第27話「グリム家、焦る」
王都に構えられたグリム家の壮麗な屋敷。
その一室はまるで時が止まってしまったかのように、冷たく重い沈黙に支配されていた。
磨き上げられた黒檀の机、壁一面を埋め尽くす革張りの書物、そして窓から差し込むどこまでも冷たい月明かり。
その豪奢でしかしどこか生命感の欠けた空間の中心に。
ヴィクトール・フォン・グリムはまるで石像のように、微動だにせず座っていた。
ガシャン! と。
突如、甲高い破壊音がその息の詰まるような静寂を切り裂いた。
ヴィクトールが手に持っていた上質な葡萄酒のグラスを、大理石の床に叩きつけたのだ。
粉々に砕け散ったクリスタルの破片が月光を反射して、きらきらと無機質に輝く。
真っ赤な液体がまるで流された血のように、じわりじわりと高価なペルシャ絨毯に醜い染みを広げていった。
「……ありえん!」
ヴィクトールの獣のような低い唸り声が、部屋の空気を震わせた。
その顔は怒りと屈辱、そして何よりも理解不能なものへの底知れない恐怖によって、醜く歪んでいた。
「ありえん! あってはならんことだ!」
彼の目の前の机の上には王城の舞踏会での出来事が詳細に記された報告書が、無残に広げられていた。
つい先ほど密偵から届けられたばかりの、その忌々しい紙の束。
そこに書かれていた全ての美しいインクの文字が、まるで彼の神経を一本一本引き抜く拷問器具のように思えた。
「あの小娘……! あのローゼンシュタインの銀髪の化け物が!」
ヴィクトールはわなわなと震える拳で、机を力任せに叩いた。
ずしりと重い音が響き、机の上のインク瓶がカタカタと小さな悲鳴を上げる。
「あのクラウス・フォン・シュミットを手玉に取っただと!?」
「女に一切の興味を示さぬことで有名なあの氷の貴公子が、自らあの五歳の小娘をダンスに誘っただと!?」
「挙句の果てには、いじめられていたあのアウグスト家の田舎娘まで、庇ったというではないか!」
報告書の内容はにわかには信じがたいものだった。
いや心の底から信じたくなかった。
豊穣の聖女?
技術革新の女神?
笑わせるな。
全てはあの老獪なアルベルト・フォン・ローゼンシュタインが仕組んだ、壮大な茶番劇に決まっている。
そう思っていた。
しかしその茶番劇が今や王家の懐刀であり、何者にも靡かぬはずの正義の化身、クラウス・フォン・シュミットまで取り込み始めたのだ。
これはもはや看過できる状況ではない。
ローゼンシュタイン家の勢力拡大が、自分たちの喉元に突きつけられた刃のように感じられた。
「一体どうなっている! あの小娘はどんな妖術を使ったのだ!」
ヴィクトールが苛立ち紛れに近くにあった高価な壺を蹴り飛ばそうとした、その時だった。
「……およしになって、あなた」
静かだが背筋が凍るような冷たい声が、彼の動きをぴたりと止めた。
いつの間にか部屋の入り口に、彼の妻イザベラ・フォン・グリムが立っていた。
彼女はまるで能面のような無表情で部屋の惨状を一瞥すると、ゆっくりと夫の元へと歩み寄る。
そのシルクのドレスが床を滑るかすかな衣擦れの音だけが、やけに大きく響いた。
「物に当たったところで何も解決はいたしませんわ」
「……イザベラか」
ヴィクトールは忌々しげに妻の顔を睨んだ。
「お前は平気なのか! 我らグリム家の面子は今や地に落ちたのだぞ!」
「全てあの小娘のせいだ!」
「ええ、存じておりますわ」
イザベラは少しも動じなかった。
彼女は夫が叩きつけた報告書を、そっと白い指先でつまみ上げる。
その美しい柳眉がほんのわずかにひそめられた。
しかしその瞳の奥に宿っているのは、怒りや焦りではなかった。
もっと冷たくそして獰猛な、まるで獲物を寸分違わず分析する爬虫類のような光だった。
(……本当に愚かな人)
イザベラは内心で自分の夫を嘲笑った。
(ただ怒鳴り散らし物に当たるしか能がない。だからあなたはいつまで経っても、あのアルベルト・フォン・ローゼンシュタインの後塵を拝することしかできないのですわ)
彼女の脳裏に浮かぶのは、あの銀色の髪の幼い少女の姿。
聖女? 女神?
そんな馬鹿げた称号ではない。
あの少女はもっと恐ろしい何かだ。
(あれは”怪物”よ)
五歳という、か弱い愛らしい幼女の仮面を被った、恐るべき”怪物”。
その小さな頭脳の中には一体どれほどの知略と計算が渦巻いているというのか。
農業革命、技術革新、経済活性化……。
そして今度は王家の懐刀と最近になって社交界に顔を出し始めた、あの田舎貴族の娘の人心掌握。
全てが出来すぎている。
偶然で片付けられるレベルを遥かに超えているのだ。
これは全てあの少女が描いた筋書き。
ローゼンシュタイン家をこの国の頂点に押し上げるための、壮大で恐ろしい計画。
「……あなた」
イザベラは静かに報告書を机に置くと、夫に向き直った。
「もうこれまでのような小細工は通用いたしませんわ」
「あの怪物を潰すには、こちらも相応の覚悟を決めなければ」
「……どういう意味だ?」
イザベラの唇がゆっくりと三日月のように歪んだ。
それはぞっとするほど美しく、そしてどこまでも残酷な笑みだった。
「あの小娘の”聖女”という化けの皮。わたくしが自らの手で剥いで差し上げましょう」
「彼女がもたらした”奇跡”は、使い方を一つ間違えれば容易く”呪い”に変わるのですわ」
彼女の瞳の奥で冷たくそして鋭い毒蛇のような光が揺らめいた。
ヴィクトールはその妻の尋常ならざる気配に、ゴクリと息を呑む。
今目の前にいるのは自分の知っている妻ではなかった。
もっと冷徹で狡猾で、そして底知れない何かだった。
エリーゼ・フォン・ローゼンシュタインの意図とは全く無関係な場所で。
彼女の破滅を願う真の悪意が、今静かに、しかし確実にその牙を研ぎ澄ましていた。
嵐はもうすぐそこまで迫っていた。




