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第28話「悪役令嬢、狙われる」

 その夜、グリム家の屋敷の一室はまるで時が止まってしまったかのように、冷え冷えとした静寂に包まれていた。

 窓から差し込むどこまでも冷たい月明かりだけが、部屋の主の氷のような横顔を青白く浮かび上がらせている。

 イザベラ・フォン・グリムは一人静かに、机の上に広げられた一枚の精巧な領地の地図を見下ろしていた。

 その白い絹の手袋に包まれた指先が、ゆっくりと地図の上を滑る。

 まるで獲物の急所を探る毒蛇のように。

 そしてある一点でぴたりと止まった。

 ローゼンシュタイン家の領都。

 今や大陸でも有数の活気に満ち溢れているという、あの忌々しい街。


「……ふふ」


 静寂を破ったのは彼女の唇から漏れた、鈴を転がすような、しかしどこまでも冷たい笑い声だった。


(聖女? 女神? ……本当に笑わせてくれるわ)


 彼女は昼間の夫の無様な取り乱しっぷりを思い出し、内心で深く深くため息をついた。

 あの人は何も分かっていない。

 あの銀髪の小娘の本当の恐ろしさを。

 あれはただの子供ではない。

 ましてや聖女などというおめでたい存在であるはずもない。

 あれは五歳という、か弱い愛らしい幼女の仮面を被った、恐るべき”怪物”。

 その小さな頭脳の中には一体どれほどの知略と計算が渦巻いているというのか。


(ええ、そうよ。あれはわたくしと同じ種類の人間)

(ただわたくしよりも遥かに狡猾で、そして遥かに”上手”な役者)


 だからこそ許せなかった。

 自分と同類、いやそれ以上の”怪物”が”聖女”の仮面を被り、世間の称賛を一身に浴びていることが。

 そして何よりも自分の愚かな夫が、その”怪物”によって道化のように転がされ、グリム家の誇りが地に堕ちたことが。


「……もうこれまでのような小細工は終わりよ」


 イザベラは静かに呟くと、机の上の小さな銀のベルを鳴らした。

 ちりん、と。

 乾いた、しかしよく通る音が響くと、すぐに音もなく部屋の扉が開き一人の影のような男が滑り込んできた。


「お呼びでございますか、奥様」


 男は深々と頭を垂れる。

 その声には恐怖とそして絶対的な忠誠の色が滲んでいた。


「ええ」

 イザベラは椅子に座ったまま、冷たく言い放った。

「計画を始めるわ」

「……は。して、どのように?」


 イザベラの唇がゆっくりと三日月のように歪んだ。

 それはぞっとするほど美しく、そしてどこまでも残酷な笑みだった。


「あの小娘がもたらした”奇跡”……。あの忌々しい”魔導通信機”を使うのよ」

「……と申しますと?」


「簡単なことよ」

 イザベラはまるで子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「”奇跡”は使い方を一つ間違えれば、容易く”呪い”に変わる」

「私たちはその手助けをして差し上げるだけ」


 彼女はすっと立ち上がると窓辺に歩み寄り、月明かりに照らされた王都の夜景を見下ろした。

 その背中は恐ろしいほどまっすぐに伸びている。


「まずは”噂”を流しなさい」

「魔導通信機を使って商人たちの間に偽りの情報を流すのよ。『あそこの店は腐った肉を使っている』、『あの商会はもうすぐ潰れる』……。何でもいいわ。小さく、しかし確実な毒を一滴ずつ垂らすように。人々の心に不安と疑心暗鬼の種を植え付けなさいな」


「……ははっ」


「次に”実害”を与えなさい」

「ローゼンシュタイン家と懇意にしている店をいくつか選びなさい。そして魔導通信機で偽りの大量注文を入れるの。もちろん支払いはしない。彼らの何代もかけて築き上げてきた信用と、汗水流して稼いだ財産を同時に奪いなさいな」


「……御意」


「そして最後に」

 イザベラはくるりと振り返った。

 その瞳の奥で冷たくそして鋭い毒蛇のような光が揺らめいていた。

「その全ての混乱の元凶が誰なのか、愚かな民衆に”気づかせて”あげるのよ」


「……元凶でございますか?」


「そう」

 イザベラは恍惚とした表情で囁いた。

「そもそもこんな便利で危険な道具を世に放ったのは、誰なのかしら?」

「この混乱は全てあの”聖女様”がもたらした”呪い”なのだと」


 男はゴクリと息を呑んだ。

 その計画のあまりの悪辣さと、そしてその芸術的なまでの美しさに、背筋が凍るような戦慄を覚えた。

 自分たちの手は一切汚さない。

 ただ少しだけ背中を押してあげるだけ。

 そうすれば愚かな民衆が勝手に疑心暗鬼に陥り、自分たちで”聖女”を”魔女”として断罪台に引きずり下ろしてくれる。


「さあ、お行きなさい」

 イザベラはまるで歌うように言った。

「あの小娘が築き上げた砂上の楼閣を、内側から美しく崩しておしまいなさい」


「……ははっ!」


 影のような男は再び深く一礼すると、音もなく部屋から消えていった。


 一人残された部屋でイザベラは再び窓の外を眺めた。

 その唇には満足げな笑みが浮かんでいる。


(見てなさいな、エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン)

(あなたのその”聖女”という化けの皮、このわたくしが自らの手で一枚残らず剥いで差し上げるわ)



 その頃、ローゼンシュタイン家の屋敷では。

 一人の幼い少女が自分の部屋の豪奢な食卓の前で、小さな戦争を繰り広げていた。


「いやですわ! お野菜なんて絶対に絶対に食べませんからね!」

「まあエリーゼ様、わがままはいけません。お体に毒ですわ」

「毒なのはこの緑色の森のような物体の方ですわ! わたくしはお肉とお菓子だけで生きていけるのです!」


 フォークを小さな盾のように構え、目の前の皿に鎮座するブロッコリーを睨みつける。

 専属メイドのマリーと史上稀に見る低レベルな攻防を繰り広げる、エリーゼ・フォン・ローゼンシュタイン五歳。

 彼女の輝かしい”聖女伝説”の裏側で静かにそして確実に、破滅へのカウントダウンが始まってしまったことなど。

 もちろん知る由もなかった。

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