第29話「不穏な影」
ローゼンシュタイン家の領都は活気に満ちていた。
少なくともほんの数日前までは。
「……おい、聞いたか? また被害が出たらしいぞ」
「ああ……。今度は西通りのパン屋がやられたそうだ」
「なんでも存在しない貴族の祝賀会のために、最高級のパンを百個も焼かされたとか……。もちろん代金は一銭も支払われなかったらしい」
「ひどい話だ……。パン屋の親父、泣いてたぜ」
市場の片隅で商人たちがひそひそと声を潜めて、噂話に興じている。
彼らの顔には以前のような明日への希望に満ちた明るい笑顔はない。
あるのは隣の店の仲間すら信じられなくなった疑心暗鬼と、じわりじわりと心を蝕む疲労の入り混じった暗い影だけだった。
全ての始まりはあの”魔導通信機”だった。
数ヶ月前、彗星の如く現れたあの”奇跡の道具”。
遠く離れた相手と瞬時に言葉を交わせるその革新的な技術は、瞬く間にこの街の商取引を塗り替えてしまった。
誰もがそのあまりの便利さを手放しで称賛した。
そしてその”奇跡”をもたらした我らが領主が心から誇る、幼き天才令嬢エリーゼ様を”商売の女神”と崇めた。
だが今。
その”奇跡”は”呪い”へと姿を変えようとしていた。
「うちの店も変な噂を流されてもうめちゃくちゃだ。長年のお得意様まで離れていっちまった」
「うちはもっとひでえ。大事な取引の値決めの情報がどこかから抜き取られて、ライバル店に全部持っていかれた」
「一体誰がこんなひどいことを……。俺たち商人から金を奪って、何が楽しいってんだ」
誰が?
その答えは誰にも分からない。
犯人は決して姿を見せず、ただあの便利な魔導通信機という仮面の裏から人々を嘲笑っているかのようだった。
信頼は恐怖に。
感謝は不信に。
かつて”奇跡の道具”と呼ばれた魔導通信機は、今や”呪いの道具”と呼ばれるまでになっていた。
そしてその不穏な空気は当然、ローゼンシュタイン家の壮麗な屋敷の中にも色濃く立ち込めていた。
(……うわあ、すごい雰囲気悪い……)
私は自室のテラスの椅子に座り、眼下に広がる領都の様子をぼんやりと眺めながら心の中で深いため息をついた。
ここ数日、屋敷の中はまるでお通夜のような重苦しい空気に包まれている。
メイドたちは廊下の隅でひそひそと囁き合い、騎士たちはいつも以上に厳しい顔で屋敷の警備に当たっている。
原因はもちろん分かっている。
魔導通信機を悪用した連続嫌がらせ事件。
そのせいで領民たちの間に得体の知れない不安が広がっているのだ。
(ふふ……ふふふ……!)
私は込み上げてくる笑いを必死に堪えた。
やった!
やったわ!
ついに私の発明 (したことになっている)品が、人々に不幸をもたらしている!
これよ!
これこそが悪役令嬢としての本懐!
聖女だの女神だのという不名誉な称号を返上する、またとないチャンス!
しかし。
私のそんな邪悪な喜びとは裏腹に。
心の奥の奥の方で。
前世の三十代、しがない会社員だった私のちっぽけな良心が、ちくりと針で刺されたように痛んだ。
(……でも、ちょっとやりすぎじゃないかしら?)
私の目的はあくまでローゼンシュタイン家の評判を落とし、私自身が断罪されること。
別に何の罪もない領民の人たちを不幸にしたいわけではない。
偽の注文で丹精込めて焼いたパンを大量に廃棄させられたパン屋さん。
悪質な噂で長年の信用を失ってしまったお店の人。
彼らの悲しむ顔を想像すると、さすがに胸が痛む。
(うう……! でもここで同情してはダメよ、わたくし!)
(悪役令嬢たるもの民衆の嘆き悲しむ声こそ、極上の子守唄としなければ!)
(そうよ心を鬼にするのよ! これも全てはわたくしの平和な追放生活のため!)
私が一人天使と悪魔の壮絶な内面バトルを繰り広げていると。
「エリーゼ様」
背後から心配そうな声がかけられた。
振り返ると専属メイドのマリーが、悲しそうな顔で立っていた。
そのいつもは楽天的な彼女の瞳も、ここ数日の領地の不穏な空気のせいか少し曇っているように見えた。
「……マリー」
「窓の外をご覧になっていたのですね。街の様子を」
「……ええ、まあ」
「……お辛いでしょう」
マリーは潤んだ瞳で私を見つめた。
「エリーゼ様が領民のことを深く深く思って心を痛めていらっしゃるお気持ち、このマリーには痛いほど分かります」
(……え? あ、はい、まあそういうことにしておきましょうか)
私が曖昧に頷くとマリーはさらに感動したように、胸に手を当てた。
「ああ、なんてお優しいのでしょう!」
「ご自身がもたらした奇跡が悪しき者たちの手によって、人々を苦しめている……!」
「そのお苦しみ、いかばかりかと……! このマリー、代われるものなら代わってさしあげたい!」
(いやどっちかっていうと、「計画通り!」ってガッツポーズしてたんですけど……)
もはや何を言っても無駄だ。
この超絶ポジティブメイドには私の邪悪な本心など、永遠に届きはしないだろう。
私が諦めの境地で遠い目をしていると、マリーはきゅっと拳を握りしめた。
その瞳に再び強い光が宿る。
「ですがご安心くださいませ!」
「旦那様がエリーゼ様の深遠なるお考えを実行に移されると、お聞きいたしました!」
「きっとすぐにこの悪夢のような日々は、終わりを告げますわ!」
(……深遠なるお考え)
あああれのことね。
私が適当に言った「全部壊しちゃえば?」という悪魔の囁きが、なぜか壮大な逆転の一手として採用されてしまったあの計画のこと。
私の知らないところで物語は着々と進んでいるらしい。
領都に垂れ込める暗雲。
それは私の破滅への輝かしい前兆か。
それともまた新たな勘違い伝説の始まりを告げる、忌々しい号砲か。
どちらに転んでも私の平穏な未来は、どこにもないことだけは確かなようだった。




