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第30話「ヒーロー、守ると決める」

 ローゼンシュタイン家の領都に一時的に設けられた騎士団の詰所。

 その一室はインクと古い羊皮紙の乾いた匂いに満ちていた。

 机の上に山と積まれた膨大な量の報告書を、ただ一本の蝋燭の頼りない光だけが照らし出している。

 ぱち、と。

 時折炎がはぜる小さな音だけが、息の詰まるような静寂の中でやけに大きく響いていた。


 その光の輪の中心でクラウス・フォン・シュミットは、険しい顔で紙の束を睨みつけていた。

 そのサファイアのような青い瞳は、数日間の徹夜による疲労で僅かに充血している。

 しかしその奥に宿る光は少しも衰えてはいなかった。

 むしろ真実に近づけば近づくほど、その輝きは剃刀のように鋭さを増していく。


「……おかしい」


 ぽつりと。

 誰に言うでもなく呟かれた言葉が、静まり返った部屋に重く響く。


 ここ数日、領内で頻発している”魔導通信機”を悪用した数々の事件。

 最初は単なる悪質な愉快犯の仕業だと思っていた。

 新しい技術に反感を覚えた者たちが、嫌がらせをしているのだと。


 だが被害報告を一つ一つ丹念に突き合わせていくうちに、クラウスはその背後にもっと大きくそして冷徹な悪意が渦巻いていることに気づき始めていた。


「被害に遭っているのはいずれもローゼンシュタイン家と懇意にしている商人ばかり」

「噂の内容も巧妙に計算され尽くしている。人々の不安を煽り、通信機そのものへの不信感を植え付けるように」

「これは単なる愉快犯の仕業ではない。明確な”意志”を持った何者かによる、計画的な”攻撃”だ」


 そしてその”攻撃”の最終的な標的は。


「……エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン」


 彼の口からその名前がこぼれ落ちた時、クラウスの脳裏にあの銀色の髪の幼い少女の姿が鮮明に蘇った。


 何を考えているのか全く読めない、大きな青い瞳。

 子供らしからぬ達観したような態度。

 そして時折見せる突拍子もない言動。


『そんな危険な道具は全て回収して壊してしまえばよろしいのです』


 先日デューク・ローゼンシュタインから聞かされた彼女の言葉が、耳の奥で反響する。

 最初それを聞いた時、クラウスは子供の短絡的な発想だと一笑に付した。

 あまりにも乱暴で、そして非現実的な意見だと。


 だが今なら分かる。

 あの言葉は決して短絡的なものではなかった。

 むしろこの複雑に入り組んだ事件の本質を、的確に射抜いていたのだ。


 敵はローゼンシュタイン家が築き上げた”信用”を逆手に取って攻撃してきている。

 ならばその”信用”の土台となっている通信機そのものを、一度全て止めてしまう。

 それは一見自らの首を絞める愚策に見えて、実は敵の攻撃手段を完全に封じ込め、その間に燻っている悪意の根源を炙り出すための唯一にして最善の一手。

 自らの肉を斬らせて敵の骨を断つ。

 あまりにも大胆で、そして常人には決して思いつくことすらできない壮大な計略。


(……あの少女は、この事態を全て見越していたというのか?)


 ぞくりと。

 クラウスの背筋を今まで感じたことのない、奇妙な悪寒が走り抜けた。

 彼女は一体何者なのだ。

 聖女か、それとも悪女か。

 その二元論で語れるほど単純な存在ではない。

 あれはもっと別の何かだ。

 常人の理解を遥かに超えた場所にいる何か。


 だがどちらであれもはや関係ない。

 確かなことは一つだけ。

 彼女がそしてローゼンシュタイン家が今、卑劣な陰謀によって貶められようとしていること。

 そして自分は王家の名代としてこの地の秩序を守るために、派遣されたということだ。


「……決めた」


 クラウスは静かに立ち上がると、壁にかけてあった愛剣を手に取った。

 鞘から抜き放たれた白銀の刃が蝋燭の光を反射して、きらりと冷たく輝く。

 その刃に映る自分の青い瞳。

 その瞳に迷いはもうなかった。

 そこにあるのは鋼のような硬い決意だけだった。



「……それで、クラウス様はなんと?」


 私はお父様の執務室で目の前に座るその氷の貴公子様に、恐る恐る尋ねた。

 先ほどからお父様とクラウス様の間で何やら難しい話が交わされているのだが、私にはさっぱり内容が分からない。

 ただ部屋の空気がいつもよりピリピリと張り詰めていることだけは分かった。


(まあどうせわたくしの悪事がついにバレて、断罪されるって話でしょうけど!)


 私の心は期待ではち切れそうだった。

 ついに来たのだ!

 このヒーロー様が私の数々の罪状を白日の下に晒してくれる、あの輝かしい瞬間が!

 私はソファの上で小さな足をぱたぱたさせたい衝動を、必死に抑えつけた。

 いけない、いけない。

 悪役令嬢たるもの、断罪のその時までふてぶてしく構えていなければ。


 クラウス様は私の方をまっすぐに見つめると、静かにそしてはっきりと告げた。


「この一連の事件は何者かがエリーゼ様を、そしてローゼンシュタイン家を貶めるために仕組んだ卑劣な陰謀です」


(……うんうん! そうですわ! そうですのよ! わたくしが仕組んだのですわ!)


 私は心の中で激しく同意した。

 さあ続けて!

 その首謀者がこのわたくしだと高らかに宣言なさい!

 この愚かな親バカ公爵に真実を突きつけてやるのですわ!


 しかし続いたクラウス様の言葉は、私の輝かしい未来予想図を根底から覆すものだった。


「故に僭越ながらこのクラウス・フォン・シュミットが、エリーゼ様の”盾”となりましょう」


「……は?」


 ……たて?

 盾?

 シールド?

 今この人、なんて言った?

 私の小さな頭脳は、そのあまりにも想定外の単語を理解することを拒絶した。


 私が呆然と固まっているとクラウス様はすっと立ち上がり、私の前で恭しく片膝をついた。

 その所作はあまりにも美しく、まるで物語のワンシーンのようだった。

 そして騎士が主君に忠誠を誓うあの最敬礼で言ったのだ。


「この身命に懸けまして、貴女様をお守りいたします」

「この陰謀の黒幕を必ずや見つけ出し、貴女様の御前に引きずり出してごらんにいれますと」


 しんと。

 部屋が静まり返る。


 お父様は感動のあまり言葉も出ないというように、目頭を熱く押さえている。

 メイドのマリーは後ろで「尊い……」と小さな呻き声を漏らしながら、白目を剥いて卒倒寸前だ。


 そして私は。


(……いやああああああああああああーーーーーーっ!?)


 心の中で絶叫していた。

 なんで!?

 どうしてそんなことになるのよ!?

 あなたはヒーローでしょうが!

 正義の味方でしょうが!

 悪役令嬢を断罪するのがあなたのお仕事でしょうが!

 守ってどうするのよ!

 それじゃあ物語が始まらないじゃないの!


 私の輝かしい破滅フラグがばきりと嫌な音を立てて、へし折れていく。

 それもこの物語の最重要人物であるヒーロー様ご本人の手によって。


 私の穏やかで平和な断罪エンドへの道は今完全に断たれてしまった。

 それも一番厄介な”正義”という名の巨大な岩石によって、跡形もなく塞がれてしまったのだった。

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