まっているようです」
「間違いなく先日貴女様を守ると誓った、私への挑戦でもある」
彼は私の方をまっすぐに見つめた。
その青い瞳には燃えるような怒りと、そして揺るぎない決意が宿っていた。
「ご安心ください、エリーゼ様」
「この噂を流した卑劣な黒幕は、必ずやこの私が見つけ出してみせます」
そのあまりにも真摯で力強い言葉に、私の心は一瞬で凍りついた。
(……え?)
……みつけだす?
この最高の”破滅フラグ”をもたらしてくれた、噂の出所を?
そしてその黒幕を捕まえて、どうするというの?
まさか。
(……やめてええええええええええええっ!?)
私の心からの悲鳴はもちろん、誰にも届かない。
せっかく手に入れた悪評。
せっかく掴みかけた破滅への蜘蛛の糸。
それをこの正義感の塊みたいなヒーロー様が、またしても断ち切ろうとしている。
私の悪役令嬢計画はもはや私の手を離れ、全く予想もつかない方向へと暴走を始めていた。




